2
「琴子?琴子と和倉が、どうして一緒に?それに………その子は?」
慣れ親しんでいた低めの柔らかな声が、次々に疑問を投げかけてくる。
それでも私は振り返ることができず、大和の手をぎゅっと握りしめた。
「琴ちゃん……?」
大和は弱弱しく戸惑いを見せた。
大和………そう、大和のことを笹森さんには知られたくない。
私は咄嗟に小さな手を引っ張って、自分の陰に隠した。
「琴子?その子は親戚の子?それとも、もしかして…………結婚、したのか?」
恐る恐るといった態度は、それだけ彼の動揺を表しているのだろう。
結婚――――彼の口からその言葉は聞きたくなかったが、そう思うのも仕方ない。
私の体の事情を知っている彼には、私がシングルマザーで子供を育てているという考えは端から浮かばないはずだから。
私は、彼にそんなことを言わせてしまって申し訳ないと思ったものの、まだ彼の顔を直接目に入れるだけの心の強さを掴めない。
だけど優しいこの人は、うんともすんとも言わない私を辛抱強く待ってくれていた。
「……琴ちゃん?」
幼いながらも敏感に空気を察知した大和は、小声でもう一度私をうかがってきた。
私は大丈夫よという意味でささやかに微笑み返した。
そうできるだけのゆとりはどうにか取り戻せたようだ。
すると、社交性に長けた和倉さんが本領発揮とばかりに間に割って入ってくれた。
「まあまあ、慌てるなよ。お前はどうしてこんなところにいるんだ?俺、何か約束してたか?確かお前、今朝帰国したばかりのはずだろ?その格好は、さては仕事してきたのか?」
「ああ……時間ができたから、久しぶりにお前に会いに来たんだ」
「そうか。だができたら前以て連絡入れてくれると助かるかな」
「お前が留守ならコンシェルジュに土産だけ渡して帰るつもりで………そんなことより、お前、琴子のこと知ってたのか?」
「やっぱり、琴子ちゃんは笹森から聞いてた ”琴子ちゃん” だったか」
「……どういうことだ?」
「そんな怒った顔、琴子ちゃんに見せるなよ?ただでさえ琴子ちゃんびっくりし過ぎて固まっちゃってるんだから」
背中が、一段と熱くなる。
二人して私に注目してるのが見ずともわかった。
和倉さんの口ぶりでは、おそらく二人は親しい間柄だったのだろう。
笹森さんと付き合ってるとき、海外で弁護士をしてる友達がいると聞いた記憶があるから、それが和倉さんだったのかもしれない。
そうでなかったとしても、和倉さんの誕生日までは知らないけれど年齢的に二人が同学年であってもおかしくはない。
学生時代からの友人という可能性は低くないだろう。
和倉さんは気安い温度で笹森さんをかわし、私の反応にも構わずに続けた。
「琴子ちゃん、誤解しないでね。俺は笹森の友達だけど、同じマンションで琴子ちゃんと出会ったのは、本当に偶然なんだ。それに、琴子ちゃんが笹森の言ってた ”琴子ちゃん” だという確証はなかった。だからもちろん笹森にも話してなかったし、琴子ちゃんのことを調べたりもしてないよ?それは信じてほしい。俺は、ただただ普通に、琴子ちゃんのご近所さんなだけだから」
和倉さんの説明は納得もできるし、だけど疑ってかかればいくらでも疑えてしまう内容でもあった。
だけど、私が大和と暮らしはじめた頃、彼に助けてもらったのは間違いない。
例えそれが意図的だったとしても、何か裏に目的があったのだとしても、彼の明るく楽しい雰囲気には私だけでなく大和も和ませてもらったのだ。
「琴ちゃん、どこか痛いの?」
きゅっと握りしめた手に大和はもう片方の手を重ねて、困ったように私を見上げてくる。
私は、これ以上この瞳が心配色に滲まないようにと、自分を奮い立たせた。
「大丈夫よ、大和。……和倉さんも、大丈夫です。和倉さんのこと、疑ったりなんかしてませんから」
言いながら踵を返すと、ようやく、数年ぶりの元婚約者の顔を視界に入れることができた。
彼は最後に会ったときからほんの少しだけ年齢を増やした印象はあるけれど、驚くほど整った容姿も、180はないのに頭が小さいせいでずっと長身に思えてしまうスタイルも、夏なのに三つ揃えスーツを涼しい顔色で着こなしているところも、全然変わっていなかった。
手首にちらりとのぞく腕時計は、はじめてのクリスマスに私に贈ってくれたものとペアだし、手にしてるビジネスバッグは私が誕生日プレゼントで渡したものだ。
どこもかしこもが、私のよく知る笹森 和の姿だった。
あまりの懐かしさに胸がいっぱいになってしまうけれど、私達の再会は祝えるようなものではないのだ。
私はしっかりと彼を見つめて告げた。
「お久しぶりです、笹森さん。お元気そうで、何よりです」
うまく笑えてるか自信はない。
だけど精一杯の平常心を心がけた。
笹森さんはまるで幽霊でも見るように私を視線で閉じ込めてしまう。
「琴子……本当に、琴子なんだね………」
驚き、困惑、その他には感慨も含まれてるかもしれない。
笹森さんの表情からは色々な感情が彩られていた。
「………はい」
「まさか、まさかこんなところで琴子に会えるなんて思ってもなくて、俺…正直、何て言ったらいいのか……」
その声を聞けば聞くほどに、あの頃が容易く蘇ってきては、私の心を落ち着かなくさせて。
私はこれ以上笹森さんと話したりしたら、気持ちがコントロールできなくなってしまいそうで、怖くなった。
だがちょうどそのとき、大和がぐいっと腕を引いてきたのだ。
「ねえねえ琴ちゃん、この人、琴ちゃんのしってる人?」
小声だったけれど笹森さんや和倉さんにもじゅうぶん聞こえる範囲だった。
笹森さんはサッと思い出したように焦りを再開させる。
「そうだ、この子は……琴子の?いや、でもそれは………つまり、結婚したのか?」
和倉さんの手前、直接的なことは口にしないでも、笹森さんの慌てる理由は理解できた。
でも私は彼には素直に事実を述べるのを躊躇ってしまった。
元婚約者で、子供のことがなかったら、きっと今頃夫婦になっていた人……
ただ
「………結婚は、してません」
それだけは、伝えたかった。
すると笹森さんはありありとホッとして、息さえこぼし、「そうか……」と呟いた。
そして、ずっと私を捕らえて離さなかった眼差しがにわかに外れた隙に、和倉さんが中和剤のごとく介入してきたのだ。
「まあまあ、今日は時間も遅いし、小さな子供もいるしさ、また日を改めて話したらどうかな?このままさよならじゃ、二人とも気になっちゃうでしょ?」
ね?
相手から警戒心を奪ってしまういつもの人当たりの良さを惜しみなく振り撒く和倉さんに、私も笹森さんもひとまず了承した。
ちょうど笹森さんの携帯電話に仕事の連絡が入ったらしく、笹森さんは和倉さんにニューヨーク土産を渡すと、マンションには向かわずにその場で別れることになった。
去り際、てっきり私に何かの言葉があると身構えていたけれど、彼が語りかけたのは私でなく大和だった。
「ごめんね。突然知らない大人が話しかけたりしたら、びっくりしちゃうよね」
笹森さんは大和の前に膝をつき、目線の高さを等しくさせて言った。
「僕は笹森 和といいます。琴子さんとは昔からの知り合いなんだ。だから怖がらないでくれたら嬉しいな」
ああ、そうだ。この人は、そういう人だった。
いくら上の立場になっても、決して他を見下ろすような真似はせず、相手の立場を思いやれる人で、特に子供やお年寄りには優しい。
私は彼のそんな誠実な人柄を尊敬していたし、大好きだった。
そして大和も同じく、笹森さんの紳士的な態度に好印象を覚えた様子だった。
「うん!ぼく、ささもりさんのことこわくないよ。ぼくは秋山 大和です。6さいです!」
「そうか、大和君は6歳なんだね。とっても上手にご挨拶してくれて、ありがとう」
ぽん、と何気なく大和の頭上に乗せられた笹森さんの手つきに、なぜだか泣きそうになる。
私が叶えてあげられなかった未来を見たような気がしたから。
きっと笹森さんは素敵な父親になれたはずなのに……
考えないようにしてきた罪悪感が目を覚ましそうになって、私は頬を強張らせたまま笹森さんを見送ったのだった。




