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1. 無能ではなかったはず

閲覧ありがとうございます。

 例えば赤ん坊が産まれたとき、それ自体は何を思うだろうか。生に対する恐怖、同時に死に対する恐怖、そして彼らが酷く泣き叫ぶのは、もう二度と、安寧の闇に戻れないという絶望からであろう。

 ある世界より追放された者は途端に「生きなければならない」という過酷な状況に捨て置かれる。

 この男もまた、自分の心拍数が急上昇し呼吸が苦しくなるのを感じた。辺りを見渡すと心臓の動きは更に速まり冷や汗が出てきた。喉の奥から嗚咽のような呻き声が漏れ、脳味噌が激しい熱を持ち出す頃には赤ん坊のように泣き叫ぶ準備が整っていた。

 少なくとも赤ん坊と同じく皺くちゃの、猿みたいな顔をして制服のシャツを握りヨロヨロと立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず転倒した。

「ヒッ」

転んだ拍子に手をついたが、単なる土ではなく腐った桃のような感触があり何かと見てみれば、それは腐敗しつつある女の乳房だった。指がズブリと肉に埋まる。


 悲鳴を上げた。


 そこらじゅうの死体を啄んでいた鳥たちが一斉に飛び立ち、森の中には男ひとりだけになった。

 男は指についた蛆の類いを振り払いながら後退りし、陽の光が当たる森の裂け目から這い出て針葉樹の幹に腰を打ちつけるとまた絶叫し、アワアワと立ち上がり、山を一目散に駆け降りた。

 大木が空に蓋をしていた。苔に足を滑らせた男は丘を転がるチーズのように斜面を下ってゆき、崖から飛び出て約1メートルの高さを落下し、そこでようやく動きを止めた。

 全身に鈍い痛みがある。口に入った土塊(つちくれ)を吐き出し上体を起こした。

 どうやら建物の裏に落ちたらしく、目の前には泥に塗れた木造の壁があった。足元には木箱や農具の類もあり、無頓着に置かれたそれらの下で湿った雑草が生い茂っていた。

 しばらく放心して、陰鬱な植生に気を取られていたが、どこからか歌声の聞こえてくることに気づいて肩を震わせた。

「なに…」

なに、と壁の陰から顔を出す。

 物悲しげな女の声が冷たい空気を震わせる。家々の並ぶ通りでは村人たちが軒先に出て、列をなし歩いて行く人たちの側に青い花束を置いて行った。中には手渡しで受け取る者もおり、フードの奥から切り立つ山のような鼻と青い瞳が露わになり、男はすぐに自分との違いを自覚した。

「え…」

泥だらけの手で、同じく泥だらけの顔を撫で沈鬱な行進を眺めていたが、

「あ」

男は列の中に見覚えのある人を見つけて身を乗り出した。

 身長は他の者より頭ひとつぶん低い。声をかけられて微笑む顔も、まだ親近感を覚える幼さがある。肩まで伸ばした髪がひとりだけ黒々としているのも、彼に確信を与える手がかりとなった。

 鼓動が速くなるのを感じ、男は藁にも縋る思いで家の陰から飛び出して行って人混みを掻き分けると彼女の前に立ちはだかった。

 突然の乱入者にざわめきが起こる。列の後方で歌を歌っていた女たちも息を呑み、汚らしい男を驚嘆と軽蔑の眼差しでもって迎えた。

 唾を飲み、

「た、龍美(たつみ)さん…」

男はぎこちない発音で彼女を呼んだ。

 龍美と呼ばれた女は目を見開き、すぐにフードを取った。右手の中指には灰色に輝く石の指輪がはめられている。

「コイヌマくん?」

彼女は怪訝な顔の村人に何かを問いかけられ、聞きなれない言葉で答えた。しかし彼女も浮かない顔で首を横に振り、訝しげにコイヌマを見上げた。

「いちおう送別会の最中なんだけど…」

「送別会?あ、送別会……」

言葉の意味は解る。だがそれ以上の、例えば誰の何のどこへ行ってしまう送別会なのかはさっぱり見当もつかず、あらゆる疑問を言語化できないまま黙りこくってしまった。

 『送別会』を中断され困っている彼女は、

「んーと…コイヌマくんねえ…ここがどこだか分かる?」

と、ひとのいい笑みを繕った。それに対してコイヌマは、水底から引き摺り上げられた海難者のように口をパクパクとさせて矢継ぎ早に質問を浴びせた。

「わ、わからないっていうか、龍美さんは分かるの?いったい何が、龍美さんは何してるの?この人たちは?お、俺ら授業受けてたよね?な、なにがなんで…な、ど、どうしたら…」

「落ち着いて。ねえ、コイヌマくんもどこかで起きたんでしょう?その時何か持ってなかった?周りに形見みたいなもの…」

「形見?俺、おれ、おれ、死んだの?」

「私のはコレ」

慌てふためくコイヌマを無視して彼女は指輪を見せた。鈍い輝きの中に血の気の失せたコイヌマの顔と龍美の穏やかな微笑が写る。

 列の真ん中で茫然自失としてしまった彼を見かねて、彼女が不安げな村人に何かを話し、

「どこから来たの?案内してくれない?」

と半ば強引に彼を連れ出し、村の外れに引っ張って来た。

 冷たく、湿った風が彼の泣きそうで火照った顔を徐々に鎮める。崖の上に立つ塔の風車が軋みながらもゆっくりと回っている。小花が咲く土の道はやがて枯れ草の中に埋もれ、再び鬱蒼とした山へ入って行こうとした。

 龍美が「こっちから来たの?」と慣れたように尋ねるので、

「待って…あの、本当に龍美さん?」

恐ろしくなった彼は、青ざめた顔で彼女を見上げた。

 顔は記憶にある通りだが、薄汚れた白い皮のマントを羽織り、チュニックとタイツを履いて腰に小剣を携えた姿はあまりにも記憶とは程遠い。しかし、

「うんー、龍美(たつみ)紅葉 (もみじ)。クラスではあんまり話したことなかったよねー」

彼女は平然と言ってのけた。それから、「コイヌマくんが先導してくれる?」とも。

 薄暗い森の中を彼は俯いて歩いた。

「途中で転んで落ちてきたのは覚えてるんだけど、どこから来たかは、その、道順は全然分からない…周りに死体が沢山あって、お、俺ってやっぱり死んで、まさか、蘇ったのかな?龍美さんは?あのさ、どういうことか解るなら説明してくれない?俺ぜんぜん何がなんだか…!」

脳が煮え立ち声がひっくり返ってしまった。

 二人の足音だけが聞こえる。

 回答を求めて後ろを振り返ると、龍美の眠たげな目と視線がぶつかってしまった。彼女はわざとらしくウーンと言って、

「じゃあ静かに聞いてくれる?質問責めは無しねえ」

と前置きをして、つらつらと語り出した。

「昔ここで大きな戦争があったの。色んな国や人が自分の求めるものを手に入れる為に、或いは認めさせる為に戦っていたんだけど、あまりにも戦禍が広がりすぎてこれじゃあ何も残らないって思った偉い人たちが、停戦の条件として互いに互いの戦死者たちを二度と生まれ変わらないよう、魂を外の世界に追放したの。それが私達の生きてた世界、厄介者の“掃き溜め”ねー。それから私達は停戦の誓約があり続ける限り、永遠に“掃き溜め”で暮らすはずだったんだけど、どういうわけか誓約が破棄されたらしい…違うわね、破棄されたのよ、確実にね。で、大戦の戦死者達はここに戻ることを許されて今に至るってこと。多くの人はこの日を見越して戦死者達の“楔”つまり、死ぬ前に死者が持っていた記憶や知識の類を形見に残して何百年も守っていたの。私にはだから、この指輪がそう。初めは私もコイヌマくんと同じでビックリしたけど、指輪のお陰で大戦のこともすぐに思い出せたし戦争が再開されたから戦場に向かってくださいって言われても、あの時(・・・)の続きとしか思わなかったかなあ。勿論、家族のこととか私たちがいなくなっちゃってみんなどうするんだろうとは思うけど…向こうのことは何も分からないしね。“掃き溜め”に居たときも、ここのことは思い出しもしなかったし、いずれそうなるんじゃないかな。どうだろうー」

おっとりとした口調で語られたことはコイヌマの中に何も、何一つとして現実味を帯びず、ただ、

「あー…えー…じゃあ俺もその形見を見つけたら理解できるようになるのかな」

「そうじゃないー?」

龍美の言う“楔”だか『形見』だかに賭けるほかなかった。

 苔と土で湿った斜面を猫背になって歩いていると、

「あっちかなあ」

彼女はコイヌマを追い越してズンズン進んで行ってしまった。十数分の山登りで息も絶え絶えな男は、せめて上履きじゃなければ、と額の汗を拭い彼女について行った。

「知ってるの?俺の、い、いたとこ…」

「死体が沢山って言ってたから、まあ…」

そうして彼は再び森の裂け目にやって来た。

 辺りに漂う冷気のお陰で腐乱臭は抑えられているが、冷蔵庫の中で放置され続けた冷凍肉の黴臭さがあった。龍美が自然にできた天窓の下へ行くと肉を啄む鳥達が失せ、宙に黒い羽が舞った。

「探そう」

木陰で縮こまっているコイヌマを待たずに彼女は“楔”を探し始めた。

 もしかしたら地面に埋まっているかもしれないとブーツで土をほじくり返し、中から白骨が出てきても顔色ひとつ変えなかった。

「えー、本当にここ?」

はじめは動こうとしない彼に代わって腰を曲げ、目を凝らしていた龍美も、「手伝ってねえ」と、いい加減しびれを切らし、彼を呼び寄せ共に捜索していたが、出てくるのが骨と虫ばかりになると「駄目そうかも」「見つからないね」と諦め始め、

「誰かに盗まれちゃったのかも」

と肩を竦めて捜索を切り上げた。

 コイヌマはエッと額に皺を浮かべた。顔が、「見つからない?そんなことあるの?」と叫んでいる。

「ねえ、困ったねえ。コイヌマくんどうするの?」

煽っているわけではないのだろうが、彼女の緩慢な口調と所詮は他人事と言わんばかりの口ぶりが鼻につき、彼はケッと言って落ち葉を蹴り上げた。

「ケッて…」

「どうすればいいんだよ?どうすれば…こんなわけわからないとこ連れて来られて、普通は魔法とか剣とか、そういうんじゃないのかよ?どうすればどうすれば…あ!そうか、そうだ、こんなの夢だ。夢だ夢だ」

窮地に追い込まれた彼は頬肉を捏ね、「夢だ夢だ」と呪文のように呟きながら目を瞑った。しかし何が起こるでもなく、目を開けたところ困り顔の龍美が腕を組んで彼を見ていた。羞恥で顔が熱くなる。

 完全に力が抜けてしまって彼はヨロヨロと座り込んだ。

「えええ?なんで?どうして?こんなことある?えええ?」

「コイヌマくうん。私、早く追いつかなきゃいけないからもう行くねえ」

もうどこへなりとも行ってしまえという気分だった。その一方で見知らぬ、言葉も通じぬ土地に置いていかれる恐怖心があり、不幸な同級生を見捨てるという非情な選択をした龍美にますます怒りが募っていった。

 頭を抱え、体を前後に揺らし唸るばかりであったが、山の彼方で突如として雷鳴が轟き木々が木の葉を散らして彼の上に不安を降らせた。

 突発的に立ち上がった彼は山を下りる途中の龍美のもとまで走って行って「俺も行く!戦うから!戦えばいいんだよな?」と顔を覗き込んだものの、彼女は細い顎を空に向け、「あのねえ」と声音を低くした。眼球に、空を横切る「なにか」の姿が映る。不審に思ったコイヌマが遅れて空を見上げたときには既にマントを翻し、弓を取るなり全速力で斜面を駆け下りた。彼も転げ落ちるようにしてついて行こうとする。

 途中、間に合わない、と思った龍美は矢の無い弓を引き絞り、森の彼方へ黄金の光を撃った。光は木の枝を折り空を切り裂き、燃える彗星のような火の尾を引いて家屋にぶち当たり、眩い閃光を放った。

「うっ」

コイヌマは目が眩んで足を滑らせ、またもや崖の下へと転がって行った。

 地面がどこにあるのかも分からなくなっているうちに村の方では轟音が鳴り響き、次いで生き物の断末魔が聞こえた。

 家屋の裏に落ちた彼は肌を粟立たせ、折れた指の痛みに震えていた。

 しかし興味本位か何なのか、家の陰から恐る恐る顔を覗かせると、翼を持つ恐竜にも似た「なにか」に睨まれ血まみれの牙で吠えられた。

「ひっ」

龍美は腰の小剣を「なにか」の脳天に突き立てトドメを刺し、それから、目を瞑り縮こまっていただけの男に歩み寄った。

 ねえと言って腰を落とし、

「戦場じゃ貴方を守ってくれるひとなんか誰もいないわよ?」

優し気に微笑み、立ち上がる。

 だが、

「まっ…待てよ!俺にもできることがあるかもしれない!探すから!こんな所に置いてくなよ本当に何もわからないんだ!頼む。おね、お願いします。なあ、クラスメイトだろ?」

ぎこちない愛想笑いを浮かべ、彼女の足首を掴んだ。

 コイヌマの知っている龍美紅葉はセーラー服を着ていて、学校でも言わずと知れた美人だった。恋人がいるとの噂もあったが本人は否定も肯定もせず、ゆるゆるとはぐらかしているだけらしかった。美化委員で、年末の大掃除のとき友達と喋っているところを一度だけ注意されたことがある。仲間内では『ご褒美だ』などと言っていたが、きっと彼女は内心ぴくりとも笑っていなかったに違いない。

 それでも彼女は微笑みかけてくれた。

 足を払って彼の手を退け、踵を返した。

   *

 道すがら龍美が教えてやった。

「さっきのは”アンテオス”のペット、”パラスケーニスラ”。ドーベルマンとかピットブルみたいに訓練された、人間を襲う為の動物ねえ。ところでコイヌマくうん、手、大丈夫?」

革のグローブがコイヌマの左手を指す。

 彼は脂汗をかいて痛みを堪えていたが、大丈夫ではないと首を振った。山を転がり落ちた拍子に人差し指と手の甲の骨が折れたようで、青黒く腫れ、熱をもっていた。

 歩きながら、

「拠点に着いたら治療してもらおうねえ」

だから早く行こう、ではなく元々小走りくらいの速さで歩いており、気を抜けば置いて行かれそうになる彼をそれとなく励ました。

 現在彼らが向かっているのは“ケープ・コッダー”という国の北東部にある拠点で、彼らが目を覚ました“ザンシアの村”出身の軍人はそこで集まることになっていた。

「無事に辿り着ければいいけど」

「なんかあるの?」

「さっきみたいに敵が来てもおかしくないでしょ?」

「村は平気なの?」

「戦える人は他にもいるから」

コイヌマは足元を照らす「光の波紋」に不安げな視線を落とした。

 これも龍美が“誓い”と呼ばれる、コイヌマが言うところの『魔法』によって生み出したもので、使用者の足元を光の波が照らしていた。彼は龍美と並走しなければ、陽が落ちた山道(さんどう)の中で灯りも持っていないという非常に頼りない状況にあった。

 暗澹たる道は果てもなく続いている。

 左手を襲う震える程の痛みにコイヌマは全く空腹感など覚えていなかったが、「お腹減ったね」と龍美が言うので道端で休憩をとることにした。彼女はポケットから油紙に包まれたパンを取り出し、「要る?」と聞いたが、コイヌマは青ざめた顔で断った。

「『指輪物語』のレンバスみたいだね、そういえば」

平たいクリーム色のパンを見て、彼女はそんな感想を漏らした。噛めばパキ、と音がしたのでパンというよりは焼き菓子に近いのだろう。『レンバス』は知らないが圧縮したカロリーメイトだと彼は思った。

 もはや制服だから何だと躊躇うこともなく、土の地面に座ってぼんやり遠くを見ていると、藪の中からピョコンと耳が出てきた。

 茶色い毛に覆われた長い耳だ。一見ウサギのようだが、ウサギにしては大きすぎる。

「た、龍美さん…」

彼が警告する前に彼女も藪の方を見ており、

「匂いにつられちゃったのね」

と、食べかけのパンを紙に包み、そっと懐へ隠した。

 長耳は藪を掻き分け彼らの前に姿を現した。その姿にコイヌマがアッと声を上げると長耳の赤い瞳が彼を見上げた。

 異様に大きいウサギだと思ったものは手足に長い体毛が生え、耳と尻尾を生やしただけの裸の少女だった。出っ歯でもなく、乳首が六つあるわけでもない。

 痛みも忘れ、少女に視線を釘付けにする男を見て、「同級生のこんなところ見たくないわねー」と龍美は呆れた。

「ほらあ、貴方もどっか行きなさい」

少女を追い払おうとすると、

「ど、どうしたんだろう…お腹、空いてるのかな」

反対にコイヌマが引き止めようとした。

 何を言いたいのか龍美の顔をチラチラと見てくるので、彼女は呆れて物も言えないと肩を竦めた。

 少女は鼻を利かせ、男の方ではなくパンを持っている彼女の方に近寄ろうとした。溜め息をついた彼女が、「コイヌマくん、そこら辺の草をむしってあげてみたら?」と助言したので、殆どヒトの姿をした少女に雑草をやるなど倫理的に間違っている気もしたが、彼は痛めていない方の手で草をちぎり、ほら、ほら、と揺らしてみせた。

 すると少女の鼻先がひくつき、食欲の矛先をコイヌマに向けた。彼は、そうか、ウサギだから雑草も食べるのかと一人で納得していたが、そうではなかった。

 少女の赤い瞳が捉えているのは彼の傷口だった。そこから漂う血の匂いが獣の本能を掻き立て、そして、

「あああ!」

突然飛びつかれそうになった彼は草を捨てて木陰を飛び出し、暗い山道(さんどう)に這い摺り出た。

 腹を空かせた少女は思いがけないことに二足歩行で追いかけて来た。逆に四つん這いでノロノロと逃げている彼の腹を蹴っ飛ばす。それは凄まじい脚力で、彼は断層崖(だんそうがい)に背中をぶつけ、胃液を吐き散らした。

 蒼い月光が少女の裸体を照らし出す。

「ま、待て待て待て待て」

歯は確かに出っ歯ではない。普通の、肉も噛みちぎれる人間の歯だ。

「話通じないのか!」

彼は従来の言語が全く通じないことも忘れて慌てふためいた。

 少女が彼の吐いた胃液へ興味をそそられている間に崖沿いを移動し、土の壁に背中を(こす)りつけながら何とか逃げようとする。あと1メートルも横にズレれば三叉路に出られる。そうしたら背後の上り坂を駆け上がればよい。

 だが少女の嘔吐物への関心は長続きせず、逃げようとする獲物へ蹴りかかった。コイヌマは一か八かで少女に背を向け坂を駆け上がろうとする。

 しかし、上空から急降下してきた黒き飛来者——パラスケーニスラの鉤爪が制服の袖を切り裂き、彼はそのまま前のめりにすっ転んだ。背後では少女の断末魔と耳を塞ぎたくなるような水音がして、意図せずともしばらくは地面に臥せって動けなかった。恐怖で震えが止まらず手足も言うことを聞かなくなっていた。

「ううう、ううう!」

口からは意味のない呻き声ばかりが漏れる。

 そこへ、

「コイヌマくん?」

龍美が呆れた同級生を迎えにやって来た。

 彼女は手に弓を持っており、空を駆ける異質な存在に気づくや否や光の矢をうち放った。しかしそうするには少し遅過ぎた。

 丑三つ時の闇に溶け込む黒い鱗が目測を見誤らせ、彼女の矢が最大限輝きを放つには十分な距離が無かった。加えて回転する刃のような翼を完全に避けることも出来なかった。パラスケーニスラは無言で、少女の内臓を嘴にくっつけたまま龍美をただ殺しに来た。

「≪敵は来(エールコマイセ・)たれり(エクトロス)≫!」

「≪敵は来(エールコマイセ・)たれり(エクトロス)≫」

彼女と、見知らぬ誰かの二つの声が沈黙を破り、言葉は死ぬべき人に加護をもたらした。

 驚く彼女を黄金の膜が包み込む。それは「敵」の進行方向を僅かに逸らすだけの強度を持ち、彼女に与え得た凄惨な傷を擦り傷程度に収めた。

 いったい誰が彼女を助けたのかということだが、それは兎も角体勢を立て直した彼女は追撃する三本の矢を放ちパラスケーニスラを攻撃した。更に天へ網を仕掛けるような凄まじい雷が降り注ぎ、巨大な飛来者は桜が落ちるみたいに不規則な軌道を描きながら山の彼方へと落ちて行った。

 遠くで墜落音が鳴り響き、木の葉がにわかにざわめいた。辺りには冬の空気にも似た焦げ臭いにおいが漂っている。

 龍美は辺りを見渡した。

「だあれ?お礼も言わせてくれないの!」

闇の中で囁き声が聞こえる。

「どうするんですか」

「会ってどうすんだよ…行こうぜ」

「待って…その声、ウララくんと、赤羽目くん?」

返答は無かった。

 息を吐き出すと、再び感覚の狂うような沈黙が訪れる。彼女は額についた傷を拭い、そういえば何かを忘れていると思った。

   *

 ケープ・コッダー、北東部第三基地。

 龍美がそこを訪れると先に着いていた村の住人が彼女を温かく出迎えた。そして彼女が遅れる原因となった見知らぬ男については、泥だらけで青ざめた貧相な姿に冷ややかな視線を送り、恐らく「こいつはいったい何者なんだ」と尋ねた。それに対し彼女も、別に何でもない、戦うことのできない死に損ないだと答えたことだろう。

 パラスケーニスラ襲来の後、彼女はコイヌマを山の斜面で見つけた。どこからか呻き声が聞こえると思えば、相変わらず湿った土の上にうつ伏せになってガタガタと震えていた。

 一夜を過ぎて彼の負傷した手の甲が、アケビを植え付けられたのかというほど青く腫れているのを見て、

「お医者さんに診てもらおうねえ」

と、彼女は村人との話を切り上げ、彼を要塞の医務室へ連れて行った。

 その帰り。

 左手を包帯で固定され、腕を吊られた彼と龍美は偶然にもある二人組と邂逅した。

「ウララくん?」

「ああ、龍美さん。結局ここで会うんですねえ。すみませんでした、あのとき挨拶も出来ませんで」

開け放たれた灰色の正面扉から出て行こうとすると、人の波に恩人たる二人の姿を見つけて彼女は近寄って行った。

 ウララと呼ばれた男の方は無駄な肉の削ぎ落とされた黒髪の、眉目秀麗を体現した体つきで、石の柱に寄りかかり薄らと笑みを浮かべて喋る様は切り取れば一枚の絵画にもなるだろう。

「おひとりですか?」

「いーえー、ザンシアの人達と、あとコイヌマくんが一緒よお」

「コイヌマ?」

一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐにアアと言って、「小井沼(おいぬま)さんね」と人混みから男の姿を見つけようとした。

 国の人間と比べて頭半分ほど背の低い男は龍美とはぐれて、隣の扉から外に出ようとしていた。

「あ、そうだわ。ずっと間違えて呼んじゃった。小井沼くうん!」

龍美の声がして駆け寄ってみればウララともう一人、国の人間と同じぐらい背の高い岩のような男がいて、小井沼は「ウララ、赤羽目」と愛想笑いを浮かべればいいのか驚けばいいのか、やあと挙げかけた手を引っ込め苦笑を買った。

 桜色の唇で品のいい弧を描き、「クラスメイトでしょう」とウララは耳に髪をかけた。

 土に臥せって怯えていた彼は知らぬだろうがと彼女が二人に助けられたことを説明し、

「すごい強いんだからあ、びっくりしちゃった。二人ともどこから来たの?」

世間話でもするように、互いの知らない過去を話し出すのだ。

「ミラクです。銀花の園・ミラク」

「ってあの”口無し山”の?”セミテオスの子”だったの?二人とも?」

「まあそんなところですね」

「へえ、そうなのねえ。すごいわあ、生前は一度もお目にかかったことがなかったのに同級生がそうだったなんて…なんだか光栄ねえ。しかも二人一緒なんだから、本当に仲良しさんなのねえ」

そう言われてウララは「どうでしょう」と相槌を打つが、赤羽目の方は周りの人間に気を取られて話を聞いていない。たまに現地の人間と勘違いされて話しかけられ、迷惑そうではあるが低い声で何か会話をしている。

「龍美さんはザンシアでしたよね。小井沼さんもですか?」

「あー、そうねえ。うーんとねえ…」

いつか話を振られると思っていたが、言いにくそうにする彼女に代わって自分の口から、「それがよく分からないんだよね」と告白した。

「たぶんそうなんだけど、その、俺には形見?だか何だかっていうのが無くてさ」

エッと仰天したウララにつられて赤羽目も振り返った。赤羽目はただウララの声に反応しただけだろうが、顔を見合わせて肩を竦めた。

「なに?」

「小井沼さん“楔”が見つからないんですって」

「へえ。じゃあ言葉学んで農作業か何かすりゃあいいだろ。こんなとこ来て何か出来ると思ってんのかよ…」

薄暗い色の瞳が小井沼を値踏みし、それだけ言うと壁から背中を離して「何か飲み行こうぜ」とウララを誘い、先に行ってしまった。

 他の人々がマントやらチュニックやらを着ている中で見慣れたはずの学ランが鮮烈に見えた。ウララも赤羽目の冷たい言葉を謝り、「困ったら言ってくださいね」と肩に触れて彼の後について行った。

   *

 第三拠点に集まった軍人らが向かわされるのは、現在彼らがいる北の大地より南下した”カサカリ”という極寒の乾いた国で、夕方頃には出発すると聞いていた。

 小井沼は空き箱の上に座りガレットを頬張っていた。箱の中にあった酒は皆誰かの手に渡り、野外で出発前の酒盛りが行われていた。ハープのような楽器を持った男が人だかりの中で歌を歌っている。歌詞は解らないが、別れを惜しんでいることは伝わって来た——大切な誰かとの、平穏な暮らしとの、故郷との別れだ。

 歌に聞き入っている人の中に龍美の姿もあった。小井沼達と年もそう変わらないであろう村の若者と肩を並べ、もの悲し気な旋律に体を揺らし、歌を小さく口ずさんでいる。雪のような横顔にランプがあたたかい光を投げかけて、さながら朝を迎えた雪原であると、もしも小井沼が詩人なら胸のざわめきをそう表現したことだろう。

 そこにウララと赤羽目が通りかかり、視線がぶつかったものの口に残りのガレットを放り込んで俯いた。

「こんばんは」

しかしウララは、まるで慰問でもするかのように優し気な声を彼に降らせた。

「ほんばんわ…」

「お食事中だったんですね、すみません。食べる気力があるなら良かった」

彼も制服なのに変わりはないが、革靴からブーツに履き替え中に裾を入れているので他の軍人とは違う、近代的な軍服を着ているように見えた。

 にこりと笑い、後ろで退屈そうにしている赤羽目を気遣い「それでは」と立ち去ろうとするのを慌てて引き留めた。喉にパンカスが詰まる。噎せ返って涙を浮かべる彼の背中を「大丈夫ですか」と言って撫でてくれた。

「ごめん…あのさ、」

「はい」

「あのさ、教えてほしいんだけど…俺たちが戦う敵って、その、はじめっからあんな竜みたいなやつらなのかな…ウララも"楔"持ってるんだよね…」

言い慣れない単語を言うのが恥ずかしく、小井沼はひひと笑ったが、ウララは真面目な顔をして胸元からネックレスを出した。チェーンの先に古びた金の指輪が通されている。

「これが私の"楔"です。敵も雑魚を小出しにするほど暇ではありません」

「そう、だよね…」

「正直私も、夏生さんの言う通り貴方は後方支援に回った方が良いかと思います。」

夏生というのは赤羽目のファーストネームだ。

「馬鹿にしているとかではなく、考えてもみてください。無力な学生が戦場に出たところで犬死するしかないでしょう?第二次世界大戦の時だってせめて竹槍くらいは振るえましたよ。でも、こうなる前の私達はペンしか握ったことのないただの学生です。貴方は今もそうです。それが悪いとかどうとかではなく、いちクラスメイトとして心配しているのです。貴方は、学校で培った知識を使って人の役に立つべき人材なんです」

ウララは中腰になって、彼に強く言い聞かせた。

 『クラスメイトとして』『未来がある』『心配なのです』『貴方は頭のいい学生でしょう』と大して話したこともないクラスメイトに早口で伝えようとしても、殆ど意味は無かったかもしれない。或いは鬱病の失職者にハローワークを勧めるような危うさがあった。彼らが求めているのは同情と共感と、過程を経ない現金である。

 小井沼の視線は彼の胸元で揺れる金の指輪へ釘付けになっていた。

「辛いのはもっともですが…小井沼さん?


 あっ」


男はネックレスを引きちぎって要塞の中に逃亡した。

 冷たい岩の城に己の足音が響く。耳のすぐそばで破裂しそうな自分の鼓動が鳴っていた。頬が熱い。指先が痺れだす。

「盗った盗った盗った盗った…!」

元の世界では万引きだってしたことがなかった。

 彼は異様な高揚感に包まれていた。

 今なら人だって殺せるはずだ!と——自身の手に指輪をはめた。

 螺旋階段を下りた先で、「なんだ?」と彼は首を傾げた。何も起こらない。龍美の言うような記憶の回復や腑に落ちる感覚が一切なかった。手を見つめたまま歩いていると壁にぶつかりそうになって、そこに映った自分の陰に悲鳴を上げた。

「小井沼さん?」

背後から声と共にウララが現れる。走ったせいで顔が赤くなっていた。

 小井沼は咄嗟に指輪を外し、暖炉の前まで後退りして、火に指輪をくべようとした。共に小部屋へ入って来たウララは凛々しい眉を八の字にして、どうしようもなさげに首を振った。

「それを燃やして貴方になんのメリットがあるんです?」

「メリット?」

「利益ですよ」

そんなことは知っている、と叫べば良かったものを、彼は歯ぎしりをして頭に血を上らせた。吹き出物が破裂して黄色い汁が噴き出るのではないかというほど顔を強張らせ、眉を吊り上げ、指輪を床の埃の上に投げ捨てると無言でウララに近づいた。

 桜色の唇が小さく震える。

 青黒い瞳が恐怖に揺らぎ、それでも男から目を離せないでいる。

「小井沼さん…」

階段に踵をぶつけた彼は腕を掴まれると徐に(かぶり)を振って、目を閉じ、やるせなさそうに俯いた。

 だが、乱れた前髪を振り払うと同時に頭を上げ、

「気は済みましたか」

と言って両腕を折った。

 勿論自身も腕を掴まれているのだから手は使っていない。

 しかし小井沼の両腕は左右に開き、真後ろに曲がり、それから肩でねじ切れた。

 利き手が自由になったウララは男の顔面を鷲掴み、近くの壁に叩きつけて黙らせた。手に皮脂が付いたと机に擦りつけているところへ赤羽目がやって来て、薄暗い色の瞳が見下ろしてくるのを男はただ仰いでいた。

   *

 小井沼が迷い込んだ小部屋の先、地下牢の奥でそれは行われた。

 机に寝かせられた男は朦朧とする意識の底で、あらゆる感覚を残したまま恐怖に震えていた。両脚に人の手が這い、触れられたところから皮膚を切り裂くような痛みと熱さにも似た極度の冷たさが肉に染み込み、やがて骨も凍らせた。それだけで既に両脚が自分のものではなくなったような奇妙な感覚がしたものだが、赤羽目は、凍りついた男の脚を『魔法』で粉砕した。

 痛みは感じられなかった。

 しかし彼は散らばった氷の粒を掌に乗っけて、小井沼の目元まで持ってきてやった。

「わかるか?」

人肌の熱が氷に閉じ込められた肉片と血をとろけさせる。

 小井沼は叫びこそしなかったものの過呼吸になり、台の上で暴れた。既に四肢を粉砕された彼の蠢く様はまるで『蛆虫だ』と赤羽目は不愉快そうに吐き捨てた。

 唇を噛み、ンー、ンーと呻いた後で、

「人殺しい!人殺しどもめえ!」

赤羽目の顔に唾を吐きかけ、彼はアッと顔を拭った。

「汚い…」

「成る程、『人殺し』ですって」

側で拷問の様子を見ていたウララが唐突に口を開き、指輪のはめられた手で小井沼の顔を(はた)いた。

「夏生さんを『人殺し』にはさせません」

耳たぶの横にあてがわれた彼の手の中には、いつのまにか鋭利なナイフが握られていた。

   *

『人殺しにはさせません』

その通りだった。

 小井沼は遅々として感じる時間の中で自分の身に起きたことを全て認識していた。

 まずは両腕が狂った時計のようにぐるぐると回り破壊された。次に両脚が凍りつき、骨ごと破壊された。薄暗い、足の裏が固まるような冷たさの中で床に散らばった凍てつく血肉がゆっくり、ゆっくりと蕩けていく間、顔の皮が剥がされた。燃えるような痛みが襲い、地下室にこだまする自分の絶叫を半ば他人のもののように聞いていた。

 目玉を動かすと筋肉の震えが逐一肌の上で感じられ、傍観者となった赤羽目は道路で轢かれた犬猫を見る目ように自分を嫌悪し、遠ざかろうとしていた。ウララに『終わったら教えてくれ』と言って耳にイヤホンを突っ込み、部屋の隅で椅子に座って眠りこけた。

 その横顔は熱を失い石像のように固まった。

 男自身も、体をもったりとした泥に埋め込まれ、やがて果てしない時の中で意識だけが息をしているとそんな錯覚に囚われた。

 作業を終え、びっちょりと濡れた薄皮が腹の上に被せられた。ウララはズボンで手を拭いてから赤羽目の肩を叩き、敢えて小井沼がどうなったかも教えようとはせず最早忘れたと言わんばかりに無視を決め込み、颯爽と部屋を出て行った。

 彼らがいなくなってから脚の氷がどろどろに溶け、男は遅れて悲鳴を上げた。のたうち回ると腕に凄まじい痛みが走り、口を開けば顔面が痛みで覆われた。男は思考すらままならない痛みの渦にあって、台の上で叫び続けた。


いったいどれだけそうしていたのだろう。

 

 待ち焦がれた暗闇が、ようやく痛みから解放されようというとき部屋の奥から複数の足音が聞こえ、彼を見た誰かが悲鳴を上げた。

 しかし程なくして覆面を被った人間が血走った目で彼を見下ろし、肉の曝け出された顔面へ手を翳した。眼球さえも潰されるのかと黒い、小さな瞳が震えたが、その手は静かに瞼を下ろした。

   *

 眠っている者は時を忘れる。

 それゆえ瞳に降りた手の影と、瞼の裏の暗闇はひと繋ぎの記憶として彼に認識された。

「ようやく起きたか…小井沼(おいぬま)(かいり)

心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。

 目を開ける。

 橙色の光がぐわんと視界を湾曲させ、彼は起こそうとした体を寝ていた場所へ叩きつけそうになり、「おお危ない」と背中を支えられた。

 瞬きをする。

 彼は言語を理解できた。

「驚いておる」

更に自分の体を起こそうとした「手」を見つめて、何か、全てが悪い夢だったかのように全身から冷たい汗を噴き出した。

 しかし一度は失ったと思った両腕も両脚も、破壊されたという事実に変わりは無かった——小井沼は明らかに色の違う肌と、それらが自分の物ではないという強烈な違和感に震えることすらままならなかった。

「当たり前だろ?俺のものなんだから」

「あ!」

いったい誰が答えたのかと辺りを見渡す。

 小井沼が横たわる台の周りには、須く血のついた服を纏う男、女、子供までもがいた。中には例の覆面を被った男までいて、彼が顔の覆いを取ると頭にそう遠くない記憶が蘇った——男の正体は骨折の治療をした軍医その人だった。彼らの奇妙なものを見る目つきに、小井沼の吊り上がった目は燃え落ちる線香花火のように意気消沈した。

「俺だよ、答えたのは。俺」

「誰だ!」

「…なんだね、このトンチキは。やっぱりダメだったんじゃないか?」

「いや、きっとカミカゼが話しかけているんだ」

「カミカゼは生きてるの⁉︎」

「精神としてだ」

「カミカゼ!」

若い女が医者の話を無視して小井沼の肩に掴みかかった。

 驚きのあまり言葉を無くしている彼に代わって、

「この子は俺の婚約者だった」

と、誰かの声が教えた。

 けれどもその声は小井沼以外に聞こえず、婚約者の女は腕を掴んで泣いていた。

「え…これは、なに?おれ、は、どうすればいいんですか?」

「…?」

「あ、えーと…」

「なに?なに言ってるのこの人」

小井沼が口を開くと、しかし、女にも誰にも言葉が通じていないらしく充血した目で睨まれた。

 女は覚束無い足取りで離れてゆき、代わりに医者が歩み寄った。白い皮の手袋を腹の前で組み、小さく溜め息をついた。

「君の言葉を我々は理解できない。だがカミカゼが、我々の話す言葉を君に伝えてくれるだろう。

「戦争は始まってしまった。だが我々の戦いは途中だ。ここで希望を、死者達の願いを無下にすることは赦されない。君は生き延びた。どうかそれを天命だと思って、行ってくれ。


「全ての悲哀を打ち滅ぼす、外なる神を呼び戻すのだ」


そう言って医者の澱んだ目が見つめるのは小井沼ではなく、恐らく彼の中に宿る『カミカゼ』という精神であったに違いない。

 彼もまた、医者を見上げているようで体から魂が抜けたかのように、自分の置かれている状況を一枚の悲惨な絵画としてどこか遠くから見つめていた。

読んでくださってありがとうございました。

引き続きよろしくお願い致します。

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