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通された個室は、以前にも一度だけ利用したことのある部屋だった。
もちろん、そのとき連れて来てくれたのは笹森さんだ。
といっても今日ここを予約したのは和倉さんなので、ただの偶然なのだろうとは思う。
だけど部屋に案内された笹森さんが「懐かしいな」とひとり言をこぼすと、当時のことがよみがえってきそうになって困ってしまった。
どうにかすんでのところで堪えたものの、あらかじめ注文されていたそのコース名が記憶の中のものと一致すると、さすがにあの頃を思い返さずにはいられなかった。
もう何年も前の学生時代、苦い失恋のあと長いブランクを経ての恋愛は、私を浮かれに浮かれさせていた。
相手はこれまでに出会ったこともないようなハイクラスの大人の男性で、私ははじめて経験させてもらう一つ一つの時間に夢中で、今から思えばそのどれもが貴重な体験でもあって、だからこそ別れても尚こうして鮮明に心に刻まれているのだろう。
そう、私達は、もうとっくに別れているのだ。
笹森さんと過ごした何年間は、確かに私の中にあり続けているけれど、それらは過去の思い出、もう終わったことなのだ。
『琴ちゃん』
『琴子さん』
大和と蓮君の呼び声が、ふと脳裏に浮かぶ。
今の私にとっての、大切な人達だ。
まだまだ共に過ごした時間は少ないけれど、これから思い出を一緒に増やしていきたいと思える人達。
今はまだ記憶の容量では笹森さんの方が多いのは仕方ない。でもそれだっていつかはきっと追い越してしまうはずだ。
自信を持ってそう言えるから。
だから、大丈夫。
『琴ちゃん!おなかすいたね!』
『琴子さん?大丈夫ですか?』
ほら、いつもの二人のセリフが、胸にはびこる緊張感を癒してくれる……
『琴ちゃん!』
『琴子さん?』
「――――琴子?……琴子!」
「……………え?」
「大丈夫?お腹空いた?」
お品書きに視線を落としていた私が顔を上げると、笹森さんがじっとこちらを見つめていた。
その眼差しは心配げでもあり、楽しんでる風でもあり、そこにある感情は掴めない。
「さっきから黙り込んでメニューを熱心に眺めてるから、てっきりそんなにお腹が空いてるのかなと思ったよ」
ささやかな揶揄いが織り交ぜられると、笹森さんが私の緊張をほぐすために話かけてくれていたのだと気付いた。
正面切ってはそう言わないところが、スマートで大人な彼らしい。
さりげなく何気なく優しい。
「そうですね……、仕事終わりなので、お腹は空いてます」
「だと思った。じゃあ和倉、早速料理を運んでもらおうよ」
笹森さんの一声で、本日の食事会がはじまった。
料理はどれも素晴らしく、ついつい今日の目的を逸れて堪能したくもなるけれど、そうさせてくれなかったのも他ならぬ笹森さんだったのだ。
思いの外食事は和やかに進み、中盤を過ぎるあたりまでは本当にただの会食でしかなかった。
正直、和倉さんから ”覚悟をしておいた方がいい” なんて言われて警戒していた私としては拍子抜けしつつあって、和倉さんがこの場をセッティングしてくれた真意も図りかねていた。
そんな頃だった。
「和倉から少しだけ聞いたよ。あの子は友達のお子さんなんだってね」
まだ暑い日が続くねとか、最近観た映画がどうだったとか、久しぶりの日本は街行く人の服装が前とは全然違ってるとか、何気ない話題のラリーが流れていた最中、それはまるで一矢のように、和んでいた空気を切り裂いたのだ。
「色々、大変だったんだろうね」
笹森さんの態度はごく自然で、変に同情するでもなく、色眼鏡で見てくるわけでもなかった。
和倉さんがどんな説明をしたのかは聞いていないが、笹森さんの目的がそこにあったのかと会得した。
彼らを掠め見ると二人とも穏やかな様子で、目はまっすぐ摯実に研ぎ澄まされているものの、口元には微々たる笑みを乗せていた。
私が構えずに済むように堅苦しくない演出をしているのかもしれないが、もう手遅れのようにも思えた。
「……助けてくださる人が、たくさんいましたので」
箸を置き、静かに答える。
礼儀を外れない程度に拒絶を滲ませて。
だが笹森さんはびくともせず、まったく効果なしだった。
「でも一人で育ててるんだろう?何か困ってることはない?」
年上の余裕なのか柔和な雰囲気を崩さない笹森さんに、ここではっきりした姿勢を示しておかないといつものように押されてしまうんじゃないか……そんな危機感も芽生えて。
「ありません。ですが、もし困ってることがあっても笹森さんにはお話しすることはありません」
「おや、今日はずいぶんはっきり言うんだね、琴子ちゃん」
即座に挟まれた和倉さんの合いの手は聞き流すことにする。
どうしたってこの人は中立ではなさそうだから。
ところが笹森さん本人は「それもそうか」と至って普通に受け入れていた様子だったのだ。
残念そうな表情をするならまだ分かりやすかったのに、その薄い反応には少しだけ苛立ちが湧いてしまった。
もっとストレートに感情をぶつけてくれたらいいのに。
そういえば、彼との別れを決めた時も、今と似たようなことを思っていたかもしれない。
記憶に染み込んだ苦い思い出がよみがえり、そしてその反動でつい口走ってしまった。
「……はっきり言っておきます。私が今日笹森さんとお会いすることにしたのは、笹森さんと和倉さんがお知り合いなら今後も何かと顔をあわせる機会があるかと思ったからです。その都度ぎこちない空気になるのも避けたいですし、一度きちんとこちらの今の状況をお話しておくべきかと思ったまでです。決して、これを機にまた笹森さんと親しくお付き合いするためではありません」
こんなに刺々しい言葉の羅列を吐き出すのは、いったいいつ以来だろうか。
もっと丁寧な言い方だってできただろうに、ほんの少しだった苛立ちが、私の中で膨れ上がっていく警戒心を刺激したのだった。




