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「つまり何が言いたいのかと言うと、俺の今一番の望み、夢は、ブロードウェイではなくて……琴子さん、あなたなんです」
狼狽えは、絶句となって私の体を制してしまった。
蓮君からの告白は今日がはじめてではない。
好きだと、はっきり告げられたこともあるし、言葉以外でも端々から彼の想いを感じることはしょっちゅうだった。
その度に私は胸をくすぐられたり、ドギマギしたり、体を熱くさせたり、戸惑ったり、平坦な日常では味わうことなかった感情のざわめきを抱いていた。
けれど。
今ほどに、すとんと、心の入口から正々堂々と入ってきた告白ははじめてだった。
その表現が正しいのかは自分でもわからないけれど、本当に、スーッと、私の中にすんなりと浸み込んできたのである。
ブロードウェイよりも、私………そう言われた気がして、それまで私が密かに携えていた憂いが癒される気配がしたのだ。
世界中のダンサーが一度は憧れると聞く、ニューヨークのブロードウェイ。
だからきっと、蓮君もそこを目指して留学までしてたのだと信じ込んでいた。
そしてその信じ込みが大きかったせいで、実際はそこまでの強い想いはなかったと蓮君本人に教えられてもなお、本当はまだブロードウェイに行きたいのではないかと勘繰ったりしていた。
だから私は………
…………ああ、そうか。
すとんと入り込んできた彼の言葉は、私の靄かかっていた心の視界も晴らしてくれたようだった。
蓮君の夢がどうとか、私と出会わなかったらとか、そんなのは建前だったのかもしれない。
おそらく私は、例え気持ちの通りに蓮君の手を取ったとしても、いつか蓮君が、私や大和よりもブロードウェイへの夢を選んで私達の前からいなくなってしまうのではないかと、そんな不安を無意識のうちに敷いていたのだろう。
子供のこと、大和のこと、私の前にいくつも並んでいたハードルを、蓮君はひとつずつクリアにしていったけれど、最後に残ったのが、蓮君のブロードウェイ行き……言い方を変えれば、いつか私が蓮君の夢に負けてしまうことへの恐怖心、だったのだ。
けれどたった今、蓮君がブロードウェイよりも私の方を望むと断言してくれたことで、私自身でさえ認識してなかった憂事を表に引きずり出して、溶かしてくれた。
「……あの、琴子さん?」
しばし黙り込んでしまった私に、蓮君が躊躇いがちに呼びかけてきた。
思考の淵にいた私はハッと呼び戻されるも、蓮君は何を誤解したのか、顔色を曇らせていた。
「琴子さんがすぐに信じられないのもよくわかります。口じゃなんとでも言えますからね。昔とはいえ俺がブロードウェイに憧れてたのは事実ですし。琴子さんの言うように、ニューヨークに留学してた頃は向こうのエージェントのオーディションを受けたりして、その気にもなってました。でも今話したことは嘘じゃない、正直な俺の気持ちなんです。そのブロードウェイよりも、俺は今、琴子さんを欲しいと思ってます。だから、琴子さんが気にされてるような…………琴子さん?どうしてそんな顔してるんですか?」
蓮君がバッと私の顔を覗き込んでくる。
私は近付きすぎた距離に、咄嗟に俯いてしまった。
だって蓮君が、私を欲しいなんて言うから……
鏡を見ずとも、頬が赤く染まっているのがわかってしまう。
欲しいとか、何も深読みするような意味で言ったわけではないだろうけど、好きな人にそんなこと言われて、照れないわけがない。むしろ正常な反応だ。
どんなに恋愛経験があったとしても、好きな人からもらう言葉はいつも不思議な影響力があるのだから。
だけど私の心の声が届くわけもない蓮君には、私が目を伏せた態度が、まったく別の意味に映ってしまったらしい。
「そんな困った顔しないでください。俺が勝手にブロードウェイよりも琴子さんの方が大切だと思ってるだけなんですから。昔憧れていた夢がいつの間にか変わってしまうって、よくあることじゃないですか?俺の昔の夢はブロードウェイだったかもしれないけど、今の夢は琴子さん、ただそれだけです。それとも琴子さんは、夢が変わるのがいけないことだと思ってますか?」
私を理論的に説得するように、けれどどこか切なげに、眉根を寄せたのだった。
夢が変わるのが、そんなにいけないことなのか――――
蓮君の問いかけに真っ先に浮かんだのは、私自身の過去だった。
いつかは好きな人と結婚して、子供を産んで、ごくごく一般的な幸せな家庭を築きたい……漠然とだけど、ずっとそう思っていた。
それは夢だと誰かに打ち明けるほど大げさなものではなかったが、確かに私の中にはずっと在った願いだ。
だけど現実は厳しくて、変哲もない私のささやかな夢は、永遠に叶うことはなくなってしまった。
当時の私は目の前に突き付けられた事実を嘆くしかできなかった。
ただ、しばらくすると涙の量にも変化が表れ、嘆くだけの時間も短くなっていった。
いつまでも悲しみが癒えることはなかったけれど、悲しみと付き合うことに慣れていったのだ。
扱い方を学習していったとも言えるだろう。
だから私は治療で大学を休学中、新しい夢を模索した。
手術後も様々な治療が続き、心身ともに苦痛がある中で、何か明るいことを考えていないと際限なく落ち込んでしまいそうだったからだ。
そして私が新しい夢に選んだのが、幼稚園教諭だった。
もともとはまったく違う職業を目指していたのだが、幸いなことに私が通っていた大学は総合大学で、学部の転部、転科は試験さえパスすれば認められていた。
こうして、私の夢の変更は思っていた以上にスムーズに進んだのである。
新しい夢が見つかったからといって、過去の痛みや悲しみがなくなるわけではないけれど、前を向いて、前に歩いていくための、最大級のきっかけにはなってくれるはずだ。
「……そんなことないわ。夢や目標が変わるのは、全然おかしなことなんかじゃない」
赤面を収めた私は、蓮君を見つめ返すことができた。
蓮君も、私の返答を聞くや否や「そうでしょう?」と、笑顔を取り戻した。
困ったように眉間に皺を走らせる蓮君もかっこよかったけれど、やっぱり好きな人には笑ってもらいたいと、唐突にそんな想いが降ってくる。
同時に、どうあがいても、私が蓮君を好きだというのはもう誤魔化せないのだとも悟った。
「……この世に、永遠に変わらないものなんて存在しないんでしょうしね……」
あんなに、もう誰とも恋愛しないと心に決めていたのに。
我ながら、決意を翻すのが早すぎないかと呆れてしまうけれど。
その決意は理恵に向けての誓いでもあったのけど、さっき蓮君が言ったように、理恵が大和のために私と蓮君を出会わせてくれたのだとしたら、素直にそれに従いたくなったのだ。
蓮君のたった一言が、私の考え方をがらりと変えた。
やはり、好きな人の言葉には不思議な影響力があるのだ。
だが、私のセリフはなぜか蓮君には違えて聞こえてしまうらしい。
蓮君はまたもや真顔になった。
「それはもしかして、俺の気持ちのことを言ってるんですか……?」
「え?」
「俺がいつかまたブロードウェイに行きたいと言い出すんじゃないか、それを心配してたりしますか?」
「あ……、それは…」
”それはさっきちゃんと話を聞いたから心配してないよ”
そう答えようとしたのに、私との会話ではせっかちになりがちな蓮君によって先回りされてしまう。
「本当にもうそんなつもりは全然ないんですけど、どうやったら琴子さんに信じてもらえるんでしょうか……」
いや、もう蓮君の気持ちを疑ってはいないのだと、私が訂正する間もなく、蓮君からは次のセリフが放たれていたのだった。
「俺はずっと、琴子さんと大和君のそばにいるつもりです。ずっとそばにいさせてください。俺、こう見えて結構役に立つと思いますよ?体力もあるし、わりと器用だし、背が高いから便利だし、大和君だって懐いてくれてるし、何より、琴子さんのことが大好きだし。だから……ずっとそばにいても、いいですか?」




