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「さっき偶然会った人は、理恵の……大和の母親の、元同僚にあたる人なの」
「ということは、琴子さんの親友の元同僚、ですよね?」
「そう。私と理恵は別々の仕事に就いてからもしょっちゅう会っていて、そのときお互いの職場の人を連れて来たりもしてたの。さっきの人はそのうちの一人よ。だから、単なる顔見知りよりは親しいけど、友達ですと紹介できるほどの関係でもない感じなの」
「ああ、わかります。そういう距離感の人って結構いますよね」
ひとまず市原君のことは納得してもらえたようでよかった。
私は横向いていた姿勢を正面に戻し、目線は先ほどと同じくカップに定めた。
「……それで、笹森さんというのは、理恵の元上司の方で、今話した食事会に理恵が誘ったことで私も知り合いになったの。数年前からニューヨーク勤務だったはずなんだけど、少し前に帰国されてたみたい。私が大和を実家にお願いして会っていたのは、この笹森さんよ。和倉さんとは学生の頃からの友人だったらしいわ」
「でもすごい偶然ですよね。和倉さんとも知り合いだったなんて。じゃあ、和倉さんは琴子さんがその笹森さんと知り合いだってわかったうえで接してたんですか?」
「ううん、そうじゃないみたい。和倉さんがちゃんと知ったのは、この前私と一緒にいるときに笹森さんから声をかけられたのがきっかけだったらしいの。私と同じタイミングで知ったそうよ」
「そうなんですか……。ということは、和倉さんと琴子さんが同じマンションに住んでるのは、本当にただの偶然だったんですね?」
「そうよ。私がこのマンションに住みはじめたのは去年だし、和倉さんと出会ったのもその頃だから」
「そっか……。なんかさっき男の人と話してる琴子さんがやけに硬くなってる気がしたので、ちょっと心配してたんです。何かあったのかなって」
一息ついたという素振りをした蓮君。
私は、ここで話を終えてもいいんじゃないかと思った。
蓮君も納得してくれたようだし、あえて私から彼の心中に波立てるようなことを告げなくてもと、消極的な選択肢が過ったのだ。
だけど、いつか、私の知らないところで知らないうちに彼の耳に入ったとしたら………
よみがえってくる決心を、ぎゅっと握りしめた。
「……蓮君、もうひとつ、話しておきたいことがあるんだけど……」
「なんですか?」
「笹森さんという人について。聞いてほしいの」
私の決心は意気込みとなって蓮君に届いたのかもしれない。
彼はきゅっと唇を締め、「ぜひ聞かせてください」言った。
得も言われぬ張り詰めた空気が、ピリッと頬を刺激してくるようだった。
「笹森さん…笹森 和さんは、私が以前お付き合いをしていた人なの」
私は、意味もなくカップの淵一点を見つめて告げた。
隣からの反応が怖くて目を伏せたくもなったけれど、そんなことは杞憂だったとすぐに知る。
「そうだったんですか……。それを聞けて、ホッとしました」
「え?……ホッとしたって、どうして?」
恋人のかつての恋人なんて、知りたいと願うものだろうか?
しかも自分の恋人はその相手と会っていたりするというのに。
顔じゅうで不思議だと訴えた私を、蓮君は複雑そうに、だが微笑みを浮かべて。
「…琴子さんがその笹森さんとただの顔見知りでないだろうな…てことくらいは、だいたい想像つきましたから。琴子さん、さっきも今も、その人の名前が出てきただけで動揺してましたし」
「あ……」
まったく心当たりがないわけではない。
私は今こそ動揺を走らせた。
だが
「―――琴子さん」
蓮君がそっと私のカップを取り上げて、代わりに自分の手を絡ませてきたのだ。
「さっきも言いましたけど、もし琴子さんが話したくないなら、話さないでいいです」
しっくりと組み合わさる私と蓮君の手に、もう片方の蓮君の手のひらが重なる。
「笹森さんという人と何かあるんだろうな……と予感してたので、もしここで琴子さんがおかしな感じに隠そうとしてたら、疑ってたかもしれません。でも琴子さんはちゃんと教えてくれた。だからもうそれ以上の説明は必要ありませんよ?」
そう言って、蓮君は私の手の甲に口付けた。
柔らかな一瞬の感触が、私をたまらなくさせる。
蓮君に疑いや不安を与えたりなんかしたくない。
私はもう迷いはなかった。
「―――ううん、聞いてほしい。蓮君には、知っててもらいたいの。昔の恋人の話なんて聞きたくないに決まってるけど、蓮君に余計な心配をかけるのも嫌だから。だってあの人は和倉さんとも親しくて、ひょっとしたらその繋がりでまた偶然顔を合わせたりするかもしれない。そんなとき、蓮君を不安にさせたりしたくない」
「ありがとうございます。その気持ちだけで嬉しいですけど、それなら……聞かせてください。琴子さんと笹森さんのこと」
蓮君が繋いだ手をぽんと優しく叩いて、それがスタートのきっかけのように、私は話しはじめたのだった。
病気して以来はじめてできた恋人が笹森さんだったこと。
付き合いは数年に及んだこと。
やがて婚約したものの、私は子供のことで迷いがあったこと。
笹森さん自身は私のことも理解して受け入れてくれたけれど、彼のご家族が否定的だったこと。
笹森さんのご実家は理恵の勤務先の創業家で、彼は次期社長だったこと。
ご家族のお気持ちは、とてもよく理解できたこと。
だから、私から別れを申し出たこと………
なるべく俯瞰的に、決して感情を絡めないように。
そう意識して説明を終えたとき、蓮君は何も言わずにゆっくりと抱きしめてくれた。
体温と体温が触れ合って、ただそれだけで癒されてしまうのは、私が蓮君を、蓮君が私を大切に想ってくれているからだ。
付き合っていくと、どうしても慣れていってしまうけれど、こうして触れ合うたびに、何度でも再確認していきたいと思う。
誰かを好きになることも、誰かから特別に想われることも、当たり前ではないのだから。
絶対に。
「……話してくれて、ありがとうございます」
耳のすぐそばから告げられる蓮君の声は、少しだけかすれていた。
でもそれが艶を孕んでいるようで、ひどく煽情的に聞こえてしまう。
蓮君は「でも…」と続けた。
「でも俺は、その人とは違います。実家が会社をやってるところは似てるかもしれませんが、俺はもし実家が琴子さんのことをあれこれ言って来たら、迷わず実家とは縁を切ります」
「―――っ!?」
物騒な単語に反論を唱えようとするも、蓮君はそれを受け付けるつもりはなかったようだ。
私の体を包んでいた腕を解くと、目を凝らして私の顔を覗き込んできた。
「琴子さんが反対しようと、俺は本気です。そりゃまだ付き合いたてだし、キスさえ数える程度しかしてない、そんな浅い関係です。なのにいきなり結婚の話なんて気が早すぎると呆れられるかもしれませんけど、俺は、琴子さんとずっと一緒にいたいと思ってるんです。それってつまり、いつかは結婚も視野に入ってきますよね?そのとき俺の実家が琴子さんのことで何を言ってきたところで、俺の気持ちは絶対に変わりませんし、琴子さんにも変わってほしくない。……琴子さん、約束してください。俺と付き合っていく中で、もし俺以外の誰かから何か言われたとしても、絶対に琴子さん一人で結論を出さないって。何があっても、どんな些細なことでも、ちゃんと話し合いましょう?いくら俺のためだと思ったとしても、勝手に俺を諦めないでください。いいですね?」
言い終わったあと、次は射抜くような両瞳でもういちど ”いいですね?” と念を押される。
その瞳はもちろん、彼から表明された強い意志の中にも、私は、私への執着を見つけた。
それはただ素直に嬉しかった。
―――そうなのだ。蓮君は、私の元恋人達とはまったくの別人なのだから。
過去の経験から恋愛に臆病になったり諦めたりしてたけど、蓮君となら、また違った未来を描けるかもしれない。
描きたい。
そう思ったから、蓮君の告白を受け入れたのだ。
私は蓮君の躊躇わない眼差しにこくりと頷き、すると彼からはキスが降ってきた。
その心地よさに酔ってしまいそうになる直前、ぼんやりと、そういえば笹森さんとはこんな風に話すことはなかったなと思い返していた。
彼はいつだって私より大人で、超然としていて、私もそんな彼に相応しいパートナーにならなくてはと四六時中背伸びをしていた。
だからあのときも、彼のためにと自ら身を引いたのだ。
彼に迷惑をかけちゃいけない、これは私自身の問題だからと、いつも彼が私にそうしていたように、自分一人で解決しようとした。
ろくに話し合いもせずに。
もちろん蓮君と笹森さん二人を比べたりなんてできないし、そんなのはどちらにも失礼だ。
それに今私には大和もいるし、他にも色々あの頃とは事情が違っているのだから、付き合い方だってまったく別のものだ。
だけど………私は前の恋愛で負った痛みをもう二度と味わいたくはないし、それを蓮君に与えたくもない。
だったら、大事にしよう。蓮君も、蓮君との関係も。
大和を守りながら、自分の恋愛も守るのだと、このとき私は明確に心に刻んだ。
けれど次第に深まっていくキスに、もう何も考えられなくなってしまったのだった。




