鎖
「だってお前、すげえ勇気あるんだもん」
そう言ったときのカズマの声が、まだ耳に残っている。
何の屈託もない、称賛の言葉。
今までヒロナリは、そういう言葉をかけられたことがなかった。
運動はだめだが、勉強ならば同学年の子たちに比べて格段にできるヒロナリのことを、学校の先生たちはあまり褒めない。
マンガの世界では勉強のできる子はたいてい先生のお気に入りだが、現実の小学校の先生は、できない子への配慮、というやつなのだろうか。勉強のできる子を滅多に褒めない。
正確には、勉強だけができる子を褒めない。
しばしば褒められるのは、スポーツや芸術などの一芸に秀でている子、それからしっかりと授業中に発言や発表をする子だ。
ヒロナリにはどちらもなかった。
それでもテストで満点を取れば、同級生たちには羨ましがられることもある。
しかし、勉強がどんなにできても、彼に付きまとう評価は「ガリ勉」「勉強しかできないやつ」だった。だから、同級生たちは彼の成績を称賛するとき、こう言う。
「勉強“は”すごいよね」「勉強“は”できるんだね」
“は”。
そのたった一つの助詞が、どれだけヒロナリの自尊心を傷つけることか。
けれど、皮肉まじりにも褒められるならまだましな方だ。
ヒロナリの両親は、ヒロナリがどんなにいい成績をとっても眉一つ動かさない。
小学校の勉強などオール満点で当然だと思っているからでもあり、彼の兄が実際にそうだったからでもある。
どうしてテストは百点どまりなんだろうな、とヒロナリはいつか考えたことがある。
スポーツや芸術なら、自分の限界に挑戦して際限なく能力を伸ばして、それを可視化できるじゃないか。だけど、テストはそこに出された問題を全部解けばそれで終わりだ。
本当は、僕はもっと知っている。この問題では省略されているあれも、これも、全部解説することだってできる。だけど、それでは点数は増えない。僕のテストには他の誰かと一律の、ただの百点を付けられる。
そんなヒロナリにとって、あのときのカズマの称賛はまさに不意打ちだった。自分が思ってもみなかった方向からの、何の打算もない賞賛。
不覚にも、ヒロナリの心は震えた。
運動会のために走る練習をする、などという似合わないことをやってみたのも、結局はカズマがそれを教えてくれたからだ。
カズマは、ヒロナリを認めてくれた数少ない人間だ。
けれど、ヒロナリはその感謝を素直には伝えられなかった。今まで皮肉まじりにしか褒められたことのない人間だから、自分でも皮肉をまじえずに本音を話すことができない。
そして、今日。
ヒロナリは、やはりカズマは自分とは違う世界の人間なのだということを実感した。
カズマは親に縛られていない。だから、何のためらいもなく「今日もゲームやろうぜ」「レベル上げとけよ」などと言う。
だが、運動会では同じ教室弁当組だったにもかかわらず、ヒロナリの親はカズマの親とは全く違う。ヒロナリの両親は彼にゲームなど許しはしない。
だから、ヘリオス・ネオを持っているということは、ヒロナリの十一年間の人生で最大の秘密だった。
カズマたちとゲームができるのは、塾のある日の隙間時間だけ。
レベル上げだって、親の目を盗んでやらなければならない。常に部屋の外の気配に耳を澄ませ、わずかでも物音がしたら、ヒロナリはすぐにゲームを机に隠す。
だからヒロナリが「暗黒竜の秘宝」のBGMを聞いたのは、公園でカズマと遊んだ時が初めてだった。家で音を出してプレイするなんて、夢のまた夢だった。
自分のやっているゲームがカズマやリンのゲームと繋がったときには、確かにヒロナリも興奮した。
自分の中でだけ育てていた秘密の世界が、外に向かって大きく膨らんだような気分になった。
けれど、それは予想もしなかった危険と隣り合わせだった。
ゲームの世界が現実を侵食し始めたら、もう自分の手には負えなくなった。
カカマナットが現実世界を跋扈しているニュースを見て、あいつをどうにかしなければという義務感に駆られたのは事実だ。それは彼の中に眠っていた、少年の正義感と冒険心とでも呼ぶものの為せる業だっただろう。
だが、カカマナットをどうにかできるわけなどなかった。
ヒロナリには母の目があり、自由にゲームに興じる権利などないのだから。
昨夜、塾から持ち帰った模試の結果について、些細なケアレスミスがあったために小一時間、母から叱責を受けた。
それだけならばいつもと変わらないが、説教の最後に母は、不意に探るような目つきでヒロナリを見た。
「あなた、最近様子が変よね」
「え?」
どきりとした。
「何か、私に隠してるわね」
「何かって、何を」
ヒロナリはとぼけたが、頭の中に赤と黄色のゲーム機の姿が浮かんで消えた。
「それが何かは、あなた自身が一番知ってるでしょう」
母は言った。
「それを話せって言ってるのよ。隠し事をしてるのは間違いないんだから」
「してないよ」
表情を変えずに。
声を震わせずに。
目を逸らさずに。
気取られるな。勘付かれるな。
平静を保て、僕。
「僕、隠し事なんてない」
「その目」
母は、ヒロナリの目を睨みつけた。
「ヒロカズがいなくなる前と、すごく似てる」
その言葉にヒロナリは絶句する。
「あなたは、私たちを裏切らないでね。ヒロナリ」
これは、鎖だ。
母の言葉が鎖となって、ヒロナリの両足に絡みつく。
世界がどうとか、ドラゴンがどうとか。
そんな気持ちは一気に萎えた。
「分かってるよ、母さん」
ヒロナリが言うと、母はようやくわずかに口元を緩めた。