運動会
土曜日。
運動会当日は、朝から良く晴れていた。
カズマが目を覚ましたときには、もう母の姿はなかった。
いつもならカズマに声をかけて、起こしてくれてから出勤していくのだが、母は今日が単なる土曜日で、カズマは学校が休みだと勘違いしている。だからまだ寝かせておいてあげようと、静かに家を出ていったのだろう。
その勘違いがありがたいような切ないような、微妙な気分でカズマは布団から出た。
母の買っておいてくれたパンをもそもそと食べ、顔を洗って寝癖を直し、体操着に着替えると、ぬるい水道水を水筒に入れて、いつもより少し早く家を出る。
近くのコンビニでのり弁を一つ買って、温めを断りランドセルの中に入れる。
小学校に入って初めて、いや、幼稚園の頃から数えて多分七年間で初めての、誰も見に来ない運動会。
まあ、いいさ。
コンビニの自動ドアを出て、冷たい朝の空気を吸い込み、カズマは思った。
俺はいつも通りにやるだけだ。
全校児童がグラウンドに入場して、開会式、それに続いて全員での準備体操。
五年一組の列で体操をしながら、カズマはグラウンドを取り囲むたくさんの父母に目を走らせる。
五年間も同じ学校に通っていると、その間に授業参観も何回もあるし、低学年の時は読み聞かせや給食会のような親も参加するイベントもあった。
だからカズマも、主だったクラスメイトの親の顔はたいがい覚えていた。
ああ、タカキの母ちゃんがあそこにいる。
小峰の家はいつも両親で来るよな。
ユウキの家は母ちゃんと姉ちゃんが来てる。うわ、あの姉ちゃん中学に入ったらすげえ派手になったな。
家族は子供を見に来ているつもりだろうが、こっちだって結構向こうを観察しているのだ。ヒロナリの家は、いつも来るのは母親だったが、去年か一昨年くらいからはほとんど姿を見ていない。
体操が終わると、児童はみないったん退場する。賑やかな音楽が流れ始め、競技が始まった。
「まずは四年生の徒競走です!」
本部テントで張り切ってアナウンスをしているのは、同じクラスの佐藤ユカだ。
あいつ、去年も放送係やってたよな。ああいうの好きなんだろうな。
そんなことを考えながらカズマが歩いていると、
「カズマちゃん!」
と声をかけられた。にこにこと人の良さそうな笑顔を樽みたいな身体の上に乗っけているのは、タカキの母親だ。
「あ、こんにちは」
カズマは会釈するが「こんにちは」の「ち」も言い終わらないうちにタカキの母は喋り出す。
「タカキ、また今年もカズマちゃんと同じ組で走るんだってねえ。もうこれで五年連続じゃない、おかげでいっつも二位か三位」
そう言って、けらけらと笑う。
「カズマちゃん、今年だけは負けてくれない?」
「いやあ、勝負なんで」
そっけなく言うと、「そうよねえ、真剣勝負だからそういうわけにはいかないよねえ」とまた笑う。
「カズマちゃん、今日はお母さんは?」
タカキの母は、この誰とでも遠慮なく喋るぐいぐいと押しの強い性格のおかげで、カズマの母が親しく話すことのできる数少ない同級生の親の一人だった。
「今日は、仕事で」
そう答えると、「あら」と眉を八の字に下げる。
「そうなの。お母さんいつも忙しそうだもんねえ。お昼は? もしよかったらうちと一緒に食べる?」
「いえ、大丈夫です。もう約束してるんで」
適当に言い繕ってその場を後にしようとしたが、タカキの母はそんなことでめげる人ではなかった。
「じゃあ、その子も一緒にどう? お弁当結構たくさん作ったのよ」
この押しの強さで、人見知りがちなカズマの母とも話すようになったのだ。何かPTAで困ったことがあったとき、いつもカズマの母はタカキの母に尋ねていた。
「いや、ほんとに大丈夫です」
そう言いながら、この場にいたら断り切る自信がなかったので、カズマはぱっと走り出した。
四年生の徒競走があっという間に終わり、二年生の学年競技を挟んで五年生の徒競走の順番が来た。
ハーフパンツからすらっとした足を伸ばして、リンは今日も澄ました顔をしていた。
女子から話しかけられたときだけ、少し表情を緩めて一言二言話す。
変なやつだぜ。
カズマは思った。
ヒロナリとゲームしてるときは、あんなに喋るくせによ。
カズマはそれから、ぎくしゃくと妙に緊張しているヒロナリの背中を見付けた。
「おい、ヒロ」
カズマは後ろからヒロナリの肩を抱いた。
「十字キーだぞ」
そう囁く。
「それだけ意識すりゃ大丈夫だから」
「うん」
ヒロナリが頷く。
ヒロナリは毎年、運動会の徒競走なんていうものは、順番が来たらとにかく走って、ゴールしたら言われたとおりに座っておけばいいや、とそれしか考えていなかった。
だが、実は昨日の塾の帰りにも公園に寄って少し練習をしていた。
カズマのおかげで、おかしなやる気が出てしまっていた。
こんなに緊張することじゃないのに。ヒロナリは自分でもそれに戸惑っていた。
ヒロナリの走る番は、入場後すぐに来た。
「ヒロ、頑張れよ!」
カズマが声をかけると、隣のタカキが驚いた顔でカズマの顔を見た。
先生の鳴らすピストルの音をちゃんと全部聞き終えてから行儀よくスタートするような、ひどい走り出しだったが、それでもヒロナリの走りは、先日体育の時間に見たときよりもぐっと改善していた。
「おお、ガリ勉が割とまともに走ってる」
タカキがそれを見て驚きの声を上げる。
前。
前、前、前。
よそ見をしない。首を変に振らない。
僕を動かしているのは、ヘリオス・ネオの十字キーだ。
ヒロナリはそれだけを念じて必死に走った。
コーナーを曲がり父兄の前を走ると、大きな歓声が起こる。
誰の親かもわからない人たちが、笑顔で拍手している。
毎年、それも嫌だった。この子たちはずいぶん遅い組だねえ、と憐れまれている気がした。
だが、今年は気にならなかった。
十字キーは前だけに押し込まれていたからだ。
真っ直ぐ、前だ。前。
やがて、ゴールが迫ってきた。
ぴんと張られた真っ白のゴールテープ。
それはヒロナリにとって、これまで全く縁のないものだった。
なぜなら、いつも必ず自分が切るよりもずっと前に誰かが切ってしまうものだったからだ。
だが、今ぐんぐんと近付いてくるゴールテープには、ヒロナリよりも先に飛び込む子がいない。
そこで初めてヒロナリは、自分が今一位を走っているのだということに気付く。
「あとは腕がちゃんと振れれば、一位になれる。お前の組で勝つんなら、それで十分だよ」
あの日のカズマの言葉が蘇る。
まさか、と思っていた。
まあ二位か三位になれたらいいな、とそれくらいの期待はあった。
だが、一位は想定外だった。
カズマの言葉は本当だった。
ヒロナリはうろたえた。
行け、このまま行け、という声と、どうすればいいんだ、という戸惑いが、自分の中に同時にあった。
どうするんだっけ。ゴールテープって、このまま突っ込んでよかったんだっけ。
「いけ、ヒロ!」
リンが叫ぶ。
だがその声はすぐに「ああっ」というどよめきにかき消される。
一位を走っていたヒロナリが、ゴール直前で急に足を緩めたからだ。
隣を走っていた大柄な児童が、代わりに一位でゴールに飛び込んだ。
「やったー!」
飛び上がって喜ぶその児童の後で、ヒロナリは肩で息をしていた。
毎年、走り終わった後の方が速いんじゃないかというくらいの忙しなさでさっさとはけていくヒロナリが、コースに足を止めたまま呆然としていた。
「もったいねえな、ガリ勉のやつ」
タカキが言った。
「一位になれたのに何で止まるんだよ。ゴールは駆け抜けなきゃ」
タカキの言う通りだった。
ゴールラインでちょうど止まろうと思ってしまうと、その直前から自然と速度は落ちる。そうすると今のヒロナリのように最後の最後で抜かされることになる。
だから本当のゴールはラインのさらに十メートル向こうにあるんだというつもりで、駆け抜けなければならない。
だが、カズマにはヒロナリの急停止はそういう技術的なことではなかったように見えた。
そうか。ゴールテープの切り方も教えてやらなきゃいけなかったか。
係の児童に促されてひょろひょろと二位のフラッグへ歩いていくヒロナリの背中を見ながら、カズマは思った。