十字キー
「おい、ヒロ」
塾が終わり、真っ暗な道を歩いていたヒロナリは、急に名前を呼ばれて足を止めた。
「カズマ君」
公園の脇に、笑顔のカズマが立っていた。
「まだ残ってたの? もう七時半だよ?」
「まあな」
カズマは頷く。
「言ったろ? うちは母ちゃんが帰ってくるの、八時か九時だって」
「うん……でもごめん、今日はもうゲームはできないよ」
「分かってるよ。ゲームじゃねえよ」
カズマはそう言うと、公園に入っていく。
「すぐ済むから、来いよ」
「……?」
ゲームじゃない? カズマが何を考えているのか、ヒロナリには分からなかった。
おそるおそるついていくと、公園の地面に一本の線が引かれていた。
「そこがスタートな」
カズマは少し離れたところに、靴で地面にもう一本の線を引く。
「で、こっちがゴール」
「……なに、これ」
「お前さ、俺が走るの速くて羨ましいって言っただろ」
カズマは明るい声で言った。
「俺バカだから、走り方なんて口じゃ教えられねえんだけどさ。さっきまでずっと考えてて、一つだけ思いついたからさ」
「え?」
「バッグそこに置いて、そっち、スタート地点に立って」
「走るの? 僕、走るのは」
「すぐ済むって言ったろ。ほら、早く」
ゴールに立つカズマは動きそうにない。仕方なくヒロナリはスタートの線に立った。
「あのさあ、ゲームのスティックって分かる? UFOキャッチャーとかで使う、棒の先に丸いボールみたいなやつが付いてて、こうやって動かす」
カズマは下に向けた手のひらを少し丸めて、かちゃかちゃと小刻みに動かす。
「ああ、うん」
何を言い出したのかと思いながら、ヒロナリは頷く。ゲームセンターなどのゲームにある、操作スティックのことを言っているのだろう。
ヒロナリも実際に使ったことはないが、見たことはあった。
「分かるよ」
「ヒロの走りはそれなんだよな」
「え?」
「あの棒って、ほら、こう、ぐるっと。一周、えーと、何度だっけ。400度?」
「360度」
「そう、それ。360度。前でも後ろでも斜め右でも、あれってどこでも動かせるじゃん。お前は身体をそれで動かしてるの。だけど走るときにはそれじゃだめなんだよ。走るときに必要なのは、ヘリオス・ネオの十字キーなんだよ」
「十字キー……?」
「十字キーって、余計な方に行かないだろ。右押したらずーっと右に行くだろ」
「……うん」
「走るときに必要なのはそれなんだよ。前に走るんだったら、十字キーの前だけ押すんだよ。でもヒロはあのスティックみたいに、斜め右前とか左前とか、ふらふら、ふらふら走ってる」
「そ、そうかな」
「運動会で一緒に走るの、誰だっけ?」
ヒロナリが同じ組で走る四人の男子の名前を挙げると、カズマはにやりと笑った。
「それなら、一位になれるな」
「無理だよ」
被せるように、ヒロナリは声を上げていた。
「今だって最下位争いしてるんだから」
「そこからこっちに走ってみな」
カズマは言った。
「暗黒竜の秘宝のキャラは、右を押したときに下とか上を向かないだろ。それと同じだよ。お前も前に向かって走るのに、右とか左に首を向けちゃだめだ」
自分の走り方について、そんな風に言われたのは初めてだった。
僕は運動会の順位なんてどうでもいいんだ、と言いたかったが、自分たちの学年で、いや下手をすれば学校で一番速いであろうカズマが自信をもってそう断言したので、ヒロナリも少しだけ前向きになった。
「前だけだぜ」
ヒロナリがスタートの姿勢をとると、カズマはもう一度言った。
「よーい、どん」
ヒロナリが走り出すと、カズマは両手を上げた。
「俺のほうだけ見ろ。横向くな」
そのままゴールしたヒロナリに、カズマは笑顔で言った。
「いいじゃん」
「え?」
「体育の時間の走りより、ずっといいよ」
「そうかな」
自分では分からなかった。でも、なんとなく身体がいつもより前に進んだような気はした。
「今の走りで、二位か三位だな」
カズマはそう言った。
「あとは腕がちゃんと振れれば、一位になれる」
「そんな簡単にいかないでしょ」
「お前の組で勝つんなら、それで十分だよ」
カズマはこともなげに言った。
「俺はバカだから、運動会くらいしか親を喜ばせるところがないからさ」
そう言って、にやりと笑う。
「だから知ってるんだよな。運動会で活躍すると、結構気持ちいいぜ」
「活躍って」
ヒロナリは苦笑した。
「僕はカズマ君とは違う。一番遅い組だよ」
「速い組でも遅い組でも、一位は一位だろ」
カズマはそう言うと、立てかけてあった自転車に跨った。
「じゃあな」
本当にそれだけで帰ろうとするカズマに、ヒロナリは驚いて声をかける。
「えっ。もしかして、このためにわざわざ待っててくれたの」
「お前が羨ましいって言ったからだろ」
当たり前のような顔でカズマは言った。
羨ましいって。確かにそう言いはしたけど、あんなのは。
カズマはもう一度、じゃあな、と言うと自転車で走り去っていった。
たちまち夜の闇の中に消えたその背中を呆然と見送って、それからヒロナリはもう一度、目の前に引かれたラインを見た。
本当は別に羨ましくなんてなかった。そもそも僕は運動になんて興味がない。
ゲームを断る口実に、カズマが喜ぶだろうと思ってそう口にしただけだ。
けれどヒロナリは、なぜだか自分がものすごく卑怯な真似をしてしまったような気持ちになっていた。
帰ろうとしたが、胸のもやもやが収まらなかった。
ああ、もう。
ヒロナリはもう一度身体を屈めてスタートの姿勢をとる。
運動会なんて、野蛮な見世物だ。その思いも変わっていない。
だけど。
前だけを見る。十字キー。
よーい、どん。
心の中でそう掛け声をかけ、ヒロナリは再び走り出した。
その日、夜の九時前に帰ってきたカズマの母は珍しく機嫌が良かった。
大きな仕事のメドがついたのだという。
半額シールの貼られたスーパーの総菜をテーブルに並べながら、母は嬉しそうに言った。
「今週末にちょっと頑張れば、終わりそうなのよ。だからちょっと土日も出勤になっちゃうけど、カズマは一人でいられるわよね」
「え」
カズマは思わず母の顔を見た。
土曜は、運動会。
「朝はパン買っておくから。お金置いてくから、お昼はコンビニで買って食べてね。晩御飯までには帰ってくるようにするから」
ああ。母ちゃん、忘れてるのか。
カズマは気付く。
学校でもらうプリントをろくに出さないカズマも悪いのだが、運動会のお知らせは確か一回は見せた記憶があった。
運動会はカズマ、いつも一位だからね、とその時母も笑顔で言っていた。今年もリレー出るんでしょ、しっかり応援しないと、と。
だが今の母の頭からは、もうそのことはすっぽりと抜け落ちているようだった。
もしここで土曜は運動会があるとカズマが言ったら、母は狼狽して、大騒ぎをして、それから色々なところに連絡して、そしてまあ結局は運動会に来てくれるのだろう。
だがカズマには、その前に繰り広げられる母の大騒ぎを見るのがつらかった。
まるで自分が責められているような気分になるからだ。
それなら、黙ってコンビニ弁当を持って運動会に行く方がマシだった。
そうか。今年の運動会には母ちゃんはいないのか。
そのぽっかりと空いた穴のような感情を何と呼べばいいのか、カズマには分からなかった。
「分かった」
カズマはそう言って、電源を切ったヘリオス・ネオを充電ケーブルに差し込んだ。




