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――――――『え?笹森さんがどんな人かって?そうねえ、とにかくイケメンよね。え?それは分かってるって?ああ、中身ね。でも、中身もイケメンそのものよ?あの人が不機嫌になったり理不尽に怒ったりするところなんて、きっと社内の誰も見たことないと思うもの。とにかく優しくて人格者よ。え?そりゃモテるわよ。仕事もできるし、頼りがいがあるし、あのモテっぷりは半端ないと思うのよね。…………どうしたの?なんか顔色悪いけど……。え?告白された?笹森さんに?それ本当?いつの話?………すごいじゃない、うちの女性社員が聞いたら卒倒するわよ。…………どうして?琴子だっていつも笹森さんと仲良さそうにしゃべってたじゃない。嫌いってわけじゃないでしょ?………自信がないって、何の自信?…………ブランク?恋愛の?まあ、琴子が及び腰になるのは理解できるけどね。大学以来だもんね、琴子が恋愛関係の話するの。ほら、ずっともう恋愛なんてしないって言ってたし。実は私、ちょっと心配してたのよね。そりゃ琴子が大学の時どんなに傷付いたかは琴子自身にしかわからないんだろうけど、もうしないって決めつけるのは勿体ないなと思ってたの。だって私達、まだ若いんだよ?別に恋愛だけが人生じゃないし、そればっかでも困るけど、二十代で恋愛を諦めちゃうのはやっぱ勿体ないよ。だからね、私、決めてたんだ。もしいつか、琴子が誰かと恋愛しそうな気配がしたら、どんな人が相手でも絶対に応援しようって。だからさ、琴子も、久しぶりの恋愛で臆病になってるのかもしれないけど、自分の気持ちを押し殺したりしないでね。もし………琴子があのことを気にしてるんなら、笹森さんはきっと大丈夫だよ。あの人は、私が施設育ちだと知っても何も変わらなかった。ちゃんとその人そのものを見てくれる人だから。その笹森さんが、琴子を選んだんだよ?告白されて、嬉しくなかった?………そうでしょ?嬉しかったんでしょ?だったら、いいと思うわよ?あの人なら、信頼して琴子を任せられる。え?……そうなのよ、私ってばもうすっかり琴子の母親気分よ。だからね、娘には幸せになってもらいたいわけ。わかる?じゃあ笹森さんにOKの返事するのね?…………そう。よかった………。ああそれと……これはどうでもいいことかもしれないけど、笹森さんって、うちの会社の創業一族の御曹司なのよね。え?知らなかったって、当り前じゃない。言ってないんだから。笹森さんだって ”俺、御曹司なんだよねぇ” なんて自慢する人じゃないし。まあ、うちの社員の中にはそれ目当てで笹森さんにしつこく声かけてる女の子もいるみたいだけど。でも安心していいわよ。そんな子達、笹森さんは完全無視してるから。だから遠慮せず琴子は笹森さんと付き合いなさい。え?…………大丈夫大丈夫、そんなの笹森さんに任せとけばいいのよ。大事なのはお互いの気持ちでしょ?……あれ?琴子の電話鳴ってない?…………あ、その顔、まさか笹森さんから?ほらほら、出なさいよ。私に気を遣う必要なんてないから。じゃあ私はもう行くわね。あ、笹森さんによろしく伝えておいてね。じゃあねー』――――――――
明るく朗らかに、私に笹森さんとの恋愛を後押ししてくれた理恵。
理恵……理恵……
どんな思いであのときあんなことを言っていたの……?
声にならない呼びかけは、もう二度と親友に届くことはないのに。
私はどうやって彼女に伝えたらいいのだろう。
心からの ”ありがとう” と ”ごめんなさい” を………
「………さん?………琴子さん、大丈夫ですか?」
静かに、現実に引き戻されていく。
「――――え?」
私が声の方に首を回すと、隣りから蓮君がそっと指を近付けてくる。
「あの、涙……頬に……」
顔を触られたくすぐったさよりも、いつの間にか涙をこぼしていたことに慌ててしまう。
「え?………あ、ごめん、ごめんなさい……」
すぐさま目頭から目尻にかけて両方の指を這わせた私の前に、すっとボックスティッシュが差し出された。
黒いレザーのカバーが被されているそれは、この部屋の主、和倉さんのイメージぴったりだと感じた。
「……ありがとうございます、和倉さん」
「どういたしまして」
私がティッシュを二枚ほど引き抜くと、和倉さんはにっこり微笑んでボックスを自分の脇に置いた。
「理恵さんを、思い出してたんですか?」
控えめに問う蓮君は、私の涙がそれ以上落ちてこないのを見て、とても心配そうな瞳を残しながらも腕を引っ込めた。
私はティッシュを軽く目元に当てた。
視界が、白く覆われる。
「……理恵は、どこまでも優しかったの。自分の気持ちよりも、恋愛に臆病になっていた私がもう一度誰かと付き合える事の方を喜ぶくらいに、優しい親友だった」
ティッシュを丸めながら、親友の面影を蓮君に伝える。
どんなに理恵が私と笹森さんが付き合うことを望んでくれていたのか。
蓮君に対してこんな話をするのはどうかとも思うけれど、今の私の心は蓮君にあること、それはしっかり伝わっていると信じている。
その証拠に、蓮君は「お二人はお互いをとても思い合っていたんですね…」と、感慨深そうな口ぶりで感想を返してくれたのだ。
蓮君は、もう、私の過去の恋愛話や元婚約者の話題には、いちいち踊らされたりはしない。
おそらく、今夜この部屋に来た時点では、大和のために私を諦める心づもりもあっただろうに。
だが、大和の父親が笹森さんではないと知った今となれば、蓮君のその選択はもう意味を成さない。
………そんな風に考えながらも、理恵が自分の気持ちを犠牲にしてまで私と笹森さんを結び付けてくれたのに、結果的に別れに至ってしまったことは、複雑だった。
笹森さんと別れたことを後悔はしていない。
そのおかげで、今蓮君と一緒にいられるのだから。
でも理恵に対しては、別れてしまって申し訳ない……そうも思うのだ。
それは、蓮君に対して失礼になるのだろうか。
「………琴子?」
笹森さんが黙り込んだ私の様子を窺ってくる。
私は丸めたティッシュを手のひらで閉じ込め、笹森さんに顔を向けた。
「落ち着いたようなら、さっきの、市原が琴子に話したという、ホテルで工藤さんと会ってた件について説明させてくれるかな」
「そうそう、それも気になってたんだ。その理由に納得できなかったら、お前への疑惑は晴れないからな」
和倉さんが揶揄うように合の手を入れる。
私が気負わず話せるように、という和倉さんならではの配慮だろう。
思いがけずの涙もどうやら乾いてくれたようで、私は笹森さんが言うように、心落ち着けて、市原君が目撃した夜のホテルでの出来事を聞こうと思った。
私が、笹森さんが大和の父親ではと疑うきっかけにもなった情報の真相を。
「ぜひ聞かせてください。どうして理恵と二人でホテルに行ったんですか?」
少し声が硬くなった気がした。
でも隣の蓮君が、ソファの上でそっと、私のスカートを摘んでくれて。
指先で、私にだけわかるように送られたサインは、私の硬さを一瞬で解いてくれた。
だが、笹森さんの説明はまず否定からはじまったのだった。
「琴子、俺と工藤さんは、二人でホテルに行ったわけじゃない」
「じゃあ、ホテルには行ってないんですか?」
市原君が見たというのは、人違いだった?
けれど笹森さんが言葉遊びのように続けた。
「いや、ホテルには行ったよ。でも、二人で行ったわけじゃない」
「何だよそれ、まさかお前、別々に行ってホテルで落ち合った、なんて小学生みたいな屁理屈の言い訳するつもりじゃないだろうな?」
呆れかえる和倉さんに、笹森さんは肩を竦めて「そんなわけないだろ」と窘めた。
「落ち合ったわけでもなくて、本当に偶然そのホテルで彼女と会ったんだよ。確か工藤さんは一人であのホテルのバーに行くつもりで、俺は知人との会食があって、ちょうど知人達と解散した直後、ばったりエレベーターホールで鉢合わせたんだ。よく覚えてる。あの頃は工藤さんと社外で時々会っていたから、自然な流れで、じゃあバーで一杯しようかとなったんだ」
「そんな偶然あるのかよ」
「事実なんだから仕方ないだろ」
「あの、質問してもいいですか?」
私はお二人の気安い会話が転がっていかないうちにと、すかさず割って入った。
「もちろん。琴子も、そんな偶然ないと思うのかい?」
「いえ、そうではなくて……。笹森さんは、何の用で、当時理恵と社外で会っていたんですか?私が市原君から聞いた話では、あの頃というのは、私と笹森さんが別れた直後あたりのはずです……そうですよね?」




