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笹森さんは言いにくそうにトーンを落として、「俺は、それに甘えてしまったんだ」と言った。
「俺も工藤さんも、噂に対して否定も肯定もしない、ただ黙っていた。ふりと思われないように、社内の人間の目がある所で二人でそれらしく装ったりもした。そんな風に一緒に時間を過ごしていると、本当に距離が縮まっているのは感じた。おそらく工藤さんの方もそうだったんだろう、しばらくして……二度目の告白を受けた。俺が琴子と出会う少し前のことだ」
「じゃあ、私とはじめて会ったときは理恵と本当に付き合っていたんですか?」
だとしたら、私は完全に理恵から笹森さんを奪ったことになる。
知らなかったこととはいえ、なんて酷いことをしてしまったんだろう……どうしようもない後悔が押し寄せてきたけれど、笹森さんの答えは防波堤になってくれたのだった。
「いいや、付き合っていないよ。俺と工藤さんが本当の意味で恋人になったことは、一度もない」
「それは本当なんだな?亡くなった大和君のお母さんにも誓えるんだな?」
理恵を思い遠慮を滲ませながら、それでも言い切った笹森さんに対し、和倉さんは酷なほどしっかりと理恵の名前で詰めた。
釘を刺してるようにも聞こえたそれは、親友からの最後のメッセージのようにも思えた。
”この後はもう訂正できないからな” という駄目押しのように。
だがもちろん笹森さんはすんなりと頷いた。
「ああ。工藤さんにも、琴子にも、そして北浦君にも誓えるよ。俺は工藤さんとは一度も恋人関係になったことはないし、子供ができるようなこともしていない。だから琴子、大和君の父親が俺であるわけはないんだよ。もし信じられないなら、DNA鑑定だってしてもいい。今すぐにだ。今すぐこの場での採取なら、俺が何か細工することは不可能だろう?琴子の部屋に戻れば、大和君の髪の毛くらいは見つかるだろうし、鑑定先は琴子が選べばいい。どうする?」
「そ……」
そんなこと急に言われてもわからない。
DNA鑑定だなんて、そんなことに焦点が及ぶとは思ってもなかったのだ。
てっきり笹森さんはすぐに認めるものだと信じ切っていたのだから。
だから私は、この後の笹森さんと大和との関係性について相談がはじまるものだとばかり………
もちろん、笹森家がDNA鑑定を持ち出してくるかもしれないとは予測していた。
だけどそれはあくまでも当事者以外の関係者を説得させるための最終的な手段であって、まさか笹森さん本人から言い出されるなんて………
つまりそれは、笹森さんに絶対の確信があるということだ。
この瞬間、DNA鑑定がまったく違う目的にすり替わってしまった。
大和と笹森さんの親子関係を証明するためにではなく、
親子関係の否定を立証するために―――――
「和倉、ハサミを貸してくれ」
私の返事を待ちきれなかった笹森さんに、私はハッと顔を上げた。
和倉さんが立ち上がろうとしてるところで、急いで引き止めた。
「待って!いいです!そこまでしなくても、笹森さんがそう言うなら、……信じます。というか、笹森さんがそこまで仰るなら、きっとそれが事実なんだと思います。だったら、検査するだけ時間の無駄……のような気もしますし」
尻すぼみになっていくのは、私の中ではまだ疑問だらけだったからだ。
「でも、じゃあ、あのメールは………?それに、市原君の言ってたことは………」
「琴子ちゃんはまだ納得していないようだね」
私の無意識の呟きにいち早く返してくれたのは、ソファに腰を戻した和倉さんだった。
そして笹森さんも、「何が引っ掛かってるんだい?」と、すべての質問を受け付けるような温度で問いかけてきたのだった。
けれどあのメールは、理恵が未送信のままだったものだ。
なぜ未送信だったのかは、今となっては確かめようもない。
そんな理恵の残していったものを、本来の受取人である笹森さんに明らかにしてもいいのだろうか?
そのメールを発見した時の私は、作成日が私と笹森さんが付き合いはじめる少し前だったことから、理恵が私のために笹森さんと別れるつもりで送る予定だったのだろうと、勝手に推測した。
何らかの事情で送信には至らなかった、最後の別れのメールだと。
だが笹森さんの説明を信じるなら、そもそも二人は付き合ってもいなかったわけで、私の推測は根本から覆されてしまう。
だったらなぜ理恵はあんなメールを作成し、ずっと残していたのだろう。
その理由が定かでない以上、私はその内容を誰かに伝えることに躊躇いを覚えた。
「琴子?ここでは話せないことなのかい?」
笹森さんの顔色がくすんでいくように見えた。
だからといって引きさがるつもりはないようで、しっとりと厳しく、追及がはじまる。
「市原からはどんな風に聞いたんだい?それに、メールって?誰かからメールが届いたのかい?」
「市原君、は……」
市原君からは口止めされたわけではなかった。
なので、聞いた内容に触れてもよさそうにも思えた。
だが、”ホテルでの密会” をこの場で暴いてしまうのも気が引けてしまった。
それこそが、私が笹森さんが大和の父親だと思い込むきっかけだったのだから、言及しないわけにもいかないのに……
すると、躊躇から脱せない私を案じたのか、隣からは優しい恋人がまたもや触れてくれた。
今度は私の背中を、そっと撫でてくれる。
「琴子さん、無理しないでいいいです。今言えないなら、また日を改めたらいいんですから。……笹森さんには、またお時間作っていただくことになりますけど」
「もちろんそれは構わないよ。だけど琴子、琴子はそれでいいのかい?大和君の父親が俺ではないと、ちゃんと納得できたわけではないんだろう?」
蓮君の言葉を受けた笹森さんは、蓮君とは違った優しさを見せてくる。
私の恋人と、元婚約者が、じっと視線で対峙していた。
互いに決して攻撃的ではないものの、友好的でもない目つきだ。
無論、私にとってどちらが大切な存在なのかなんて改めて問うまでもない。
私は体をよじって背中に当てられた蓮君の大きな手のひらを握った。
「……ありがとう、蓮君。でも今日ここで決着つけておかないと、またこうして笹森さんと会う必要が出てきてしまう。そうしたらまた蓮君を心配させてしまうかもしれないから……、そうならないために私は、私自身や大和のためだけじゃなく、蓮君のためにも、今ここでできる話はずべてしておこうと思うの。それが正しいのか、確かに迷いはあるけど、そうしないと話が進まないから……だから、大丈夫。全部終わるまで、隣で待ってて?」
蓮君は一瞬何か言いかけたが、すぐに唇を真一文字に結んだ。
そして手を自分の膝の上に戻すと、黙って頷いてくれた。
私は蓮君が隣にいてくれるだけで心強く感じて、そっと目を閉じた。
理恵、ちょっとだけ、あのメールのことを笹森さんに教えるね。
大和のためにも必要な情報だと思うから、許してね―――
再び開いた両目は、正面にいる笹森さんを捕らえた。
葛藤は、ほんの少しだけを残して溶けていた。
「市原君からは、私と笹森さんが別れた後、ある高級ホテルで、理恵と笹森さんが親密そうにしていたのを目撃したと教えられました。市原君はご親戚の結婚式か何かでそのホテルにいたそうですが、夜遅く、理恵と笹森さんがあまりに親密そうだったので声をかけられなかったと言ってました」
一思いに打ち明けると、笹森さんはすぐに心当たりがある反応を示した。
けれど私はそのまま立て続けに理恵の未送信メールの話題に移った。
「それからメールというのは、理恵が亡くなった後に見つかったメールのことです。それは未送信メールで、送り先は笹森さんでした。理恵のプライバシーですので詳細は省きますが、二人が仕事以外で親しかったのだろうと思わせるもので、内容は、別れを示唆していました。お互いに他に大切なものがあるから……といったことが書かれてありました。だから私はてっきり二人が付き合っていたのだとばかり……」




