カズマ
七瀬カズマは小学五年生。勉強がとにかく苦手だった。
そもそものつまずきは、最初も最初。一年生の時の国語の授業だ。
「字の書き方なんて今覚えなくたっていいのよ。小学校で教えてもらえるんだから」
入学前、母は口癖のようにそう言っていたが、入学したての一年生の教室で、カズマは早々と思い知ることになった。
母ちゃんの嘘つき。勉強はとっくに始まってたんじゃないか、と。
ほとんどの同級生は、入学のときにはすでにひらがなやカタカナ、それどころか簡単な漢字まで書くことができた。国語の授業での字の書き方など、彼らにとっては知っていることの再確認に過ぎなかった。
それでも、ひらがなはまだよかった。
始まったばかりの授業は、進みがゆっくりだったので、カズマは授業中に字を覚えることができた。
けれど、カタカナになるともうダメだった。
ひらがなの時の丁寧さが嘘のように、突然ペースが上がった授業についていけず、カズマの中でカタカナは曖昧で中途半端なまま、放置された。
シとツの違いが何なのか、ヘやリはどうしてカタカナもひらがなも一緒なのか、どうやって区別すればいいのか。そんなことが分からないままに授業はさらさらとカズマの周りを通り過ぎていき、そして自分の書く字に自信がないままカズマは二年生になり、たちまち落ちこぼれた。
五年生になった今でも、そのころの疑問はちっとも解決されないままでカズマの中にくすぶっている。
カズマが授業中に平然としているのは、別に何かが分かるようになったからではない。ただ、そのころよりもずる賢く自分も周りもごまかしてやり過ごす方法を覚えたというだけのことだ。
運動は大好きだった。
教室で椅子に座ってじっとしていなければならないほかの授業に比べて、グラウンドや体育館を駆けまわることのできる体育の授業のなんとすがすがしいことか。
マットも鉄棒も跳び箱も、カズマは人よりもできたし、かけっこは学年の誰よりも速かった。
他の子たちがどうして跳び箱を前にして怯えたように足を止めてしまうのか、どうして逆上がりの時に身体をのけぞらせた無様な体勢で足だけをばたばたさせているのか、カズマには分からなかった。
自分が跳びやすいように、回りやすいように、身体を動かせばいいだけなのに。
どんな運動も、考えるよりも先に感覚だけでできてしまった。理屈は要らなかった。だから、教えてと言われても教えられるものではなかった。
チームスポーツは苦手だった。
別に下手だったわけではない。むしろ相当に上手かった。ただ、苦手だったのだ。
誘われて入ったサッカーチームでは、最年少レギュラー候補だ、などともてはやされたけれど、上級生になるにつれ少しずつ窮屈になり、いつも自分勝手なプレイをしているとコーチに叱られたのが引き金になって、五年生に上がる前にやめてしまった。
下手なやつにパスをするくらいなら、自分で全部やった方がいいに決まってる。
チームが勝つためには自分がボールを持ち続けることが一番いい。どうしてそんな簡単なことが分からないんだろう。
そう考えていたカズマにとって、コーチの言っていることは、母や学校の先生をはじめとする大人たちが子供に対してたまに起こす意味のないヒステリックな癇癪と同じに見えた。
ああ、コーチも他の大人と同じか、と思った。
コーチの顔色を窺いながらご機嫌を取るようにプレイするくらいなら、自分からやめてやったほうがよっぽどせいせいする。
サッカーをやめることを夜遅く仕事から帰ってきた母に告げると、土日にお弁当を作らされることがなくなって助かる、と喜んでくれたので、カズマはそれでよしとした。
カズマには、父親がいない。
カズマが小学校に入る直前に、両親が離婚したからだ。
父の熊みたいながっしりとした風貌は今でも思い出せるけれど、別にそれほど会いたいとも思わない。
ただ、父がいなくなったせいで母が大変そうだな、とそっちの心配の方が大きかった。
慣れない仕事に疲れて夜遅くに帰ってくる母は、いつも愚痴ばかり言っていた。
携帯ゲーム機でゲームをしながら、話半分にその愚痴に付き合うのはカズマの日課で、母のたった一人の家族としての「ギム」だと思っていた。
カズマの持っているゲーム機は、ヘリオス・ネオという名前の、世代交代の早いゲーム業界ではもうだいぶ時代遅れの代物だ。
まだ離婚する前の父が、そのときですら中古で買ってくれたものだから、かれこれ十年近く前の最新機種ということになる。
サッカークラブをやめて放課後暇になったカズマは久しぶりに公園に顔を出したが、そこに集まる子供たちの持って来る新しいゲーム機の話題には全くついていけなかった。
友達と一緒にやろうと思って自分のリュックに入れてきたヘリオス・ネオは、とうとう出せずじまいだった。
たまたま公園に誰もいなかった日に一人で取り出してやってみたが、通りがかった大学生風のグループに
「見ろよ、あの子ヘリオス・ネオやってんだけど」
「あー、懐かしい。昔やってたわ」
などと言われて恥ずかしくなり、やめてしまった。
それからはカズマは放課後、一人で自転車ばかり乗り回していた。
自転車でビュンビュンと風を切るのは気持ちよかったし、四年生のときの誕生日に父から送られて来たこの自転車だけは、ほかの子たちのものと比べても全く見劣りしていなかったからだ。
それでも、家にいるときはやはりヘリオス・ネオくらいしかやるものがない。
両親が離婚してから引っ越したアパートは明らかに前の家よりも手狭だったし、朝から夜遅くまで働いている割には母の給料が大して高くないらしいことはカズマも知っていた。新しいゲーム機をねだることなどできるわけがなかった。
何度もクリアして、もう何周でもできるのでやめどきの分からないシューティングゲームと、いつも同じところで死んでしまってどうしてもそれ以上先に進めないアクションゲーム。
カズマはそればかりを繰り返しプレイしていた。
カズマは相変わらず学年で一番足が速かったので、五年生から入れる陸上クラブに入らないかと先生に誘われてはいたが、気乗りしなかった。
走るのは好きだが、サッカークラブの時みたいにまたわけの分からないことで怒られるのは面倒だった。
授業は、国語も算数もさらに分からなくなった。
カタカナのシとツの区別はまだつかない。
「うわ」
体育の時間だった。
運動会に向けた徒競走の練習。
グラウンドに座って自分の走る順番を待っているとき、隣のタカキが、突然ばかにしたように笑った。
「だっせえ走り方」
カズマが顔を上げると、タカキが見ていたのは、男子の中で一番足の遅いグループが走っているところだった。太った少年たちの間を、痩せた少年が一人、ひょろひょろと走っている。
六宮ヒロナリ。
勉強の成績は抜群にいいが、運動がとにかく苦手で、カズマを含む一部の子からはガリ勉というあだ名で呼ばれている男子だった。
「痩せてるのに遅いのな、ガリ勉」
タカキの言う通り、他の子たちはいかにも重そうだったが、ヒロナリは痩せているのに彼らよりも遅かった。
力の抜けたようなふにゃふにゃとした走り方は、とても真剣に走っているようには見えないが、本人の顔だけは不自然なほどに真剣だった。
「頭がいいやつって、なんで運動できないんだろ」
自らも決して成績のいい方ではないタカキが、そう言ってにやにやと笑う。
「何かの法則?」
「外に出ないで本ばっか読んでるからだろ」
カズマは答えた。休み時間にも教室で一人、本ばかり読んでいるヒロナリの姿を思い出す。
頭がいいのにどうして走り方も分からないんだろうな。あんなにゆっくり脚を回してたら、速く走れるわけないのに。そういうことは本には載ってないのかね。
ようやくゴールしたヒロナリを見ながら、カズマはそんなことを考えた。
「よし、次の組」
やっと順番が来て、カズマはスタートラインに立つ。
ぱあん、という号砲と同時に、飛び出した。横にいたほかの男子は、たちまちカズマの視界から後ろに流れて消えた。足が地面を掴み、カズマの身体をぐんぐんと前に押し出していく。
上とか横じゃない。前に向かって走れば身体は前に進むんだ。
ガリ勉だって、こういう風に走ればいいだけなのにな。
クラスで一番速い男子グループの中で、カズマは誰と競り合うこともなく一番でゴールした。
ある日、いつものように母の愚痴を聞きながら寝転がってゲームをしていた時だった。
すっかりやり飽きた古いアクションゲーム。いつもと同じ場所で同じようにミスをしてやる気をなくし、カズマは電源を切った。
だが、母の愚痴はまだ続きそうだった。
結局もう一度ヘリオス・ネオの電源を入れる。惰性でもう一度同じゲームを始めようとした時、ホーム画面の右上で通知アイコンが点灯していることに気付いた。
またかよ、この間消したばっかなのに。
母の終わらない愚痴と相まって、カズマは内心いらっとする。
ヘリオス・ネオはネットワーク対応のゲーム機だが、この家にはWiFi環境が無い。それでもたまにどこかの無料WiFiの電波を拾うらしく、「本体の設定を云々」とかいうカズマにとって何の意味もない通知が届くことがあるのだ。
別に放っておいてもいいのだが、通知が溜まるとアイコンの横に数字が増えていって、なんとなくうっとうしい。既読にすれば消えるので、通知が来るといつも読まずにクリックだけはしていた。
この時も、カズマは半ば無意識にそのアイコンをクリックした。
だが、表示された通知画面をすぐに消そうとして、カズマの指は止まった。
『「暗黒竜の秘宝」がインストールされました。』
見覚えのないゲームの名前が、そこに書かれていた。