10
それに、果たして笹森さんは、本当に、ただ純粋に、長い間会ってないからとそれだけで、今理恵に会ってみたいと告げたのだろうか。
そんな危惧がないわけではなかった。
もし、それだけじゃなく他に何らかの意図があるのだとしたら……?
私は今日の目的を思い出し、無意識のうちにごくりと唾を飲んでいた。
――――いや、そんなはずはない。
だって今日、笹森さんは微塵もそんな真似を見せなかったのだから。
でもそれが、すべて彼の計算だったら……?
……そんなことない、大丈夫、きっと大丈夫。
自分に言い聞かせていた私を助けてくれたのは、またしても和倉さんの冗談めいた一言だった。
「なんだよ笹森、俺には名刺なんてくれなかったくせに」
「なんでお前にやらなきゃいけないんだよ」
「冷たいなあ。あ、だったら俺の名刺も琴子ちゃんに渡しておこうかな。ちょっと前に事務所のアドレスが変わったんだよね。……はい、琴子ちゃん、どうぞ」
「そうだったんですか?わざわざありがとうございます」
笹森さんの名刺と和倉さんの名刺が並べられたが、私が先に手に取ったのは和倉さんの方だった。
「ああ本当だ。和倉さん専用に作られたんですね」
「そうそう。個人案件も増やしていくことになったからね……って、おい笹森、なんだその顔は。怖いぞ?」
私ににこやかに話していた和倉さんがくるりと横向き笹森さんにしかめっ面をする。
つられて私も見上げると、笹森さんは私が握る和倉さんの名刺をじっと見据えていた。
「俺の名刺よりも先に和倉のを受け取るなんて、二人はずいぶん仲が良いんだな」
「なんだよ、くだらない嫉妬かよ」
「くだらなくなんかないぞ。琴子は俺の婚約者だったんだから」
「元な。今はお前よりもご近所さんの俺の方がよっぽど琴子ちゃんに近い距離にいるんだよ。ざまあみろ」
二人のやり取りがあまりにも気安いものだから深刻度なんてほとんどなかったけれど、なかなかに濃い内容を投げ合っているようにも聞こえてしまう。
私はこそっと和倉さんの名刺を膝の上に隠すように置いた。
付き合っていた頃も笹森さんはいつも私への想いは隠さなかったし、周囲に対しこんな風に嫉妬を混ぜた揶揄いなんかもよくしていた。
それを懐かしいと思ってしまうのは、蓮君への裏切りではないと信じたいけれど。
そして、今の二人の会話の空気感からは、私が思っていた以上に彼らの関係が親密だということも思い知った。
つまり、和倉さんが知り得た情報はすべて笹森さんに流れたとしても不思議はないということだ。
私は今一度、もう一度改めて、くっきりはっきりと、気を引き締め直したのだった。
◇
その後食事会はつつがなく終了し、お開きとなった。
笹森さんは私を送ると申し出たけれど、タイミングが良いのか悪いのか、仕事関係の電話がかかってきたので、その役は和倉さんが引き受けてくれた。
といっても、同じマンションに帰るだけのことだが。
和倉さんはアルコールを口にしていたので、私達はタクシーで帰ることにした。
緊張続きの今夜は混雑してる電車に乗るのも疲れそうだと思っていたので、和倉さんの選択は助かった。
タクシーはホテルを離れ、夜の賑やかな街を車窓に流しながら進んでいった。
以前笹森さんと訪れていたときは必ず笹森さんの車で送り迎えしてもらっていたので、考えてみるとこのホテルからタクシーに乗車したのははじめてだった。
そんな過ぎ去りし日をぼんやり思い浮かべていると、隣の和倉さんが配慮あるボリュームで尋ねてきた。
「やっぱり、北浦君のことは秘密なのかい?」
「いえ、秘密……というわけではないんですけど……」
でも、笹森さんに蓮君のことは話したくなかった。
「ま、そのへんは琴子ちゃんの好きにしたらいいとは思うけど。どうせあいつのことだから、北浦君のことを持ち出されても引く気なんてなさそうだし」
「……でも笹森さんだって、別にそういう感じの話をしてらしたわけでもありませんでしたよ?」
もう一度やり直したいと言われてもいないし、今の連絡先を訊かれもしなかった。
”大切な女性” とは言われたけれど、一度は共に人生を歩もうと決めた相手なのだから、それはある意味真っ当な線引きとも言えるはずだ。
「そりゃ初日だしね。いきなりぐいぐい行って、琴子ちゃんに逃げられたら元も子もないだろう?それより……笹森が言ってた ”工藤さん” って、もしかして、大和君のお母さんのことかい?」
薄暗い車内で何となく前を向いて受け答えしていた私は、おもむろに和倉さんを振り向いた。
なぜ和倉さんがそれを……?
疑問が浮かんだけれど、ちょっと想像すれば自ずとその理由に思い当たる。
「……大和ですか?」
「当たり。『ぼくの本当の名前は工藤 大和っていうんだよ』と、元気溌剌に教えてくれたことがあったからね」
和倉さんは思い出し笑いを浮かべたが、私の記憶にそんなシーンは残っておらず、ゆえに、彼ら二人きりのないしょ話だったのかもしれない。
秋山姓で幼稚園に通うと決まった際、他にも名前があると知ったらみんなびっくりするだろうから、工藤の名前を誰かに話すときは必ず私に教えてねと、何度も約束していたのだから。
その約束を忘れてまで打ち明けるなんて、そこまで和倉さんに懐いていたということだろうか。
「そうでしたか…」
「その鈍い反応を見ると、もしかして本当の名前のことも秘密だったのかな?」
「いろいろ複雑な生い立ちなので……」
「それもそうだね。でも大和君を叱らないであげてくれるかい?知り合って間もない頃、俺の苗字の中に大和君と同じ漢字があるって教えたらすごく興味持ったみたいで、そこから苗字の話題になっただけなんだ。もちろん、俺に何か他意があったわけでもない」
するすると言い訳が流れてくるところは、優秀な弁護士の面影を感じた。
「和倉さんを疑ったりなんかしてませんよ」
私の返事に和倉さんは「それはよかった」と大げさに胸を撫で下ろしたが、間もなく「でもさ」と若干声色を沈めた。
「ということはつまり、その工藤さんが亡くなってること、笹森は知らないままなんだね」
いいのかい?
そんな確認めいた眼差しを寄越されてしまう。
でもこれは、理恵本人の強い意志なのだ。
「彼女がそう望んでいましたので」
「笹森には教えるなって?」
「……前の職場の人には知らせないでほしいとのことでした」
「そう。それなら仕方ないね」
意外にもすんなり引きさがってくれた和倉さんに、私は話題が変わらぬ前に口止めを急いだ。
「あの、このこと笹森さんには…」
「言わないよ。大丈夫」
和倉さんはサッと表情を和らげて即答してくれた。
彼が笹森さん側の人間だとは認識しているけれど、職業柄、秘密保持の意識は高いと信じていいだろう。
けれどタクシーがマンション近くまで来たとき、
「でもあいつのことだから、きっと事実を突き止めるのにそう時間はかからないと思うよ?」
ふと思い出したような調子でそう言われた私は、全身がぞわりと震えてしまいそうになったのだった。
ずっと隠し通せたらいいと思っていた。
だけど隠し通すのは難しいだろうとも、どこかで覚悟していた。
でもできることなら、できるところまでは、隠し通したかった。
和倉さんと別れ家に戻った私は、誰もいないがらんとした静寂に泣きそうになった。
明日になれば、大和は実家からここに戻ってくるのに。
一人きりの部屋はあまりにも広く感じてしまって、無性に寂しくて。
「大和……」
呟いたあと、私はほとんど無意識にテレビボードのフォトフレームに手を伸ばしていた。
「理恵……」
朗らかに笑ったまま時を止めた親友を指でなぞるも、何も伝わってはこない。
もし理恵が生きていたら……そんな不毛な物語に思いを馳せたのも、一度や二度じゃない。
だけど現実は切ないほどに虚しくて。
私は、これから笹森さんに暴かれるかもしれない真実がいったいどこにまで達するのだろうかと、それだけが怖かった。
今もおそらく、私以外は気付いていないだろう真実。
それだけは、笹森さんにも、他の誰にも、知られたくはなかった。
理恵が文字通り死ぬまで隠し通したかった真実を。
大和の父親が、笹森さんだという真実を――――――
誤字報告いただき、ありがとうございました。




