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笹森さんは「そうだね」と認めた。
「だったら、そんな時期に理恵と時々会っていたというのは、どうしてなんですか?あの日ホテルで偶然会ったというのは事実かもしれませんが、それより前に会っていたのまで全部が偶然なわけないですよね?何か理由があるんでしょう?それは何なんですか?」
部署が変わって以来、めっきり顔を合わせる機会がなかったという理恵と笹森さん。
その二人が何度も会っていたのだとしたら、もしかしたら私のことが関係しているのかもしれない、そんな予感が張り詰めていた。
むしろそれ以外の理由があり得ないようにも思えた。
「俺と工藤さんが会っていたのは、ある意味、琴子と別れた直後だからだよ」
「ということは、つまり――――」
予想通りの答えに、親友の優しさにまた包まれた気がした。
理恵が、私のために、私の知らないところで動いてくれていたのだと悟ったからだ。
「―――私のことで、理恵と会っていたんですね。……きっと最初に連絡したのは、理恵の方ですね?」
「ああ、そうだよ。琴子が工藤さんに婚約解消を報告した翌日に、彼女から電話がかかってきたんだ。それはもう、いつもの工藤さんからは想像もつかないほどの激昂でね」
明るくカラっと晴れた空のような清々しい性格の理恵は、誰かを責め立てるような真似はしなかった。
何かトラブルがあって落ち度の所在が明らかな場合でさえも、決して一方的に攻撃するような人ではなかったのだ。
なのに……
「工藤さんからは、なぜ琴子を幸せにしてくれないのかと厳しく言われた。俺は、俺だって別れたくないこと、今無理に引き止めて結婚を強行しても後々琴子には辛い思いをさせるかもしれない、琴子の中でそれらへの覚悟がまだ育ってなさそうだということ、俺の方もおそらく遠くないうちに海外勤務になるだろうから琴子を守りきれない恐れがあること、ゆえに、今琴子のためには別れを受け入れた方がいいと判断したこと、けれど例え今は別れたとしても、海外勤務が終わるまでに琴子が誰かと幸せになっていなければ、今度こそ俺が幸せにするつもりだという決心を聞いてもらった。最初は懐疑的な目で見ていた工藤さんも徐々に理解してくれたようだった。俺は、日本を離れている間、琴子に変な虫がつかないよう見張っててくれと工藤さんに頼んだ。工藤さんからは、あくまでも自分は琴子の味方で、もし琴子が俺との復縁を望まないようなら協力はできないときっぱり言われたよ。俺はそれでいいと答えた。工藤さんは他にも、自分が俺に連絡したことやこうして会ってること、そのとき話した内容は絶対に琴子には教えないでくれと言っていた。もちろん俺は了承した。だが今、その約束を破ってでもあの頃のことを説明しているのは、その必要があると踏んだからだ。俺が工藤さんと会っていたのはあくまでも琴子のことがあったからで、彼女と俺の間には恋愛感情なんて存在してなかった。それを信じてもらうために話したまでだ」
約束を破ってしまって、工藤さんには済まないけれど……
どこか切なげに笹森さんが目を細めると、私のスカートを摘んでいた蓮君の手がそっと移動して、私の手を握ってきた。
それはまるで、”俺は琴子さんの手を離しませんから” と告げているようで、私もその上に自分の手を重ねて、”私も離さないから” と応じてみせた。
そのやり取りは笹森さんの視界にもしっかり入っていたのだろう、「北浦君にも、こんな話を聞かせて申し訳ないね」と言葉をかけた。
蓮君はパッと笹森さんを見つめ返した。
「いえ、俺達は大丈夫です」
迷いないその返答が、私に心強さをくれた。
そんな中、和倉さんは「だとしても、」と物言いたげに反論姿勢になって。
「お前には恋愛感情はなかったんだろうけど、工藤さんの方にはあったかもしれないだろう?」
当然、その可能性はあるはずだ。
私と笹森さんが付き合っている間も、理恵はずっと想いを笹森さんに残したままだったのかもしれない。
けれど笹森さんは驚くほど速やかに否定したのだった。
「いいや、それはない。彼女には俺以外に好きな人がいたからね」
理恵に好きな人が……?
「それは間違いないんですか?本当に、当時理恵には他に好きな人がいたんですか?」
私は、今日だけで、いったいいくつ親友の隠し事を知ってしまったのだろう。
親友が死ぬまで打ち明けなかった秘密を暴いていくのは、本心では罪悪感でいっぱいだ。
けれどどうしても知っておかなければならないことがあるのだ。
もし本当に、私と笹森さんが別れた頃、理恵に好きな人がいたのだとしたら、相手は重要な人物になってくるかもしれないのだから。
「間違いないよ。工藤さん本人から聞いていたからね」
「理恵から?」
またしても私だけ、蚊帳の外だったなんて……
さすがにショックを隠し切れず、蓮君からは心配する声が聞こえた。
「琴子さん……」
「……ごめんなさい、大丈夫よ。私、理恵のことなんにも知らなかったんだなと思っただけ。親友なのに、情けない…」
「それは仕方ないよ、琴子」
自虐めいてしまった私に笹森さんは当事者らしく毅然と告げてきた。
「どうしてそう思われるんですか?」
「だってあの頃俺達は、婚約解消して別れてしまった直後だった。そんな友達相手に自分の恋愛話を暢気に語れるほど、工藤さんは無神経じゃないだろう?」
「でも笹森さんは私と同じで別れた直後にもかかわらず、理恵から直接聞いていたんですよね?」
「それは、工藤さんがもう俺には恋愛感情はないという証明のために伝えてきただけだよ。二人で会うのは数年ぶりだったからね、きっと俺を安心させる目的で事前にそう知らせてくれたのだと思う」
「でも………でも、じゃあ、その人が………」
あの頃、私は笹森さんとの別れに落ち込んでいて、自分のことに手一杯で、理恵のことをよく見ていたわけではなかった。
だからその後理恵から妊娠を告げられたとき、本気で相手が誰なのか思いつかなかったのだ。
だけど、理恵が好意のない人とベッドを共にするなんて思えなかった。
だから理恵の他界後、笹森さんへのメールを見つけたとき、以前に付き合っていた笹森さんなら、もしかしたら……そう考えたのだ。
もちろん、二人の間に何もなかったということは、今は信じている。
笹森さんが大和の父親でないことも。
でもだったら、その ”当時理恵が好きだった人” というのが、大和の父親の一番の候補なはずだ。
「その人が、大和の父親なのでしょうか………?」
私は閃いたとばかりに笹森さんを窺ったけれど、彼は難しい顔つきになっていた。
「どうなんだ?笹森」
和倉さんも私の推測に賛同するように、笹森さんに問いかける。
笹森さんは「うん……」と相槌のような中身のない返事をしてから、「言葉を選びに選んだ様子で私に尋ねたのである。
「琴子がそう思うのももっともだと思う。だから、確認してもいいかい?」
「……何をですか?」
「琴子が大和君の父親は俺だと思っていたのは、工藤さんの未送信メールと、市原から聞いたホテルの一件のせいだというのはわかった。でもそれだけかい?他にも何か理由があるなら教えてほしい」
笹森さんの相好は厳しさを増していくようだった。
「理由なら、もう一つあります。理恵は大和の父親に関しては何も教えてくれなかったんですが、ぽろっと口走ったことがあったんです。それが、大和の名前の由来で、父親から一文字もらったと言っていました。父親に大和のことは知らせていないけど、名前に一文字もらうほどには、父親のことを好きだったと……そう言っていました」
「大和君の名前って、大小の ”大” に平和の ”和” だったよね?」
弁護士として何度か私達の書類に目を通したことのある和倉さんが、確かめつつ笹森さんに説明する。
「その通りです。だから、笹森さんの "和" と同じだと思いました」
結果的には、私の早とちりだったけれど。
笹森さんと和倉さんは二人揃って「なるほどな」「なるほどね」と頷いた。
けれど笹森さんの表情は硬いままで。
それは明らかに、その人物を知っている表情だった
「笹森さん?次は笹森さんが教えてください。理恵が好きだった人というのは、どなたなんですか?」




