リレー
運動会には、クラス対抗行事の側面がある。
五年生の四つのクラスにも今までの競技でポイントが付けられ、その勝敗はどうやら最後のクラス対抗リレーで決まりそうだった。
男子と女子が五人ずつ交互に走るこのリレーは、やはり運動会の花形だ。
グラウンドで四年生のリレーが始まる頃、入場口に五年生の選手が集合する。
「絶対うちのクラスが勝つよな。楽勝じゃん」
午前中の勝利の興奮を残したままのタカキが、はしゃいだ声で言った。
「だって男子で一番速い俺と二位のカズマ、女子で一位の三条と二位の小峰、みんなうちのクラスなんだぜ」
「ほんとだ」
リンが目を見張る。
「うちのクラスって速いんだね」
「リンちゃんまで入って来たのはずるいって、ほかのクラスの子に言われたよ」
小峰レイナがそう言って笑う。
「でもまあ油断大敵だから。絶対勝とう」
「おう!」
タカキがカズマの肩を組む。
「がんばろうぜ、カズマ」
「……ああ」
男子で一番速い俺。
タカキの中では、もうそういう風に確定したようだ。
それが釈然としなかった。
気分悪いな。こんなリレー、適当に走ってやろうかな。
そんな気持ちが湧く。
もっとも、ほかのクラスのメンバーを見まわしてみても、タカキの言う通り、彼らが一組のメンバーに対抗できるようには思えなかった。
まあアンカーの俺が適当に走っても一位だな、こりゃ。
さっきは切れなかったゴールテープを切って、多少の憂さ晴らしにするか、とカズマは決める。
「続きましては、五年生のリレーです!」
放送係の佐藤ユカの声が聞こえてきた。
勇ましいロックが流れ始め、カズマたちは入場口をくぐる。
リレーは、カズマの予想通りの展開になった。
第四走者くらいまでは四クラスで目まぐるしく順位が入れ替わる競った展開だったものの、小峰レイナにバトンが渡ると、そこで一気に一組が抜け出した。
小峰はリンがいなければ女子のアンカーを務めていたはずの選手だ。第五走者くらいで出てくる他の子たちとはレベルが違い過ぎた。
その速さに、おお、とどよめきが上がる。
ああ、やっぱ小峰は速えな。
自分の走りに対する自信が少し揺らいでいたせいか、カズマは妙に冷静にレース展開を眺めていた。
冷めた目で見ると、小峰の走りの良さもちゃんと見えてくる。
小峰はリンのように長身ではない。その分、まるで地面に吸い付くように滑らかに走っている。
男子のごつごつした力強い走りとはまた違う、しなやかな走り。
それをカズマは言語化することはできなかったが、素直に称賛する気持ちにはなった。
小峰の活躍で、ほとんど大勢は決した感じになった。
その後も一組はさらに少しずつ差を広げ、第八走者のタカキにバトンが渡ったときには、二位のクラスとは相当に差が開いていた。
「タカキー!!」
歓声の中に聞こえる、ひときわ大きな声。
あの野太い声は、タカキの母ちゃんだ。
タカキの母のことは別に嫌いではなかったが、今日だけはその声がやけに耳障りだった。
バトンを握ったタカキが猛然と走り出す。
俺がこの学年でトップなんだ、という意気込みが外まで漏れだしたような走り。
その速さに、周囲の父兄からまた歓声が上がる。
確かに速かった。だがカズマはふと眉をひそめた。
タカキのやつ、力み過ぎじゃねえの?
その走りでコーナー、回り切れるか?
カズマの不安は的中した。
コーナーで足がもつれたタカキが転倒した。それだけならまだしも、手を離れたバトンがころころと地面に転がる。
ああっ、という悲鳴がグラウンドを包む。
今にも泣きだしそうに顔を歪めたタカキが必死にバトンを拾って走り出すころには、もう他の三クラス全てに抜かれていた。
最下位か。
カズマはやはりまだ冷めた目でその様子を見ていた。
正直なところ、ざまあみろ、という気持ちはあった。
ばーか、調子に乗ってっからだよ、と。
「タカキ、頑張れ!!」
タカキ同様に、タカキの母も泣きそうな顔をしていた。
「あと少し、最後まで走り切れ!!」
泥で汚れた顔を必死に歪めて、タカキがリンにバトンを差し出す。
カズマぁ!!
毎年、運動会で見ていた自分の母の笑顔と歓声をカズマは思い出す。
それから、もう一度タカキの母の顔を見た。
運動会では、親にああいう顔をさせちゃいけねえよな。
それは親不孝だぜ、タカキ。
リンはさすがだった。
長い脚がぐんぐんと伸びた。
カモシカみたい、と誰かが言った。
カモシカが走っているところなど実際に見たことはなかったが、カズマも何となくそんな風に思った。
リンは一人抜いて三位で走ってきた。
「カズ!」
珍しく苦し気な顔で、リンが叫んでいた。
「お願い!」
バトンが差し出される。それを掴むとざらりとした砂の感触があった。
一度は地を転がったバトン。
仕方ねえ、マジで走るか。
カズマは思った。
おばさんはいつも母ちゃんを助けてくれてたから、特別だ。
バトンを掴むと同時に、加速。
その瞬間、耳がなくなったみたいに周りの音が全部後方に消えた。
余計なことは頭から吹っ飛んだ。
前を走る二人の背中だけが見える。
たちまちに、一人を抜いた。
さらに加速。
もう一人は厄介だった。
三組の城田か。
午前の徒競走では、カズマのすぐ後ろ、三位に入った男子だ。
それでもカズマには確信があった。
余裕だ。抜ける。
さっきまで冷えていたはずの頭が、沸騰したように熱かった。
最後のコーナーを回ったところで、カズマはもう一段加速した。
見ろ。みんな見とけ。
誰が一番速いのか。
どこで城田を抜いたのか、自分でもよく分からなかった。
横なんて見てもいなかったからだ。
ただ、目の前に白いゴールテープがあった。
母ちゃん。
最後にだめ押しで加速しながら、カズマは心の中で叫ぶ。
今年も俺は、誰よりも速かったよ。
腰にテープを巻きつけたまま駆け抜けると、ようやく音が戻ってきた。
割れるような大歓声だった。
「カズ!」
「カズマ!!」
カズマが立ち止まって両腕を突き上げると、他のメンバーが駆け寄ってきた。
「すげえ、マジですげえ。ありがとうカズマ」
半泣きのタカキが抱き着いてきた。
「やっぱり半端ねえ。カズマはすげえ」
「一位だよ、カズ!」
リンが珍しく興奮した顔で、カズマの肩を掴んでぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「あの差を逆転するとか、やっぱりカズマはやばいわ」
半ばあきれ顔で首を振る小峰の向こうに、タカキの母親の姿が見えた。
満面の笑顔で拍手しながら、時折思い出したように目を拭っている彼女の姿を見て、カズマはようやく笑みをこぼした。
そうそう。
やっぱり運動会の親の顔っていうのは、そうじゃないとな。