【21】 ナチ 8
最終話です。
アルバイト先のファミリーレストランでは、ふたりのパートさんが急に辞めてしまっていた。スタッフ内で流れている噂によると、店長とお皿を投げ合うケンカをしたという。本当のところはわからないけど、あの店長ならやりそうっていうのが大半の意見だった。
そのために学生アルバイトたちのシフトが大幅にずれた。日数と時間が増えて、ナオコのアルバイトのシフトと、かなり被ってしまうことになった。
ナオコからは気になるメッセージが届いていた。
サチからはなにも連絡はきていない。
『ナオコも心配してる 連絡して』
送ったメッセージに既読はつかなかった。
電話をかけるも、アプリの呼び出し音が延々と続くだけ。
……なにかあった?
ナオコも言っていたけど、サチはなんの理由もなしに約束したことを破るようなことはしない。
それとも……避けられている?
思い当たることといえば……。
でも……あれはサチからだった。バイバイと手を振って、微笑ってもいた。
△▼△▼△
始業式の朝。
前から五両目の車両にサチの姿はなかった。
いつもどおりに朝の陽射しを眩しそうに受けて、不敵そうに腕を組んでいると思っていた。いつもどおりに電車が三回揺れると、目を開けてォハヨウと手を上げると思っていた。そうしたらまた、いつもどおりの朝から始めることができると思っていた。
教室にはナオコの姿はあったが、サチはいなかった。一本早い電車に乗った訳でもないらしい。次の電車だと遅刻になってしまう。
「ナオコ、おはよ」
「おはよ……サチは一緒じゃないの?」
「……乗ってなかった」
「……ナチ、ちょっと来て」
神妙な表情をしたナオコに手を引かれて、教室の外に連れ出された。
廊下の突き当たり、屋上へと続く階段の前で手を放される。ここは普段から人気がない。
「……なに?」
そうは訊いたものの、言いたいことはわかっている。
「サチ……どうしたのかな?」
「……うん」
「忙しかったり、旅行に行ってたとしてもだよ? 約束してたんだから連絡くらいはするよね? ナチにもなにもないって……。今日もまだ来てないし……さすがにおかしくない?」
「……」
「どうかしたのかな? めっちゃ心配なんだけど」
「……」
ナオコの視線が揺れる。
迷っているようになにかを言いかけてから、もう一度視線が上がった。
「ナチ……サチとなんか……あった?」
「……なにもないよ」
「……うん。あのさ……もし、なにか相だ」
「なにしてんの? 始業式始まるよ。体育館に行ってー!」
廊下の向こうから声がした。弾かれたように振り向くと、カシワギだった。教室に生徒が残っていないか見回りにきたのだろう。
「先生! 今日、サチは休み?」
「……え」
ナオコの問いにカシワギは一瞬、明らかに戸惑った様子をみせた。そのまま大股でこちらへと歩いてくる。
「あれ? ええと……? コミネから……聞いてないの?」
……なに? なんのこと?
「……」
「……」
ナオコとわたしを交互に見比べると「あー……そうかぁ」と、片手を頭の後ろへとやり、下をむく。
「……センセー……なに?」
深い息をひとつ吐くと、カシワギは顔を上げた。
「あのね……コミネは、おじいさんの国に引っ越した」
……は?
なに……言ってんの?
「……ウソ」
後ろからナオコらしくない、力の抜けた弱々しい声がした。
「……センセー……冗談」
カシワギはなにも言わなかった。
口を結んで、なんだか困っているような、笑っているような、眉を下げたような、へんな表情をしてわたしたちを見ている。
それが……冗談なんかじゃないことを教えてくれた。
……引っ越した?
おじいちゃんの国?
え……じゃあ、前から五両目にサチはもういないの? 教室にサチはもういないの? アイスを買って食べることも? あの公園でくだらない話をして笑うことも?
全部……全部……もうないの?
いつもみたいに微笑ってた……あのバイバイが最後なの?
……どうして?
なんで黙ってたの?
どうし……
わた……し?
わたしの……せい?
わたしが……
サチはなにも……言わなかった。
わたしは……気がつかないふりをしていた。
サチが言わなかったから。
気がつかないでいようと思った。
だって楽しかったから。
なにも変わらずに、ずっとこのままでいたいと思っていたから。
だから……?
なにかがぱちんと弾けて、頭の中が一瞬で真っ白になる。
自然と足が動いて、カシワギの横をすり抜けようとしたときに腕をつかまれた。
「ナチ、ちょっと、落ち着こう?」
じっとしていられなかった。
行く場所なんかどこにもないのに、どこに行こうとしているのか自分でもわからなかった。ただ、ここにいたくはなかった。それがなんの衝動なのかもわからなかった。
「放して……」
「ナチ」
「放して……放してよ……」
「ナチ、落ち着け」
おもいきり腕を振っても、強くつかまれていて振りほどけない。
「……放してよぉっ!」
「ナチ!」
視界が滲んで……見えなくなった。なんでこんなに、どこからこんなに……。
ふっと力が抜けてしまい、廊下にへたり込んだ。
カシワギは腕をつかんだまま、ナオコと頭の上でなにかを話している。
ナオコがハンカチで顔を拭ってくれた。
カシワギはわたしを立たせ、体育館とは反対の廊下を腕を引いて歩いた。その途中に向こうからは、遅れて始業式にむかう生徒が数人歩いてくる。
すれ違いざまに、その中にいた坊主に近い五分刈りの男子が一瞬、足を止めた。それが……金髪だとわかった。金髪もわたしを見ている。
「遅れてるよー! 急いで!」
カシワギは背中にわたしを隠した。
保健室で養護のセンセーに引き渡し、カシワギは体育館へともどっていった。
内緒よと、淹れてくれたハーブティーを机に置く。
「落ち着くから、飲んだら?」
カップからはレモンのような香りがする。
白い湯気の上がる薄い黄緑色のハーブティー。その揺れる様子をぼんやりと眺めていた。
扉がノックされた。センセーが引く前に開かれると、金髪が立っていた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
「あぁ……えっと……。あのさ、コミネのこと、聞いたよな?」
後半はセンセーにではなく、どう考えてもわたしに声をかける。
センセーは「まあ、入りなさいよ」と、金髪を目の前の席に座らせた。金髪にも「内緒よ」と言って、ハーブティーを淹れる。それから「『保健だより』を書かなくちゃいけないから」と、さっさと自分の机にもどっていった。
「……コミネのこと、聞いただろ?」
上目に睨むと「そう睨むなよ」と呟いて、視線を床へと外す。
「コミネさ、誰にも言うつもりなかったんだよ」
「なんで……あんたが知ってんの?」
「家が……近所だから。親が聞いてきた」
「……ふうん」
金髪は顔を上げて、まっすぐにわたしを見た。
「言うつもりがないっていうか、言えなかったんだと思う」
「あんたに……なにがわかんの?」
「わかるよ……好きだったから」
「……」
「フラれたけど」
そう言って苦く笑った。
「……」
「ナチだって、わかるだろ?」
「……言われなくても……あんたより……オノより……わかってる。でも……」
そのとたんにまた視界が歪んだ。熱いものが頬を流れて、顎まで伝ってゆく。喉が、痛い。
「ああっ! 女の子を泣かせちゃダメじゃん」
椅子をくるりと回転させて振り向いたセンセー。
「違っ……! 俺、泣かせてないしっ! ……ほらっ、これ!」
焦るオノは慌てて、ブレザーのポケットからハンカチを出した。
「……ありがと」
きれいにアイロン掛けされた紺色のハンカチ。
……オノのくせに準備がいいじゃん、なんて我ながら理不尽なことを考えながら受け取る。
そして……たぶん、もう二度とサチに会うことはないのだと、十三歳の誕生日のときのように、突然に理解した。
△▼△▼△
ナオコと他愛のないバカみたいな話をして笑って、ときどき教室の中に、黄色い電車の前から五両目に、サチを探した。
サチのいない日常に慣れたころ。高校を卒業して、少し離れた短大に進学した。ナオコは地元の信用金庫に就職をした。
ときどき会っては相も変わらず、くだらなくも他愛のない話をしながら、お互いの近況などを報告している。
カシワギには高校を卒業してから会ってはいない。
カシワギのことを思い出すと、今でも胸が疼くような気がする。サチのことを考えると……懐かしくて、胸が痛い。
いつかこの痛みに慣れるときがくるのかもしれないが、忘れることはきっと、ない。
サチの唇はやわらかかった。しっとりと湿っていた。かき氷のシロップの甘い味がしたような気がした。
ほんの一瞬の、キスとも呼べない接触だったけど。
わたしはどうすればよかったのだろう。
そんなことさえ、わかっていなかった。
あのころの夏の空は手を伸ばせば届きそうだった。
未来は確かに手の中にあった。きらきらとしていたが無色透明で、なにも見ることはできなかったけど。
もう、子どもではないと思っていた。でも、まだ大人でもなかった。
サチがいつも笑顔でありますように。
あの秋の日に、カシワギが弾いてくれた曲のタイトルは今でもわからない。旋律だけがずっと胸に残っている。少し鼻にかかった、サチの高い声と一緒に。