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偶然帰りが一緒になった和倉さんに食事に誘われ、前も連れて行ってもらったダイニングバーに向かうと、付き合いはじめたばかりの恋人、蓮君も仕事仲間の時生君、明莉さんと一緒に来店しているとの事だった。
和倉さんとも顔馴染みのスタッフが教えてくれて、和倉さんは「あ、そうなんだ?」と軽い感じで三人のいる半個室にまっすぐ進んでいった。
私はこの店に来て、ほんの少しは蓮君も来てないかな…と期待も持ったものの、明莉さんの同席を知ると、喜んだのも束の間、心がピリッと張った感覚がした。
あの夜の電話以来、彼女からコンタクトがあったわけでもないし、蓮君の口からその名前が出てくることもなかったのに、私の心のわりと大きな面積に彼女の痕跡があったのだから。
あれから、蓮君は明莉さんと私のことで何か話したのだろうか。
同じ職場なのだから、毎日顔を合わせているのだろうし、それで私と付き合いはじめたことを黙ってるのも不自然に思える。
ただの同僚ならともかく、明莉さんは、その……蓮君を好きなわけで、蓮君の発言を辿ると、おそらく二人の間には何らかの展開があったはずだ。
だから彼女が私と蓮君の関係を知らないとは思いにくいし、それなら私はいったいどんな顔で三人のテーブルに行けばいいのだろう?
短い時間であれこれ思い悩んだ私は、やはり和倉さんを引き止めようと思った。
ところが、私の小さな宝物が、そうさせてくれなかったのだ。
”ブロードウェイ” という、彼が今最も気になるワードが耳に入ったせいで、私も和倉さんも追い越して、蓮君達の半個室に入っていってしまったのである。
「だめよ大和。みなさんのお話を邪魔しちゃだめ…」
大急ぎで大和の手を取ってみても、もう時すでに遅し。
蓮君、時生君、明莉さんの視線はすっかりこちらに集まっていた。
けれど、思っていたような雰囲気ではなく、明莉さんからも以前のような刺々しさは見受けられなかった。
ホッとした私は和倉さんと共に蓮君達に同席させてもらい、大和も憧れのお兄さんお姉さんとの夕食を楽しんでいた。
話題は大和お気に入りの ”ブロードウェイ” についてがメインで、どうやら私達は、明莉さんがチャレンジを決心する重大な一場面に居合わせたようだった。
最後まで、彼女と私が二人で会話を交わす時間はなかったけれど、私は彼女への警戒心や緊張感めいたものは霧散していたし、言葉にはしなくても、彼女の成功を心の中で祈っていた。
そして見るからにまだ話し足りなさそうな三人とは別れ、私は大和が目をこすりだす前に店を出ることにした。
同じマンションの住人である和倉さんがいるので、蓮君も送っていくとは言わなかった。
ただ、他の誰にも聞かれないようにこっそり「帰ったら電話します」と耳元で囁かれた時は、まるで耳たぶにキスを落とされたような錯覚もして、顔が熱くなってしまったけれど。
だってなんだか、私がそれを望んでいるみたいで、誰に指摘されたわけでもないのに、やたら恥ずかしくなったのだ。
……私はこういうことにはもっと淡白だと認識していたのに。
実際、前に付き合ってた人には、『たまには琴子からも俺を求めてほしいんだけど?』と強請られたこともあった。
もちろん、彼とキスしたい、触れ合いたいと思わないわけではなかったけれど、何と説明したらいいのか、とにかく、どうしてだか蓮君が相手となると、自分でも意外なほど強く求めてしまう私がいたのだ。
例えば、あの夜のキス未遂を、毎日悔やんでしまうほどに……
「――――ちゃん?琴子ちゃん?」
とんとん、と肩を叩かれて、ハッと我に返った。
「え……?」
「大丈夫?酔っぱらっちゃった?いやでも、琴子ちゃんアルコール飲んでないよね?」
和倉さんが気遣わしげに私の顔を覗き込んでくる。
「あ……すみません、ちょっと考え事を……。大丈夫です」
慌てて表情をつくると、すかさず
「琴ちゃん、なにをかんがえごとしてたの?」
大和からの追及が飛んできた。
私はつないだ手をぶらぶら揺らし、「なんでもないよ」とはぐらかした。
「すみません和倉さん、何のお話でした?」
「北浦君のことだよ。付き合うことにしたんだねって訊いたんだ」
「あ………はい、そうなんです。和倉さんにはお伝えしようと思ってたんですけど……」
和倉さんにはいろいろと気にかけてもらっていたので、蓮君と正式に付き合いはじめたことを報告したいとは思っていたのだ。
実は今日食事に誘われて即了承したのも、その話をしたかったせいもあった。
和倉さんは「そうか……」と一瞬間を置いてから、「よかったね」と大きく微笑んでくれた。
「ありがとうございます」
「琴子ちゃんが恋愛に目を向けられるようになって、安心したよ。大和君が大事なのはよくわかるけど、やっぱり近くで支えてくれる人がいた方がいいと思うからね。友達でもいいけど、でも琴子ちゃんの一番の友達は大和君のお母さんだったんだろ?だから、」
「え?ぼくのお母さんがどうしたの?」
「琴子ちゃんの一番仲良しのお友達は大和君のお母さんだねって言ったんだよ」
大和の突然参加にも慣れてる和倉さんはさらりと受け答えしてくれる。
すると大和は「うん!」とテンション高く頷いた。
「お母さんと琴ちゃんは、ぼくがうまれる前からシンユウなんだって!だからとってもなかよしなんだ」
「そうなんだね。じゃあ、大和君の親友は誰かな?」
「え?ぼくのシンユウ?えっと……えっとね……」
途端に、大和は指を折りながらああでもないこうでもないと悩みはじめた。
どうやら親友は一人じゃないといけないと思い込んでいるようだ。
私はそうではないんだと大和に教えようとしたが、大和に視線を落とした時、和倉さんから呼びかけられてしまう。
「琴子ちゃん」
「はい?」
「北浦君なら、琴子ちゃんもちゃんと幸せになれると思うよ」
考え込んでいる大和には届かないようボリュームを落とされた声に、私も同じく控えめに答えた。
「ありがとうございます」
「でももし、何か困りごとがあったり、助けが必要になったときは、すぐに俺を頼ってほしい」
「え……?」
思わぬ真面目な気配に、戸惑いがかすめた。
けれど和倉さんはニコッといつものように明るく目を細めて。
「ほら、弁護士って結構役に立つでしょ?ああもちろん、琴子ちゃんからお金取ったりなんかしないから安心してね」
「いえ、もし本当に何かお願いすることがあれば、そのときはきちんとお支払いします」
「そんなのお友達価格でいいよ」
「だめですよ。和倉さんはボランティアで弁護士してるわけじゃないんですから」
和倉さんが優しい人だとは知っていても、親しき中にも礼儀あり、なあなあは良くない。
だがこれまでにも和倉さんには相談に乗ってもらったことは何度もあったのに、毎回『こんなの弁護士の仕事に入らないよ』と言われてしまうのだ。
確かに相談内容はそこまで込み入ったものでもなかったけれど、プロの意見を聞いてるのだからせめて謝礼は渡したかったところだ。
それでも、和倉さんが私よりかなり上手なのは経験しているので、何を言っても無駄なのかもしれない。
半分は諦め心境でいたが、珍しく和倉さんが折れてくれた。
「だったら、相談料金の代わりをもらおうかな」
「代わりって、例えば?」
「琴子ちゃんも知ってるように、俺、一人暮らしなんだよね。独身だし、彼女もいないし。だからさ、こうして、たまには仕事関係以外の人と楽しく時間を共有したいんだよね」
言いながら、和倉さんの長い腕は大和の頭に伸びる。
そっと撫でられて、大和はふと和倉さんを見上げた。
「ね?大和君も、僕と一緒にご飯食べに行ってくれるかい?」
「うん、いいよ!ぼく、わくらさん大好きだから」
「ありがとう。僕も大和君が大好きだよ」
見つめ合って微笑み合う二人を眺めた私は、私にとっても大和にとっても、和倉さんのような人との繋がりは貴重なのだと思えた。
血縁関係でも恋愛関係でもなく、仕事に左右されない、信頼できる隣人であり、友人。
私は実際の弁護士相談料金なんて相場も把握してないけれど、和倉さんがここまで言ってくれてるのを更に否定するのも気が引けてしまった。
だから、”じゃあ、お言葉に甘えて……” そう返事しようとしていた。
けれどそのとき
「和倉?」
夏の夜の風に乗って、背後から男の人の声が私の鼓膜を揺らしたのである。
それは、忘れられるはずもない、よく知った声だった。
そしてその声はすぐに私にも投げかけられたのだ。
「――――――琴子?琴子なのか?」
私は、その場に縫い付けられたように、足を動かすことも振り返ることもできなかった。
何だったら呼吸さえも止まってしまってたかもしれない。
息を忘れるほどの吃驚が、私を羽交い絞めにして、五感も思考も凍らせていた。
なぜならその声は、私の前の恋人であり、元婚約者でもある、笹森さんのものだったからだ。




