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蓮君は私の後を追うことはせず、冷蔵庫前からじっとこちらを見ている気配がした。
そして
「……いつか俺も、琴子さんが作ったフレンチトーストを食べたいな」
ぽとん、とひとり言を落とした。
思いもよらず蓮君から強請られて、私はキッチンシンクを片付けながら必死に平常心をかき集めた。
表面上は繕いながら「いつでも作るわよ?」なんて気楽に返事したものの、言ってしまったあとで蓮君が含ませた意味に気付き、その瞬間手が止まってしまった。
蓮君は私がそれに気付いたとわかったうえで、今度ははっきりと「琴子さんのフレンチトースト、いつか食べさせてくださいね」甘やかに告げたのである。
つまり、いつか一緒に朝食をとりたい、そう言っているのだ。
朝食を一緒にとるということは、同じところに泊まるという意味で、だけどもちろんここで言う ”泊まる” という行為が、ただの物理的な宿泊を指してるわけでないことくらいは推察できる。
夜を一緒に過ごして、そして……
そう考えただけで、かき集めた平常心が飛び散ってしまいそうだった。
恋人ならいつそう進展してもおかしくないし、私も蓮君ももうそんなことでいちいちときめくような年齢でもない。
それにもかかわらずドクドクと忙しなくなる胸には、我ながら恥ずかしささえ覚えてしまうほどだ。
だけど、蓮君とははじめてなのだから、しょうがない。
これまでの恋人と経験してきたことだって、これから蓮君と迎えるのは全部はじめての経験なんだから、緊張だってするし、ドキドキもして当たり前。
そう自分に言い聞かせて、私はゆっくり蓮君に振り返った。
「そうだね。いつかね……」
蓮君はすかさず「約束ですよ?」と言ってきたが、その顔はとても幸せそうだった。
自分の好きな人が自分の一言でこんなにも喜んでくれるなんて、私こそ幸せだ。
くすぐられるように実感していると、何の気なしに蓮君が「そういえば…」と話題転換した。
「この前、大和君が琴子さんのご実家にお泊りしたんですね」
「え?どうして知ってるの?」
「さっき琴子さんがお知り合いと話されてるときに大和君が教えてくれたんですよ。『琴ちゃんがいなかったけど楽しかった』って、すごく嬉しそうに話してくれました」
蓮君は思い出し笑いを浮かべながらキッチンに移動してきて、私は慌ててシンクに向き直った。
「…そうなのよ。うちの両親も大和のことを可愛がっててくれて、時々預かってもらうの」
もう空になったシンクを掃除するフリして、蓮君の視線から逃れる。
嘘を吐いているわけではないけど、大和を実家にお願いして笹森さんに会っていたという事実が、後ろめたさを運んでくるのだ。
「へえ……。大和君は、琴子さんが友達とご飯を食べに行くから自分は秋山のおじいちゃんとおばあちゃんの家に泊まったと言ってましたよ」
「そうよ?偶然昔の知り合いに会って、久しぶりに食事でもって…」
「その知り合いって、男ですか?」
「……え?」
その声色が微妙に変わった気がして、思わず蓮君を向いてしまった。
私をうかがうような双眸は、少しだけ頼りなく揺らいでいるようにも見えた。
反射的に彼を安心させたいと思ったものの、事実をあるがままに打ち明けていいものか躊躇ってしまう。
意外と心配性な恋人をさらに気に病ませてしまうかもしれない。
だけど蓮君のまっすぐな眼差しを前に、嘘を吐き通せる自信もないのだ。
私が何が何でも隠し通したいのは、大和の父親についてのみ。
だったら、それ以外の笹森さんに関することは下手に隠さない方がいいのだろうか。
後々私以外の人物から明かされるよりも、先に私自身から直接説明を受けた方が、まだましな気もしてきた。
私は濡れた手をタオルで拭き、体ごと蓮君に対峙した。
「……蓮君、ちょっと話そうか」
私の誘いを、蓮君は心なしか安堵色を滲ませて頷いたのだった。
温かいお茶を淹れて、二人でリビングのソファに並んで座る。
テレビもついてない、大和もいない部屋はカチ、カチ、カチ、という時計の規則的な音だけが弥漫していた。
「―――大和を実家に預けて会ってた人の話だよね?」
私は両手で包み込んだカップを見つめながら問いかけて、蓮君からは「はい、そうです」という返事と共に視線が返ってくる。
この時点になってもまだ、私は笹森さんについてどこまでをどのように蓮君に聞かせるか思案していた。
「……昔の知り合い、かな。私もつい最近知ったばかりなんだけど、その人、和倉さんとも親しくてね、それで、私と和倉さんが一緒にいるときに偶然お会いして、久しぶりだから今度三人で食事でも…って流れになったの。その人は男の人だけど、和倉さんも一緒だったのよ?でも和倉さんだけなら大和も連れていくけど、さすがに久々に会った人との食事に連れていくのは気が引けて、だから実家にお願いしたのよ」
どこにも嘘のないパーフェクトな説明だと思えた。
「そうだったんですか……」
和倉さんも一緒だったという点でいくらか安心材料になれたのか、蓮君の雰囲気はわかりやすく緩まった。
だが、これで蓮君にいらぬ心配も誤解も与えずに済んだと思い胸を撫で下ろしかけた私を、再び蓮君の鋭い質問がきつく縛り上げたのである。
「じゃあ、”笹森さん” って、どなたですか?」
「………え?」
質問からワンテンポ遅れて、私はカップに集中していた視界を隣の蓮君に回した。
「さっきここに来る途中で会った男の人との会話に出てきてたでしょう? ”笹森さん” って」
「あ………うん、そうだったね」
蓮君からは不審だとか不穏、不快、そんな色合いは見受けられない。
ただただ純粋に私の交友関係について知りたがってる、そんな感じだ。
ただだからこそ、私は虚を衝かれたような感覚にもなっていた。
「なんとなく気になっちゃったんですけど……というか、だいたいさっきの人はどういう関係の人なんですか?親しそうだったけど、親しくなさそうにも見えたんですけど……」
その評価はまさしく正しい。
私は市原君との関係を尋ねられて、少なくとも ”友達” だと断言できるほどの付き合いはないのだから。
だが立て続けに質問しておきながら、蓮君は「話しにくいことだったら別にいいんですけど…」と引く姿勢も匂わせたのだ。
おそらく、私の言い淀む反応を受けてのことだろう。
強引な一面のある蓮君がこうして判断を私に委ねてくれるのは、彼の優しい人柄ゆえだろうか。
それとも、私を試している……?
……いや、そんな目で彼を見たくはない。
蓮君は強引だけど、誠実で優しい人だから。
それなら、そんな優しい彼に対して私ができることは―――?
私は思案を断ち切り、胸の奥で決心する。
蓮君に、笹森さんとの過去を伝えることにしたのだ。




