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「いや、特には……。ただ、秋山さんが小さなお子さんと一緒にいたんだけど、知ってるか?と……」
「それだけ?」
「ああ、そうだけど……」
少々狼狽え気味に説明した市原君からは、嘘をついてる気配はなかった。
「そう……」
彼が多くは知らされてなかったことに私は安堵を隠さず、ホッと息を吐いた。
「俺、なんかマズかった?」
「あ……ううん、ごめんなさい、私の早とちりだったみたい」
私からある程度の気迫が薄らいだので、市原君の方もふっと雰囲気を和らげた。
「そうか。ならいいんだけどさ。でも、笹森さん、前は工藤のことを気にしてたのに、…ほら、去年秋山さんに電話しただろ?笹森さんが工藤と連絡取りたがってるって。なのに今回は工藤の名前が一度も出てこなくて代わりに秋山さんの話が多かったから、また何かあったのかって気になってたんだよ。その……もしかして、笹森さんはやっぱり秋山さんと……とかさ。でも偶然とはいえ最近会ってたんじゃ、話題に出てきて当然だよな」
市原君はすべて腑に落ちたという様子でハハッと歯を見せて笑った。
逆に、理恵の名前にギクリと強張ってしまった私だったが、ぎりぎり彼には悟られなかったようだ。
私はさらに愛想笑いを濃くして誤魔化した。
だがその雰囲気がカジュアルに変わったと見えたのだろうか、少し離れたところでおとなしく待っていた大和が「琴ちゃーん!」と呼んだのだ。
「おはなしおわった?」
「ごめんね、もうちょっとだけ待ってて」
片手を振って合図すると、「おなかすいたよー」と唇を尖らせるも、隣の蓮君がしゃがみ込み、大和に何やら語りかけてくれる。
おかげで大和の関心はそちらに移ったようだった。
「あの子、秋山さんのお子さん?琴ちゃんって呼ばれてるんだ?っていうか、結婚してたの?もしかしてあの人が旦那さん?だったらごめん、俺、旦那さんがいるところで笹森さんの話なんかして……」
慌てて声を潜められて、私は胸のどこかがズキリと軋んだ気がした。
「………ううん結婚はしてないの。あの子の母親も私じゃないのよ。友達の子供だから」
「そうなんだ?うわ、なんか重ね重ねごめん。俺って本当に失礼な奴だよな」
「ううん、大丈夫よ。でもいろいろ気を遣わせちゃって、こちらこそごめんなさい。あ…じゃあ、そろそろ行くわね」
ひとまず必要な情報は聞き出せたようなので、私は余計なボロが出る前に切り上げることにした。
市原君ももう私への用は終えたようで、「うん、じゃあ、また」と手のひらをこちらに向けた。
だがお互いに踵を返す前に
「あそうだ、工藤は元気してる?」
容易くそう訊いてきたのだ。
理恵の死を知らない市原君には、そう尋ねるのがごくごく自然なのだろう。
連絡先を変えてしまった元同僚がどうしてるのか、それを気にかけるのは当たり前で。
むしろ理恵の話題が出ないことの方が不自然だ。
だから私だってその質問が投げられることも予測済みだった。
なのに今回は、どうしても平然とは応じられなかった。
すぐそばに、大和がいる。蓮君もいる。そんな状況で、全方位的にオールマイティに対処できるほど超然とはしていられなかった。
「ああ、うん………どうかな……、実は私も最近は……会えてないんだけどね……」
嘘ではない。
大和がいる手前、丸きりの嘘を答えるのは避けたかった私の、苦肉の返事である。
だが幸い、市原君は何ら不審に感じなかった様子で、「そっか。じゃあまた会った時によろしく言っといて」と軽く言った。
そして私越しで蓮君に軽く会釈し、仕事が残ってるからと足早に立ち去っていったのだった。
私はうっすら冷や汗を滲ませながら市原君を見送ったが、大和がすぐに駆け寄ってきて。
「琴ちゃん!もういいの?はやくかえろうよ!おなかぺこぺこだよ」
大和に手を引っ張られた蓮君も小走りでやってくる。
「琴子さん、大丈夫でした?」
いつものように優しく気遣ってくれる蓮君に、胸の奥底から温かいものが込みあがってくるようだった。
「ありがとう、大丈夫よ。お待たせしてごめんね」
「いいんですよ。それじゃあ、行きましょうか」
「ほらほら琴ちゃん、しゅっぱつするよ!」
大和が私の手を取り、満面の笑みで先導するものだから、私は市原君との会談で神経をすり減らしたことなど、間もなくすっかりと忘れてしまったのだった。
◇
その夜、大和は終始ご機嫌だった。
大好きなたまご料理を大好きな蓮君に作ってもらって、一緒にお風呂まで入って、ベッドでは大好きな蓮君と大好きなファンディーのぬいぐるみに挟まれて、大好きな本を読んでもらって、瞼をおろすその瞬間までまさに” 大好き” が盛りだくさんで、幸せいっぱいだったに違いない。
寝かしつけの役は今夜は蓮君に任せて、私は空いた時間で明日の朝食の下ごしらえをしていた。
しばらくすると、そっと気配を消した蓮君が寝室から出てきた。
「大和君、今寝ました」
「お疲れさま。ありがとうね。助かりました」
「…それ、何してるんですか?」
「これ?明日の朝食の準備よ。フレンチトーストにしようかと思って。もうすぐ終わるから、ちょっと待ってて」
作業はもう終盤だったので、私はさらに手を動かす速度をあげた。
すると蓮君からは「へえ…」と感心する声が聞こえた。
「フレンチトーストって、前の晩から準備するものなんですか?」
「必ずそうしなくちゃいけない、というわけでもないけど、私はその方が味が染み込んでて好きなの。レンジを使った時短レシピとかもあるみたいだけどね」
「へえ……。やっぱ俺の適当な料理とは全然違いますね。手間がかかってる」
「そんなことないわよ。蓮君が作ってくれた料理はどれも美味しかったわ。大和も大絶賛してたじゃない」
「だって大和君は、ほら……俺のファンですから、例え真っ黒に焦げた得体のしれない物を出しても美味しい美味しいって言ってくれそうじゃないですか」
クスクスクスと、くすぐったそうに、でも嬉しそうに笑う蓮君。
だから私も冗談めかして言った。
「あら、あの子、意外と食に関しては贔屓はしないわよ?」
「そうなんですか?じゃあ、今日のメニューは合格点をもらえたのかな」
「もちろんよ」
そう答えたと同時に、私の作業は終了した。
卵液に浸したパンを冷蔵庫に移していると、興味深そうに蓮君が覗き込んでくる。
「それを一晩冷蔵庫で冷やすんですか?」
「そう、寝かせるの」
「へえ、寝かせたら、美味しく食べられるんですか?」
「そうよ?寝かせた方が美味しく……」
パッと振り向いた先で、蓮君とぶつかりそうになり、反射的に体を反らした。
「残念。このままキスできたらと思ったんですけど……」
本気か冗談か掴めない蓮君に、私は一気に体に熱が走った。
とっくにキスをする間柄のくせしておかしなところでまだ構えてしまうのは、きっと未だそれ以上の関係になっていないせいだろう……そう思ったものの、前の恋人との当時の会話ややり取りを思い返すと、必ずしもそうではないと考え直した。
笹森さんとは恋人として深い仲になった後も敬語で話していたし、呼び方も最後まで ”笹森さん” のままだったからだ。
笹森さんの方ははじめの段階から私にフランクに接してくれていたけれど、どうしても理恵の上司という肩書が私の頭にこびり付いて離れなかったのだ。
そんな、もう今はどうでもいいことが蘇ってきてしまうと、とたんに蓮君に申し訳なくなってくる。
せっかく蓮君と一緒にいるのに。
私は今蓮君が好きなのだから。
その気持ちがありありと浮かび上がってきて、私は記憶の蓋を落として重しを乗せることにした。
今は、二人きりの大切な時間なのだからと。
すると私の恋人時間を求める想いが伝わったのか、蓮君は一旦離れかけた顔をさっと戻し、私の唇に軽いキスをした。
目を閉じる間もなく囁くようなリップ音を残して、蓮君がふわりと笑む気配がした。
「……琴子さんって、本当に押しに弱いですよね」
「っ!………これは、”押し” とは違うと思うけど?」
「俺が迫ってるんですから、立派な ”押し” でしょう?」
「そ……っ」
それはちょっと違うんじゃないの?という反論は、本日二度目のキスに奪われてしまう。
「ん……」
一度目よりも長く、奥にまで。
蓮君の火照るような感情がダイレクトに流し入れられるキスに、眩暈がしそうだった。
けれど私よりも蓮君の方が、ぎこちない仕草に変わったのだ。
私を解放すると、なにやら気恥ずかし気な表情を見せてきた。
「……どうかした?」
長めのキスに息が乱れかけていたくせに、年上の余裕を振る舞いたくて、平気な風に声をかけた。
蓮君は答える前にぐいっと私を胸に閉じ込めてきて。
「……こんな冷蔵庫の前でがっつくなんて、我ながら余裕がないなと反省してたところです」
「―――っ!」
こめかみに蓮君の息を感じてしまい、私の方こそ余裕をなくしてしまいそうだ。
だが蓮君は今一度ぎゅうっと力を込めてからパッと腕を外してしまったので、私は熱を持った顔を彼に見られぬよう、そそくさとキッチンに戻ったのだった。




