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だがやはり、笹森さんは揺るがなかった。
「そうだな、琴子の言う通り、和倉と琴子がご近所さんである限り、俺としょっちゅう出くわすことになるだろう。だからこそ、俺に協力できることがないか教えてほしいんだよ」
「ご親切にありがとうございます。でも、笹森さんにお願いしたいことはありません」
「琴子がそう言いたくなるのは当然だと思う。何しろ俺は琴子からしてみれば何年も前に別れた、今はただの赤の他人なんだからな。でも琴子にとってはそうでも、俺にとって琴子は今も大切な女性なんだよ。そんな人がたった一人で血の繋がらない子供を育ててると知って、黙って見過ごすなんてできない。琴子だって、もし俺が何か大きな困りごとで悩んでると知れば、絶対に見捨てるなんてしないはずだ。違うかい?」
蓮君よりも、大和よりも長い時間を一緒に過ごした人だからこそ、笹森さんは私の性格を一から十まで知り尽くしている。
言われたように、もし笹森さんが困っているのを見かけたら、きっと私は無視なんかできない。間違いなくできる範囲でなら手を貸していただろう。
だけどそこに、よりを戻すとか、恋愛感情とか、そんな気配を漂わせることはないはずだ。
ただ………昔お世話になった人が困ってるから、恩返しするようなニュアンスに過ぎない。
第一、私には蓮君がいる。
もし誰かに手助けを求めるなら、それは蓮君にだ。
百歩譲って私が今誰とも付き合ってなかったとしても、笹森さんだけはありえない。
そんなこと、考えちゃいけないのだ。
もし、もしも唯一の例外があるとしたら………
私は瞬時に駆け抜けた仮定の未来を頭から追い払いたくて、クッと唇を引き締めた。
「血が繋がらなくても、大和は私の大切な息子です」
私の息子だと、そう断言することは、これまでは比較的避けていた。
本当の母親である理恵への遠慮もあるし、大和は私のことをこれからもずっと ”琴ちゃん” と呼び続けるのだろうから。
あくまでも私は母親代わり、保護者なのだという意識のつもりだった。
だけど今、笹森さんには、どうしても伝えておきたかった。
笹森さんは「そうだね…」と、今日はじめて言葉に迷いを見せた。
「琴子が大和君を本当の子供同然に大切に慈しんでるのは、この前たった数分見ただけでもよくわかってるつもりだよ」
私の発言に一切動じなかった笹森さんが、にわかに憂いを含ませたようにも聞こえた。
彼の心まで見抜くなんて私にはできないけど、私達の別れの原因を思えば、複雑な心境に歪んだとしても不思議じゃない。
私は彼を ”父親” にしてあげられなかったのに、私はいつの間にか ”母親代わり” になっていたのだから。
私だって、思うことはたくさんある。
だが次に聞こえた笹森さんの問いかけには、すべての思考が凍り付いてしまったのだった。
「だけど……父親は、いないと聞いてるよ?」
思考のみではなく、まるで時計まで凍て付いてしまったかのように、私は呼吸さえ失おうとしていた。
けれど、
「………それが、笹森さんとどう関係あるというんですか?」
おかしな沈黙を作らぬよう、潤いを失った口をかろうじて動かした。
こちらの動揺は、絶対に二人に悟られてはならないのだ。
何がきっかけとなって綻びに繋がるのかわからないのだから。
すると和倉さんが再度「琴子ちゃん、今日は強いね」とクッションを入れてきた。
どうにか怪しまれずに済んだようだ。
ただ笹森さんはまだその話題を手放そうとはしなかった。
「和倉、今は茶化さないでくれよ。―――琴子。確かに今の君達の生活に俺は関係ないのだろう。だけどさっきも言ったように、俺にとって琴子は今も大切な人なんだ。だからもし、大和君の父親代わりになる人がいないのなら、俺を頼ってほしいし、力になりたいと思ってる。琴子が望む望まないにかかわらず、大和君のために俺の立場や持ってる物が役に立つことだってあるだろう?」
笹森さんの言い方に、ギクリと身が竦んだ。
私の望みにかかわらず大和のために――――
その文言が、頭の中心の中にまとわりついてくるようだった。
私のためではなく、大和のために。
私ではなく、大和の。
私よりも、大和を……
返事を忘れて笹森さんを見つめる私は、呆然としていたかもしれない。
笹森さんはすぐさま「琴子?どうかした?」と心配げに二、三度私の顔の前で手のひらを振ってみせた。
「………いえ、……いいえ、何でもないです。失礼しました」
姿勢を正して取り繕った私だったが、ハハッと笑い声がある。和倉さんだ。
「『失礼しました』なんて、なんか他人行儀だね。琴子ちゃん、相手は笹森だよ?そんなに堅苦しくなくていいんだよ」
またもや軽い口調で空気の流れを変えてくれた和倉さんに、この時は私も感謝した。
そして笹森さんもこれ以上のシリアス色は望んでいなかったのか、和倉さんに乗り被さるかたちで顔つきを和らげて。
「まあ、そういうことだから、一応連絡先を渡しておくよ」
そう言いながら、すっとテーブルに名刺を滑らせた。
「裏にプライベートの番号もかいてあるから。昔と変わってないけど、一応念のため」
暗に私が自分の連絡先を消去してる恐れを匂わされて、その返答には躊躇ってしまう。
私の反応をどうとらえたのか、笹森さんはフッと短く息で微笑んだ。
「まあ確かに琴子には優しいご両親もいらっしゃるし、俺の出番はないのかもしれないけど。ご両親はお変わりない?」
「はい、おかげさまで…」
私の両親とも面識のある笹森さんは、懐かしむように目を細めた。
「そう。じゃあ、工藤さんは?」
「え……」
「工藤さんみたいなしっかりしてる人が親友だったら、きっと大和君のことも色々手伝ってくれてるんだろう?」
「それ、は……」
笹森さんから理恵の名前が出されたことに、今日何度目かの狼狽えが走った。
「実は工藤さんがうちを辞めたのを知ったのは辞めてからずいぶん経った後だったんだ。だからその時は何も話せなかったし、連絡先も変わってるみたいで今どうしてるのかも知らないから、久しぶりに会ってみたいけど…忙しいのかな?」
「それは…………すみません、ちょっと……わかりません……」
それ以外に答えようがなかった。
理恵は自分の死去を元の会社関係の人には知らせないでほしいと言っていたのだから。




