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閉園間際の恋人たち  作者: 有世けい
恋をはじめてほしい理由
48/168

10





「なあに?琴ちゃん」

「琴子さん、大和君はパスポート持ってるんですか?」


二人揃って、ついさっきまでここを満たしていた涙などすっかり忘れ去ったように暢気に振り返る。

私は何かしら反論で応じようとしかけるも、あまりにも二人が清々しく微笑むものだから、細長いため息ひとつと「……パスポートは持ってないわ。私も大和も」という返事だけにしておいたのだった。


「ねえねえぱすぽーとって、なに?」

「ああ、それはね……」



口をはさむことを諦めた私を横目に、二人はあれこれ楽しげな会話を繰り広げていたものの、しばらくして、大和は泣いた後のお決まりでうつらうつらしはじめたようだ。

私は大和の様子が落ち着いてきた辺りで、三人分の飲み物を用意するためキッチンに立っていたので、蓮君の「大和君、眠たくなっちゃった?」という声でそれを知った。

戻ってくると、蓮君がソファーに大和を寝かせてくれてるところだった。

ファンディーも一緒にだ。

大和は相当体力を消耗していたのだろう、うつらうつらがスヤスヤに変わるのもあっという間だった。

ソファに寝かされても目覚めることなくそのまま夢の中に入っていったが、蓮君が離れようとしたとたん、パッと右手で蓮君のシャツを掴んだ。


「…ンお兄ちゃ……いかないで……」


ほとんど無意識の条件反射だったのだろう。

ムニャムニャと口元が動く大和は可愛らしくて、蓮君も頬を緩ませながら、ソファの前に腰を下ろした。


「大丈夫、どこにも行かないよ。だからゆっくりお休み」


シャツを握りしめていた小さな手をそっと外し、指で柔らかく握りなおす。

それはまるで指切りでもしてるような仕草に見えた。

微笑ましい光景なれど、私の中ではその指切りを黙して見届けてもいいものか迷いが走ってしまう。



「……飲み物、どうぞ。麦茶だけど」


リビングテーブルにわざと音をたててグラスを置いた。

だけど蓮君は「ありがとうございます」と言うばかりで、大和から手を離そうとはしない。

その指先は大和の丸い指先と結ばれたままだ。

大和の方もきゅっと握り込んでいて、”この手を離したくない” という想いは相思相愛のようだった。


「あの、蓮君……」

「なんですか?」

「その……今日は、ありがとう。来てくれて、助かったわ」

「琴子さんのお役に立てたならよかったです。本当は俺が心配になって駆け付けただけなんですけど。お節介だと言われなくてホッとしました」


へへっと照れ臭そうに、けれどサプライズが成功した子供のように満足げな色も見せた蓮君。

私より年下なのに、いつも落ち着いて大人びた雰囲気の彼がこんな風に無邪気に笑うのは、あまりなかったかもしれない。


「そんな、お節介だなんて思わないわ」

「でも琴子さんの返事を聞く前にここに来ちゃいましたからね」

「それはそうだけど……」


王子様のようにかっこよく優しく、けれど騎士のように凛として自分の芯を持っている蓮君は、時に強引なところもあった。

私がいくら遠慮しても『俺がそうしたいから』の一点張りで、これまでに何度も、自分の都合を後回しにしたり、予定を変更させて私達に時間を割いてくれたりしたのだ。

押し切られてばかりだったれけど、不思議と、申し訳ないなとは思ってもそれを不快に感じることはなかった。本気で嫌がったりもしなかった。

きっと、根っこのところに私や大和を想ってくれているのを感じられたせいだろう。

だけど……



「ねえ、本当にブロードウェイに行くつもりはないの?」



これだけは、私や大和のせいで変更させてはいけないと強く強く思っていた。

私の問いかけに、蓮君はやれやれ…といった風情で大和と繋がっていない手でこめかみを掻いた。


「琴子さん、やっぱりまだ気にしてたんですね。でも、俺の考えはこの前お伝えした通りですよ?」


どうしたら信じてもらえるんでしょうか?

困り果てた呟きには申し訳なく思うけど、どうしても引っ掛かってしまうのだ。

蓮君は、ブロードウェイは憧れだったけど何かを捨ててまで叶えたい夢ではない、そう言った。

それが本心なのか建前なのかを判別するのは、今の私達の関係性ではまだ足りない。

けれど、私のことを好きだと言ってくれた蓮君。

もし、その私と出会う前だったら、果たして同じようにブロードウェイに行くつもりはないと断言できたのだろうか?

そんな懸念がずっと心に渦巻いていたのだ。


「蓮君を信じないわけじゃないけど……。ニューヨークにダンス留学までして、かつてはブロードウェイを夢見ていた人なのに、まだ可能性を残したままで、そんなに簡単に諦められるものかなって、不思議なの」

「琴子さん、それは、」

「もし私と出会わなかったら?」

「え?」

「だから、もし、私と出会ってなくて、その……好きになってたりなんかしなかったら、蓮君は、今もブロードウェイを目指してたんじゃない?」


私としては、かなり踏み込んだ質問をしたつもり…だったのだが、それを聞いた蓮君は「え、それはないですよ?」と、即答だった。


「……え?」

「え?」


しばし、見つめ合ってしまう。

ああ、蓮君はちょっと瞳の色が薄いんだな…なんて新発見してる間もなく、クスクスクスと囁くような笑い息が聞こえてきた。

目を細めた蓮君の目尻に走るシワも素敵だなとか、こんな時にそんなことが浮かんだりしてしまう。



「そうか、それで琴子さん、ずっと何か気にしてる感じだったんですね。すみません、俺がちゃんと説明してなかったせいで余計な心配おかけしてしまいましたね」


そんなに、私の心配は顔に出ていたのだろうか?

また違った不安に見舞われてしまいそうだが、蓮君はクスクス笑いを止め、そっと丁寧に大和の指を離し、私に正面を合わせた。


「琴子さん、俺があなたのことを好きになったのは、あのパレードの日で間違いありません」


大和に接する柔らかなものではなく、真剣そのものの顔つきに、声に、ドキリとしてしまう。

喉が、カラカラに乾いていくのは、緊張のせいだろうか。


「だけどその時にはもう、ブロードウェイからは足が遠ざかっていたんです。それも、間違いなく事実です」


蓮君のいつにない強めの口調に、私は相槌の余裕を見失っていた。

だけどまっすぐな目は逸らせなくて。


「ニューヨークに留学してたのは、確かに、ブロードウェイが頭の片隅にあったからだと思います。でもそれは、この前もお話ししたように、父親との30までにダンスで結果を出すという約束の一例がブロードウェイだったからで、俺は何も、ずっとそこだけを目指していたわけではないんです。そもそもダンサーになりたいとはじめて思ったのだって、大学在学中のことですから」

「……そうなの?」


これには、正直驚いた。

その驚きが、思わず声で漏れ出てしまうほどだった。

てっきりプロのダンサーといえば、子供の頃からそれを目指し、厳しいレッスンを受けてオーディションなどをクリアした、ほんのわずかな選ばれし人達だと思っていたからだ。

もちろん、選ばれしという部分は当てはまっていると思うけれど、大学在学中にはじめてダンサーを志したというのは、イレギュラーな方ではないだろうか。

すると蓮君は真剣さはキープしたまま、ほんのりと苦笑を吐いた。



「ダンスをはじめたのは中学の頃だったんですけど、大学でサークルに入ってから色んなコンテストに出るようになって、そこからですね。幸い、いくつかスカウト的なこともしていただいたので、それでダンサーという仕事を意識するようになったんです。それまでは、漠然とですけど、将来は家の仕事を手伝うんだろうなと思ってましたから」

「ご実家のお仕事?」

「ええ。実家はアパレルメーカーをやってまして、父の跡を兄が継ぐだろうから、俺は兄の手伝いをしようかと……。でも本気でダンサーを目指すにあたって、俺は家を出ました。で、その時に反対した父とあの約束を交わしたわけです」

「きっとご両親は、家を出る蓮君のことを心配なさってその約束をされたのね」

「さあ、どうでしょう。父の跡を継ぐ予定だった兄が急にデザインに専念したいとか言い出したものですから、父としては俺に跡を継がせるための布石にしたかったのかもしれませんけどね」

「跡継ぎ?だったら、ますますブロードウェイのふぁっ」


”ブロードウェイの話をちゃんとしなくちゃいけないんじゃないの?”

そう訊きたかったのだが、途中で蓮君の手のひらに口を塞がれてしまった。

手と手とか、肩や背中、もしくは頭や髪などに触れられるといった機会は何度もあった。

けれどこんなにも近い温度での接触は今までになくて、私はありありとパニックになっていた。


「ふぁにふうの?」


”なにするの?” が蓮君の手のひらの中で反響しておかしく聞こえてくると、彼は顔を小さく左右に振った。

そして私がじっとしていると、すぐに手のひらを外してくれた。



「琴子さん、どうかもうそれは言わないでください。俺は、本当にもう、ブロードウェイに未練はないんです。さっきも言ったように、俺が琴子さんとはじめて会った時にはもうとっくに、ブロードウェイは俺が一番に叶えたい夢ではなくなってたんです。ファンダックで何年もメインを続けさせてもらってると、たくさんのファンが応援してくれるようになりました。それからの俺は、その人達にもっと喜んでもらいたいという願いが膨らんでいったんです。会社も俺を頼りにしてくださって、それが嬉しかった。そういうこともあって、正規雇用の契約を結んだ頃には、もうほとんどブロードウェイへの想いは薄れていました」

「そう……。蓮君が自分自身で、ブロードウェイよりもファンダックを選んだのね?」

「そうなんです。ご理解いただけましたか?」


ホッとした面持ちの蓮君に、私は「ええ」と大きく首肯した。


「よかった。でも……。ファンダックで有名になればなるほど、ファンが増えれば増えるほど、また別の悩みが生まれていったのは、この前お話しした通りです」

「蓮君の外見でファンになった人が多いんじゃないか……という心配事かしら?」


蓮君の整い過ぎた容姿が、かっこよすぎる出で立ちが、彼自身を本来ならば無用の惑いに迷い込ませてしまった。



「そうです。半分芸能人みたいな扱いをされていくうちに、俺はダンサーとしてのプライドだけでなく、モチベーションさえもなくしかけていた。そんな時に琴子さんと大和君に出会って、純粋に俺をダンサーや演者として見てもらえて、評価してもらって、また自信を取り戻すことができたんです。そんな大切な人を、好きになるなという方が無理でしょう?」

「……え?」

「腐ってた俺を助け出してくれた恩人に、好意を持つなという方がどうかしてる。暗い気持ちでネガティブになっていた俺の毎日を、笑顔で明るく照らしてくれた人のそばにずっといたい、そう願うのは自然なことだと思いませんか?」

「ちょ、蓮君……?」



突如としてはじまった告白の嵐に、私は赤面するのも忘れて狼狽えるばかりだった。








いつも誤字報告いただき、ありがとうございます。

すぐに訂正いたしました。

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