おっぱい哲学と倫理的感性の形成について
巨乳か貧乳か、長きに渡り繰り広げられたこの醜くも儚い論争に終止符を打つことにした。ここでは、この論争を『おっぱいバトル』と呼ぶことにする。
中国4000年の歴史に次いでの長期間を誇り闘争が続くこのおっぱいバトルを今一度ロジカルに考えられはしないだろうか。
『おっぱい』。お下劣で下品さを醸し出しながらもその文字列が放つ芳醇なまでの香りは私たちを包み込む。その雄大さから『聖母』と名付けてきた者も少なくないだろう。アヴェ・マリアおっぱち、略してアヴェマリっぱいだ。
人類が愛してやまないからこそ、自らの趣向をまかり通そうとする者が出てきた。
これが全てのはじまりだった。歴史を顧みたがすまない、結論をつけさせてもらう。
私は物心を抱いた頃からこの事象に関しての思考を続けてきたが、ようやく答えを見つけ出したのだ。
私の結論、それは……
巨乳の勝利だ。
これは妄言では無い。もう一度繰り返そう。
〜巨乳の圧勝だ〜
今閲覧している巨乳派を横目に憤りを隠せない貧乳派の殿方、まずは落ち着いてくれ。ここには明晰かつ斬新な論理があるのだ。それを解説していこう。
私の論理の重要な軸として、このおっぱいバトルが根底に孕む見逃せない問題がある。それは、そもそもこのおっぱいバトルが成り立つためには巨乳派の妥協が存在するということである。そしてこれが全てだ。
なぜ小っぱいは「貧」乳と呼ばれ、「持たざる」者と呼ばれるのか?それは、おっぱいに優劣をつけるとき、本能的に我々人類が巨乳を優位に立たせるからだ。必然的に小っぱいは「劣」となる。故に「貧」で、故に「持たざる」なのだ。
私の理論軸を力強く支持する重要なファクターはおっぱいバトルそのものだ。次はそこに論点を移すことにする。
よく耳にする巨乳派の主張としては、柔らかい、包容力がある、用途に優れている等々がある。非常にシンプルだ。しかしながらダイナミックだ。一挙手一投足で街を壊滅させる怪獣のような逞しさがあることがうかがえる。
対して、貧乳派はどうであろうか。私が散見した中では、希少価値がある、形が綺麗などが多かった。これらが貧乳を擁護するには到底届かないことに気づけるだろうか。これらは貧乳の良さではなく、おっぱいの良さなのである。貧乳のアレテーが綺麗な形で100点だとするなら、形の綺麗な巨乳は200点ではないか。この論理の破綻に、貧乳派は気づくべきなのだ。
更に私が目を丸くした貧乳派の意見に、巨乳は下品というものがあった。さすがに笑いがこぼれた。これは貧乳のフォローでもなんでもなく、巨乳に対する冒涜でしかないのである。
大分、本筋が掴めたのではないだろうか。
一概に全てとは言わないものの、貧乳派の意見として挙げられるほとんどが、かなりかそ細いのが実際なのだ。
ここまで陳列した事実から、蓋然的ではあるものの決して独善的ではないまとめをするならば、やはりおっぱいにおける真実の魅力は『大きい』ということであるのは明白だ。
皮肉にもおっぱいの大小による勝負の場のためのおっぱいバトルが巨乳の素晴らしさの担保となってしまっているのだ。
この理不尽なまでのアイロニーが証明したように、巨乳に軍配が上がることは想像にかたくないだろう。
以上、独白とする。