【14】 オノ 3
開いた傘は二人で使うには小さすぎた。
かなり強引だったのはわかっている。
コミネの最後の登校日なのもわかっていた。
だけど、顔を見てしまった。
……どうしても。
傘を傾ける。コミネが雨に濡れないように。
側の国道からは、雨に濡れた路面を車が走る音がひっきりなしにしていた。
駅までの道は国道沿いの裏道。
この辺は水はけが悪い。落ちた雨は側溝に流れずにアスファルトの窪みにたまる。
傘に落ちる雨の音はぼそぼそとうるさい。それを聴きながらゆっくりと歩く。
コミネは気を使って、傘の先を押してきた。
また、すぐに傘をもどす。
いいよ。無理やり連れ出したんだ。コミネは濡れなくていい。
「オノ、濡れちゃうよ」
「大丈夫」
俺のことは気にしなくても平気。
多少濡れたって、風邪なんかひかない。
彼女なんか、いたことはない。
女子と歩く場合は相手の歩幅に合わせて、男は車道側を歩くといいよ。なんてことを兄ちゃんが言っていたのは覚えている。
雨の生臭い匂いとは違う。コミネからは果物のような甘い香りがした。
シャンプーだろうか。よく、わからないけど。
なんだか……落ち着かない。
ふたりで商店街を歩いたときよりも緊張している。
「……あのさ、引っ越すこと、誰にも言わないでいてくれてありがとう」
ぽそっと呟いたコミネ。
「……約束したからな」
夕暮れの商店街。
『好きだ』と告白したあとに、『引っ越すんだろ?』と訊いた。
驚いて怪訝な表情をしたコミネに『母さんから聞いた』と告げた。『あそこの惣菜屋でさ、コミネん家の母さんから聞いたって』。
『ああ……』
コミネは『誰にもいわないで』と、小さく肯いた。
「先生たちにも、内緒にして欲しいって話してあったから。助かった」
コミネの頼みだから、黙っていた。
理由は訊かなかった。
だけど……。
「……なんで? さっきの……ナチには?」
「言わないよ」
どうしてだろう。
今は世界中どこにいたって、電波さえあればSNSですぐに繋がることはできるけど。
「オノしか知らない」
……知っているのは俺だけ。
「それで、いいのか?」
ナチも、コミネの友だちも知らないのに、俺だけが知っている。
俺しか知らない。
そのことに優越感と同じくらいの罪悪感を覚える。
もし、ナチがこのことを知ったら。
きっと、さっきとは比べものにならないくらいにきつく睨まれるだろう。
「……今日で最後の帰り道だった」
コミネは答えずに、違うことを言った。
それが答えのように思えて、それ以上を訊くのはやめた。
「ごめん。でも、顔を見たら……どうしてもコミネと話がしたかった」
本当のこと。
あの場ではっきりと断られても仕方がないと思っていた。それをしなかったのは、コミネの優しさだ。
俺にも時間をくれた。
「……うん」
「ナチ……あいつ、俺のこと、睨んでた」
「ああ……ナチは、不器用な子が苦手なんだよ。……でも、いい子だよ」
コミネは少しだけ笑った。
不器用……? 口の中で繰り返す。
俺、不器用だと思われたっていうこと? どこがだよ?
ちらりと横顔を覗き見る。
隣にいるコミネ。
今はここにいるのに。
もうこうやって、横顔を見ることもできなくなる。
「……いつか、帰ってくるのか?」
「うーん、わからない」
小さく首を振る。
「……遠いな」
「うん」
いくらSNSで繋がっているとはいっても、こうやって並んで歩いて、同じ時間に、同じ場所で、同じ景色を見ることはない。
ゆっくりと歩いたおかげで、駅まではいつもの倍以上の時間がかかった。
上りのホーム。
待合室のベンチに並んで座る。
電車がきても立ち上がろうとしないコミネと、何本か見送った。
コミネがナチを待とうとしているのがわかった。
ぽつぽつと、思い出と言えなくもない話をした。話の内容は大切じゃなくて、ただコミネと話しをしたかった。
そのうちに空が明るくなり、雨粒が小さくなった。落ちる間隔が遠くなると雨が止んだ。薄くなった雲の間から陽が射そうとしている。
もう、傘は必要ない。
ホームにアナウンスが流れる。線路の向こうから、黄色い車両の先頭が見えてきた。
電車がホームに停まるのを待ち、ベンチから立ち上がる。
「コミネ」
ありがとう。
俺の気持ちを知ってても、普通に接してくれて。
今も、ここまで付き合ってくれて。
コミネがいなくなったら……。
どうなんだろう。まだ実感はないけど。
きっと、ふとしたときにその姿を……探すんじゃないかと思う。
「うん?」
しっかりと目を見て覚えておくよ。コミネが笑った顔。その髪の色。よく似合っていて、本当にキレイだと思ったんだ。
覚えていてくれるかな。俺のこと。
「元気でな」
「……オノもね」
電車の扉が開いた。振り返りはしなかった。片手を上げる。
少しだけ鼻にかかったようなコミネの声。
忘れたくない。そう思った。