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これ以上、聞かない方がいい気がした。
けれど彼はとことんまで私に理恵と笹森さんのことを聞かせてくれるつもりなのだろう。
『秋山さんには申し訳ないけど、俺は工藤を応援してたんだ。だからもし、秋山さんと笹森さんが別れたあとで工藤が笹森さんと付き合ってたのだとしたら、正直、よかったなと思ってた。だってあの二人はもともと…あ、でも秋山さんが横恋慕したとかは全然思ってないから。ただ……工藤が秋山さんに遠慮してたのは間違いないから、もうそんなふうに気を遣わなくてもよくなったんだなと思うと、ホッとした。だけど工藤のことだから、きっと笹森さんと付き合いだしたとしても秋山さんには言えないんじゃないかと思ってた。だとしたら辛いだろうなと思ってる矢先に、笹森さんがニューヨーク勤務になって、そうしたらあいつも何かおかしくなって……』
彼の声は本気で心配するように低くなった。
『……結局、ニューヨークに行った笹森さんと工藤がどうなったのかを聞く前に、あいつは急に仕事を辞めたんだ。それからはもう何年も音信不通だったんだけど、帰国した笹森さんに久しぶりに会ったら、やけに工藤に連絡取りたがってるし、これはもう、あのとき、笹森さんのニューヨーク行きの前に二人の間に何かあったんだとしか考えられないだろ?』
同意を求めてくる彼に、私は曖昧な相槌しか返せなかった。
笹森さんのニューヨーク勤務が決まったのは私と別れた後だった。
理恵と親しくなった時期が私と被っているとは思わないが、なんだかもう、詳細を聞き続けるのは苦しくなってきた。
私から望んで、半ば騙す形で彼から理恵の情報を聞き出したというのに、もうこれ以上は知りたくないという自分勝手な感情に襲われたのだ。
だから、理恵の許可なしにそんな話を私に教えてもよかったのかと彼に尋ねたのは、さりげなく話題を逸らす意図があってのことだった。
彼はわずかにだけ沈黙を作ったのち、答えてくれた。
『さっきも言ったけど、俺はずっと工藤を応援してた。工藤は秋山さんのことを本当の親友だと言ってて、でもそのせいで笹森さんのことを打ち明けられないままだったのなら、俺がお節介してやりたくなったんだ。もう何年も会ってないし、今のあいつは他の人と幸せにやってるのかもしれないから、よけいなお世話と言われたらそれまでなんだけどさ。でも、工藤と連絡取りたがってる笹森さんを見てもしかしたらこれをきっかけに……とか思うと、つい、秋山さんに言いたくなったんだよ。牽制するつもりというか…工藤と笹森さんのことを知ってもらって、工藤の出方次第ではあわよくば協力してもらえたらいいなと……』
下心を包み隠さず告白する彼に、ある意味誠実さを見つけた。
良い同僚に恵まれていたんだなと、理恵の絶ち切った人間関係を惜しむとともに、こんなにも理恵を心配してくれる彼に真実を伝えられないことを申し訳なく思った。
だからこそ、せめてお礼だけは、私も誠実に心を込めたのだ。
『そうだったのね……。いろいろ教えてくれて、理恵のこともいろいろ考えてくれて、ありがとう。きっと理恵は、一生私には話さなかったと思うから。だから、本当にありがとう―――――市原君』
もうこれより深くのディテイルを知りたいとは思わなかったが、理恵と笹森さんのことを聞けたのはよかった。
思いがけず、大和の父親に関する手がかりを得られたのだから……
だが当然ながら、理恵と連絡を取りたいという申し出を聞き入れることは不可能なわけで、私は翌日彼に折り返し、『やっぱり理恵は電話できないみたい。ごめんなさい』と、嘘ではないものの誠実でもない回答を伝えるしかなかったのだった。
けれど私は彼からの話を聞いて、大和の父親が笹森さんだと確信した。
だから理恵は、妊娠を報告した際私にあんなことを言ったのだろう。
『もし本当のことを知ったとしても………私のこと、嫌いにならないでね』
『ごめんね―――――』
未婚のまま妊娠し、出産後はおそらく私にも迷惑をかけるだろうから、それについてのセリフだと思い込んでいたけれど、そこには別の意味があったのだ。
馬鹿だな、と思う。
全部打ち明けてくれてたらよかったのに、とも思う。
『ごめんね』なんて言わなくても、ちゃんと話してくれてたら、もっと力にもなれたはずなのに。
それに、私はそんなことで理恵を嫌いになったりなんかしない。
もしかしたら、事情を知った直後はショックを受けるかもしれない。
でも当時の私はすでに笹森さんとは別れていたわけだし、もともと理恵と笹森さんの間に割って入ったのは私の方なのだから。
それに………私は、笹森さんの子供を授かることはできないのだ。
だから、彼との結婚から身を引いたわけだし………そこまで考えて、私はハッと気付いた。
もし、笹森さんのご両親が、大和のことを知ったら―――――?
笹森さんは自分の子供についてそこまで願望はなかったけれど、彼のご両親、少なくともお義母様はそうではなかった。
笹森さんの子供を強くお望みで、それゆえ私との結婚を反対なさったのだ。
それなら、お義母様にとっては、大和という存在はどう見えるのだろう?
いわゆる婚外子となるものの、大和は立派に笹森さんの血を引き継いでいるのだ。
だったら、もし笹森さんのお義母様が大和のことを知れば、笹森家で引き取りたいと仰るかもしれない。
そんな未来のもしも話が過った瞬間、私は体中から拒否感がみなぎった。
――――大和を渡したくない。
自分でも信じられないほどの強い情動が迸る。
大和と二人で暮らしはじめてからまだ時間はそんなに経っていないけれど、理恵のお腹の中にいた頃から、ずっと見守ってきた生命なのだ。
母親を失って、その役目を母親本人から直接委ねられた私は、もうこの大切な存在を手放すなんてできない。
大和の父親が笹森さんだという事実を理恵が私に隠していたことも、隠したまま大和を私に託したことも、仕方なかったのだ。
それについて私が裏切られたと不快に感じたりはしないし、まさか恨んだりもしない。
だって私は、笹森さんとの未来を自ら放棄して沈んでいた心を、この小さな生命に救ってもらっていたのだから。
無邪気な男の子に、本当に癒しをもらっていたのだ。
だから、大和を預かったことに後悔はない。
父親が笹森さんだと知っても、その気持ちに変化はなかった。
笹森さんと別れたとき、私はもう誰とも恋愛できないのだろうなと、”しない” ではなくて ”できない” のだと諦めた。
だけど理恵が大和を身籠って、その誕生や成長をそばで見守っていくうちに、 なんとも言えない想いが一緒に育ってきたのだ。
本当の家族ではないけれど、心から愛おしいと思える存在。
そんな存在に出会わせてくれて、理恵には感謝しかない。
だから………
大和は、絶対に渡さない。
そう思った。
だけど、現実にそれがまかり通るわけではないということも、承知していた。
大和を引き取るにあたって児童相談所や関係各所とやり取りしていく中で、万が一実の父親が現れた場合はまた話し合う必要があると説明を受けていたのだ。
うまり、もし笹森さんが大和を求めたなら、赤の他人の私には不利でしかない。
どうか、どうかそんなことにはなりませんように……
心が削られるような祈りを抱えて、いつその時が訪れるのかと不安に怯えながら、私は大和と暮らす日々を送っていた。
大和を奪われないように。
そのためには誰にも父親のことを知られないようにしなければならない。
深く深く、心に決意を刻みつけた私は、今、大和の次に大切な人に対しても、この秘密を明かせるわけもなかったのだ。
誤字報告いただきありがとうございました。




