転移
リレーに逆転勝利したおかげで、5年1組が見事に学年優勝し、今年の運動会は終わった。
見に来ていた父兄の多くは、閉会式の後もまだ校庭に残っている。そして片付けの終わった児童から順に急いで校庭に飛び出して、家族と合流して帰宅していく。
誰も見に来ていないので特に急ぐ必要もないカズマは、先生を手伝って体育倉庫にカラーコーンを運び込んでいた。
今帰って、またタカキの母ちゃんに声をかけられたりするのもめんどくさい。
閉会式の直後に腕を掴まれて「カズマちゃん、ありがとうねえ」と大きな声で言われた時は、正直恥ずかしかったし、ばつも悪かった。
あんな思いをするのは、一度で十分だ。少し遅れて帰るくらいでちょうどいい。
倉庫の隅で色ごとにコーンを重ねていると、こまごまとした道具の入った段ボールを持ったリンとヒロナリが入って来た。
「あれ、カズマがいる」
リンが弾んだ声を上げる。
「もう帰ったのかと思ってた」
「お前らこそ、まだいたの」
「これ片付けたら帰るよ」
リンが言う。
「今日、ヒロも塾ないんだって」
「へえ」
カズマはいいことを思いついた。
「じゃあ、これから三人で暗黒竜の秘宝やるか」
「いいね」
リンがすぐに頷く。
「あ、いや」
逆に、ヒロナリは気まずそうな顔をした。
「僕、塾以外で家からは出られないんだ」
「そうなのか」
「うん。だからごめん」
なんか大変だな、とカズマは思う。家から出られない、なんてことがあるのか。
「それなら、次のヒロの塾の日だね。またいつもの公園で」
「だな。ヒロ、それまでにレベル上げとけよ」
「うん」
そんなことを話しながら、三人で連れ立って倉庫を出たときだった。
傾きかけた太陽に照らされた校庭。その光景が、突然ぐにゃりと歪んだ。
「あっ」
貧血だ、とヒロナリは思った。
普段ろくに運動しないのに、急に頑張りすぎたから貧血を起こしてしまった。
昔、一年生の時に一度、朝礼集会で倒れたことがある。あいつ男子のくせに情けねえ、とからかわれて、「ガリ勉」というあだ名を付けられる原因の一つになった出来事だ。
「うわっ」
「えっ、何これ」
けれど、隣のカズマとリンからも驚いた声が同時に上がったのを聞いて、これは僕だけに起きてることじゃない、と理解した。
これは貧血じゃないのか。それじゃあ。
この感覚を、ヒロナリは知っていた。
これは。
「異界、だ」
「異界、だ」
ヒロナリの発した言葉は、静まりかえった庭園の奥に吸い込まれていった。
予感の通りだった。
そこは、今までに二度訪れたことのあるあの庭園だった。
校庭の砂っぽい風とはまるで質の違う、緑の匂いをたっぷりと含んだ風がヒロナリの頬を撫でた。
「まじかよ」
カズマが言った。
困惑した表情のカズマの、運動会の体操着はこの庭園には何とも不釣り合いだった。
まあそれは僕も一緒か、とヒロナリは自分の体操着を見る。
「何でいきなり、ここに放り込まれたんだよ」
カズマは錆びた金属製の門を見上げてぼやいた。
「ゲームもしてねえのに」
それはヒロナリも疑問だったが、もっと気になることがあった。
「カズマ君」
ヒロナリは周囲を見回す。
「また三条さんがいない」
「え?」
カズマもようやくそれに気付いた。
前回、ミダスフを倒した後に異界に来たときと同じだった。また、リンだけがいない。
「あいつ、ここに飛ばされるの下手なんじゃねえの」
カズマは舌打ちした。
「おーい、リン!」
大きな声でリンを呼ぶが、やはりその声は人気のない庭園の奥に吸い込まれるようにして消えた。
返事は、どこからも返ってこない。
「仕方ねえ」
カズマは頭を掻いた。
「ヒロ。奥に行ってみようぜ」
「うん」
二人は並んで門をくぐり、道を歩く。
色とりどりの花が道にまでせり出してきていて、少し歩きづらかった。
「ここって、前の二回と同じところなのかな」
カズマが足元の青い花を飛び越しながら言うと、ヒロナリは首を振った。
「違うと思う」
「なんで?」
「門の形が違ったから」
ヒロナリは背後の門をちらりと振り返る。
「一回目のときは、何が何だか分からなかったから、門なんてよく見なかった。だけど、二回目の時はしっかりと見てたんだ。だから分かるよ。あの門は、二回目に見た門とは違う」
「どこが違うんだよ」
カズマも門を振り返った。
「俺には、同じに見えるけどな」
「ぼんやりと全体を見ていると、イメージだけの問題になってしまうから、似ているようなそうでもないような、曖昧な感じになる。だから僕は細かい部分を覚えておくことにしたんだ。門の角とか足元の部分とか」
そして、そのいずれもヒロナリの記憶している門とは形状が違った。
だからこれは違う門であると自信を持って言える。
「へえ」
カズマは感心したようにひとつ頷いた。
「やっぱお前は頭いいな」
「そうでもないけど」
この程度のことは、ヒロナリと同じ塾に通っている子供たちならみんな考えつくだろう。
誇る気にはならなかった。
カズマが明るい声で、
「俺、バカだからさ。そういうの全然わかんねえ」
と言う。ヒロナリは、違う、と言いたかったが、その後に続く言葉がまとまらなかった。
何と言えば、嫌味でも謙遜でもなく、今の気持ちを伝えられるのか。
それが分からない。
ほら、僕は頭なんて良くない。
結局、無言を選択したヒロナリは思う。
人に自分の気持ちを伝えるという経験がほとんどないから、こういう時に何て言えばいいのか分からない。
国語の成績がいくら良くたって、自分の言葉で話すことができない。
当のカズマは気にした様子もなく、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていた。
時々、思い出したように「リン!」と叫ぶが、やはり返事はない。
やがて、道の先に小さなテーブルがあるのが見えた。
その上には前回まで同様、金属製の小箱が置かれている。
「……秘宝だ」
カズマとヒロナリは顔を見合わせた。
「俺たち、ボスも倒してねえぞ。何で秘宝があるんだよ」
「……分からない」
二人は小箱の前に立つ。
「リンがいないのに、開けるわけにはいかないよな」
「うん」
「じゃあ探すか」
「そうだね」
二人は脇の茂みに足を踏み入れた。
だが、茂みをかき分けていくと、やはりすぐに大きな壁に行く手を阻まれた。
左右、どちらも同じだった。
名前を呼びながら小箱の前に戻ってきたが、リンの姿はなかった。
「あいつ、どこに行ったんだよ」
カズマが苛立った声を上げる。
「それとも、あいつだけここに来てねえのかな」
そのとき、黙って小箱を見ていたヒロナリが不意に、蓋に手を伸ばした。
「おい!」
カズマは声を上げる。
箱を開けて秘宝を手に入れれば、自分たちは元の世界に帰れる。だが、リンがこの場にいなければ、一緒に帰れなくなってしまう。
「だめだ、ヒロ!」
だがヒロナリは蓋に触れ、それから納得したように頷いた。
「これ、開かないよ」
「え?」
「鍵がかかってる」
ヒロナリは小箱の蓋を掴んでがちゃがちゃと揺すった。確かに、前のときのようには開かなかった。
「ほら」
「ほんとだな」
カズマは息を吐いた。
「何でだろう。俺たちがまだボスを倒してないからかな」
「うん、多分……。箱を開ける条件が揃っていないからだと思うんだけど」
ヒロナリがそう言ったとき、ずしん、という大きな音がして地面が震えた。
「えっ」
二人が顔を上げると、庭園の植え込みの向こうに、エメラルドグリーンに輝く鱗が見えた。
マンガやアニメでよく見る、ドラゴンのようなものがいた。
「あいつ、知ってるぞ」
カズマが叫んだ。
「カカマナットだ。ミダスフの砦の次のステージのボスだぞ」