宝箱
……異界。
ここは、異界だ。
ヒロナリは周囲を見回す。
青い空。晴れているのに、どこか靄がかかったような不思議な天気。
ヒロナリとカズマは、静かな庭園の門の前に再び立っていた。
「またここに来ちまったな」
カズマがそう言って古びた門を見上げる。
「この前と同じところか?」
「うん、そうかな……」
ヒロナリは曖昧に頷く。
同じような庭園であることは間違いない。だが、前回と同じ場所だという確信は持てなかった。
そんなことよりも。
「カズマ君、三条さんは?」
「え?」
ヒロナリの言葉に、カズマが慌てて周囲を見回す。
さっきまで二人の真ん中でゲームをプレイしていたリンの姿が、なかった。
「どっか別のところに飛ばされたのかな」
そう言うとカズマは、口に両手を当てて大きな声を出した。
「おーい、リン! いるか!?」
だがその声は、しんとした庭園の奥に吸い込まれるようにして消えた。返事はない。
「三条さん!」
ヒロナリもリンの名を呼んだ。やはりどこからも反応はなかった。
二人は顔を見合わせる。
「こんなところでこうしていても仕方ねえな」
カズマが言った。
「先に進もうぜ。もしかしたら、そっちにいるのかも」
「うん」
二人は門をくぐった。
名前も知らない花が咲き乱れている。その間の一本道を抜けると、そこに小さなテーブルがあった。
その上には、暗黒竜の紋章の描かれた宝箱。
「秘宝、みっけ」
カズマが軽い調子で言う。
「どうする。やっぱりリンがいないけど」
「うん……」
ヒロナリはためらった。
開けるのは構わない。
だが秘宝入手の瞬間に立ち会えないということは、リンのキャラクターはこの秘宝を入手できない、つまりゲームをクリアできなくなってしまうということを意味するのではないだろうか。
そしてリンを欠くということは、おそらく二人もこれから先のダンジョンを攻略することができなくなるということだ。
「やっぱり探した方がいい気がする」
「だよな」
ヒロナリの言葉にカズマが頷いた。
「俺もそう思ってたよ」
二人の意見は一致した。
「三人で倒したんだからな。宝箱を開けるときも三人一緒じゃなきゃおかしいよな」
カズマはそう言うと、脇の茂みをかき分けた。
「おーい、リン!」
そのままずんずん進んでいこうとするカズマの背中を、ヒロナリは慌てて追いかけた。
「カズマ君、僕らがはぐれちゃ意味ないよ」
「おう、それならちゃんとついてこいよ」
少しだけ進むペースを落としてくれたものの、カズマはそのまま茂みをかき分けた。
「どっかその辺に倒れてたらまずいからな。おーい、リン!」
「三条さん!」
だが、二人の探索はすぐに終わった。
白い巨大な壁が、目の前に立ちはだかったからだ。
常に薄くかかっている靄のせいで、近くに来るまではこんな壁があることに気づかなかった。
壁は行く手を完全にふさいでしまっていた。
左右はもちろん、上もどこまで続いているのか、壁の果ては靄に隠れて見えなかった。
「行きどまりだ」
カズマがヒロナリを振り返る。
「こっちはだめだ。反対側に行ってみるか」
「うん」
二人は茂みを引き返した。
元の道に戻ると、カズマはためらうことなく、反対側の茂みをかき分けて入っていく。
ヒロナリもその後に続いた。だが、こちらもすぐに白い巨大な壁に遮られた。
「こっちもだめだ」
カズマは壁を叩く。
びくともしないその壁がどれくらい分厚いのか、カズマには想像もつかなかった。
「仕方ねえ。道に戻ろう」
元の道に帰ってきた二人は、「あっ」と声を上げた。
そこにリンが立っていたからだ。
「あ、二人ともやっと来た」
リンはまるで待ちくたびれたように腰に手を当てていた。
「遅いよー」
「遅いってお前」
カズマがほっとしたような、むっとしたような、複雑な表情で言い返す。
「こっちはお前のことを探してたんだぞ」
「え、そうなの?」
小首をかしげるリンには悪びれた様子もない。
「私、この道を通って普通にここに着いたけど」
「僕ら、三条さんのことを呼んでたんだけど。聞こえなかった?」
ヒロナリにそう尋ねられても、リンは首をひねる。
「うーん、聞こえなかったけど」
「もういいよ」
カズマが言った。
「こっちは秘宝を目の前にしてお預けされてたんだ。さっさと宝箱開けようぜ」
「そうそう。ここに宝箱があるよ」
「だから、知ってるっつうの」
三人は宝箱の前に立つ。
「ねえ、ここっていったい何なの?」
リンが改めて周囲を見回した。
「ゲームの中?」
「知らね」
カズマが二人の気持ちを端的に告げる。
「ボスを倒すとここに飛ばされるんだよな。何でか知らないけど」
「バーチャルリアリティってやつかな?」
「ヘリオス・ネオのゲームに、そんなすげえもんが付いてるわけねえだろ」
「そっか」
リンが口をつぐむと、カズマは宝箱の正面をヒロナリに譲る。
「これ開けるのは、ヒロの役目なんだ」
「そうなの?」
「いや、別に僕と決まったわけじゃ」
ヒロナリは困惑する。
「たまたま前回、僕が開けたっていうだけの話で」
「いいから早く開けろよ。勇者はためらわないんだろ」
カズマに促されて、ヒロナリは宝箱の蓋に手を掛ける。
「じゃあ、開けるよ」
蓋を開けた途端、前回同様に光が溢れてきた。
「何これ!」
リンの声。光に包まれた三人は、視界を失った。
気付くと三人は公園で、並んでベンチに座っていた。
それぞれの画面には、『第四の秘宝を入手しました。』のメッセージが表示されている。
「よっしゃ。秘宝ゲット」
カズマが拳を握る。
「これでゲットしたことになるんだ。よく分かんないけど、やったね」
そう言ってリンも微笑む。
「うん」
頷いたヒロナリは、上に表示されている時間に気付いて慌てて立ち上がった。
「大変だ、もうこんな時間」
「えっ」
カズマが公園の時計を見上げると、既に五時半を指していた。塾の開始時間を三十分も過ぎている。
「うそ」
リンも立ち上がる。
「行かなきゃ」
「だけど、おかしいな」
慌てる二人とは対照的に、特に用事のないカズマはのんびりしたものだ。
「さっきミダスフと戦い始めたとき、まだ四時半過ぎだったぜ。何でこんなに時間が進んでるんだろうな」
「そう言えば前回もそうだったね」
ヒロナリも思い出していた。ボスを倒したら異界に飛ばされて、戻ってきたときにはもう九時を回っていたのだ。
異界では、時間の流れが違うのだろうか。
「それはともかく、遅刻だ。早く塾に行かないと」
ヒロナリは電源を切ったヘリオス・ネオをバッグに放り込む。
「三条さん、行こう」
「うん」
「大変だな、これからまた勉強かよ」
カズマは大きく伸びをした。
「じゃあ、またな」
「うん。また明日」
「運動会、頑張ろうね」
ヒロナリとリンが走り去るのをカズマは見送り、それから自分も自転車に向かって歩き出す。
その夜。遅い夕食の席で案の定、ヒロナリは母から詰問された。
「塾の先生から連絡があったわよ。五時を過ぎてもまだ来てませんって」
「五時半には着いてたんだけど」
ヒロナリはそう答えたが、何の言い訳にもならないことは自分でも分かっていた。
「三十分も遅刻してるじゃない」
険しい顔で、母は言った。
「家はいつも通り出たでしょ。そんな時間までどこで何をしてたの」
「途中で学校の友達に会っちゃって」
ヒロナリは言った。それは、嘘ではない。
「話してたら、いつの間にか時間が過ぎてた」
これは半分噓。
「誰? それは」
やはり母は納得しなかった。
「ヒロナリ、あなたその子に嫌がらせされてるの?」
「されてないよ」
ヒロナリは慌てて否定した。
ヒロナリが学校に友達がいないということくらいは、母も知っていた。
だから、友達と話し込んで塾に遅刻した、などという言い訳を聞けば、その子に嫌がらせで足止めされていたせいで塾に遅刻したのだ、という発想しか浮かばないのだろう。
「本当に、ちょっと話し込んだだけだから」
母はじっとヒロナリの顔を見た。それから、彼の腕に視線を移すと小さく声を上げた。
「ここ。怪我してるじゃない」
ヒロナリの二の腕に赤く走るごく小さなひっかき傷。それはカズマとともに異界の庭園の茂みをかき分けるときにできたものだった。
「怪我っていうほどのものじゃないよ」
ヒロナリはテーブルから腕を下ろす。
「ちょっと引っかけただけだ」
「あなたをいじめている子の名前を言いなさい。きっと成績の良くない子たちのうちの誰かでしょう。すぐに学校に連絡するから」
「だから、いじめられてなんかいないってば」
ヒロナリは言った。
「明日の運動会の練習でちょっと転んだ時にできただけだよ」
運動会、というフレーズが出た途端、母の圧力がぐっと弱くなったのをヒロナリは感じた。
運動会を見に来ないことに、母は罪悪感を持っているのだ。
「体育の時間? でも学校の先生からは、あなたが怪我をしたって連絡はなかったけど」
それでもそんなことをぼそぼそと言った。
「このくらいの傷で、誰もいちいち先生になんか言わないよ」
ヒロナリが言うと、母は意外そうに彼の顔を見る。
「あなた、何だか今日はいつもと違うわね」
「そうかな。そんなことないと思うけど」
「まあいいわ」
母はため息をついた。
「あなたは私たちを裏切らないでね、ヒロナリ」
あなた「は」。
母がなぜそういう言い方をするのか、ヒロナリにはよく分かっていた。
兄のヒロカズは、いなくなってしまったからだ。二十歳の誕生日に、忽然と書置きだけを残して。
「うん」
ヒロナリは頷く。
だから、ヘリオス・ネオだけは絶対に見付かってはいけない。