ヒロナリ
六宮ヒロナリは小学五年生。学校の運動がとにかく嫌いだった。
歩いて、走って、階段を上り下りして、ちょっとした水たまりを跳び越えて。
現代人ってそれくらいの運動能力があれば生きていくのに十分なんじゃないの、というのが、ヒロナリの持論だ。
原始時代じゃあるまいし、ごろごろとでんぐり返しを繰り返したり、高く積んだ箱を跳び越えたり、棒にぶら下がってぐるぐる回ったり。そんなことを練習して、いったいいつ使おうというのか。
走る速さをほかの同級生と競わされるのだって、意味不明だ。
50メートル走るのに8秒かかったって9秒かかったって、12秒だって13秒だって、大した違いはないじゃないか。どっちにしたって車やバイクには敵わないんだから。
そんなことは、人類の限界に挑戦する100メートル走の世界記録保持者みたいな人たちに任せておけばいい。
百歩譲って、記録を測定するのはいいとして、学校の外から両親や祖父母まで呼んで子供の駆け比べを見世物にしようという下品な発想はどこから出てくるのだろう。
運動会というのは本当に愚劣極まりない野蛮なイベントだと思う。
そんな風に学校でのあらゆる運動を憎むヒロナリだが、体育以外の科目は抜群に成績が良かった。
テストではいつも百点ばかり取るので、そのひょろっとした容貌と相まってクラスの一部の連中から「ガリ勉」と呼ばれていることは知っていた。でも、ヒロナリは別にガリガリと勉強したことはない。
小学校で勉強する程度のことなら、人並に授業を聞き、あとは常識の範囲で本や新聞を読んで、大人の話でも聞いていれば、理解できるものに過ぎないと思っていたし、事実、彼にとってはそうだった。
彼が家で勉強しているのは、別に成績のためでも何でもないのだ。
ヒロナリの成績が(体育以外は)すこぶる良いことが分かると、四年生の頃からだろう、両親の期待はようやく彼に移った。
それが中学受験の準備を始めるタイミングでもあったからだろう。
それまで両親の関心は常に兄に向けられていた。20歳の誕生日に、忽然と姿を消してしまった兄のヒロカズに。
「運動会って、お昼はみんなどうするの?」
二人だけの夕食のとき、母がそう言った。二週間後に迫ったヒロナリの運動会について、母が口にするのはそれが初めてだった。
「家族が来る人はグラウンドで家族と食べて、来ない人は教室で先生と食べるって」
「家族が来ない子って、結構いるの?」
「いるよ」
ヒロナリは短く答える。
「そう」
母の表情を見て、ヒロナリは母が自分にどう言ってほしいのかを察する。その程度のことを読み取るのは、もうヒロナリには造作もないことだった。
「来なくていいよ。どうせ徒競走だって一番遅いグループの最下位争いだし、見られる方が恥ずかしいから」
ヒロナリが言うと、母はほっとした顔をする。
「そう? それじゃあそうしようかしら」
お父さんも仕事で来られないって言ってるし、と言い訳するように言った後で、母はまるで罪悪感を埋め合わせるように、
「お弁当にヒロナリの好きなもの、たくさん入れるわね」
と付け加えた。
好きなものなんてないよ。
その言葉をヒロナリはいつものように飲み込む。
自分の部屋に戻って勉強机の椅子に座り、ヒロナリは引き出しを開けた。重ねたファイルの下から、古い携帯ゲーム機を取り出す。
ヘリオス・ネオと呼ばれるそれが、親からゲーム機を買ってもらったことのないヒロナリの唯一手に入れたゲーム機だった。
ゲームなんてしているとばかになるのよ、が口癖の母は、どんなに頼もうとゲームを買ってくれはしなかったし、いつも仕事で帰りの遅い父も、お母さんに相談しなさい、としか言ってくれなかった。
だから、これを親に見付かるわけにはいかない。絶対に。
クラスには運動のできない子たちも結構いるが、彼らがいつも話している話題の中心は、ゲームだった。
しかしヒロナリにはゲームのことは全く分からなかった。だからヒロナリは、いつも孤独だった。
ヒロナリは、ガリ勉ではない。ただ、他にやることがないから、ほかのことをやることを許されていないから、勉強をしているだけのことだ。
冬休みの講習が終わったら、塾を週三から週四に増やすと母が言っていた。
中学受験まで、あと一年しかないのだから、と。
兄の辿ったルートを、自分も辿ろうとしている。
このままなぞっていったら、僕も20歳になったとき書置きを残して失踪するんだろうか。
そんなことを考えながら、ヒロナリはヘリオス・ネオの電源を入れた。
ホーム画面に表示されるのは、兄が買い揃えたであろう、昔のゲームたち。
いなくなってからもそのままになっている兄の部屋を覗いた時に、ヒロナリは偶然学習机と壁の間に挟まっていたこれを見つけた。
大人の目線の高さでは、決して見付けられなかっただろう。ヒロナリの背丈だからこそ、見付けることができた。
あの兄が、ゲームをしていたなんて。
意外な気持ちだった。
親が兄にだけゲームを許していたはずはない。
ヒロナリもゲームをしている兄の姿なんて見た記憶はない。
もしもそんな姿を目にしていたら、泣いて喚いて僕にもやらせてくれとねだったに違いないからだ。
きっとお年玉か何かで、こっそりと買ったのだろう。
本体のほかに、ソフトは一本もなかった。本体の中にデータとして入っていたのは、今でも続編が作られているようなメジャーなゲームばかりだった。
兄は、ゲームというものを試しにやってみたかっただけなんじゃないだろうか。
ヒロナリはそう思っていた。
その証拠に、どのゲームにも大してやり込まれた形跡はなかった。
その日から、ヘリオス・ネオはヒロナリの甘美な秘密になった。
古いとはいえ、最大手のゲーム会社の出していたゲーム機だけあって、サポートはしっかりしている。今でもネットに繋げば、たまに新しいゲームがダウンロードできることもあるのだ。
ホーム画面の右上に光る通知アイコンをその日もヒロナリは何気なくクリックした。
それから、そこに表示された文章に首を傾げた。
『「暗黒竜の秘宝」がインストールされました。』
見覚えのないゲームの名前。
インストールを許可した覚えもない。
だが、画面には確かにそう書かれていた。