4
《………ありがとう》
琴子さんは焦れる俺と正反対に、静かに言った。
《蓮君は、優しいね。真っ先に私のことを気にしてくれるなんて》
「いえ、普通一番に訊くでしょう?それで、体調は……」
《ありがとう。もうすっかり大丈夫よ。今は年に一回の通院だけ。何も残さずに全摘出したのがよかったのかもしれないわね》
電話の向こうで柔らかく微笑む琴子さんが目に浮かんだ。
俺は、もう大丈夫だという返事には全身でホッとしたけれど、琴子さんのセリフは、心に痛かった。
何も残さず……
琴子さんは、最初からこんな風に落ち着いて自身の体を受け入れられたのだろうか。
幼稚園教諭という職業や、大和君への愛情豊かな姿を見ていると、琴子さんが子供好きなのは一目瞭然だ。
その琴子さんが自分の子供を望めないとなると、きっと当時はよほどの衝撃と悲しみに襲われたに違いない。
俺はグッとスマホを握る手に力を加えていた。
なぜ俺はその時琴子さんの傍にいられなかったのだろう。
隣にいたなら、琴子さんの辛さに寄り添えたのに。
悲しみを、一緒に持つこともできたのに………なんて、どうしようもないことを考えて悔しくなる。
琴子さんが学生ということはおそらく俺は中学生、下手したら小学生で、傍にいたところで大した慰めにもなれなかったかもしれないけど、ただとにかく、俺は琴子さんを支えたかった。
そしてそれは今現在の琴子さんに対しても同じ想いだ。
「よかった……。命に関わってくることは、もうないんですよね?」
直接的過ぎる言い方をしてることにも気付かぬほど、俺は安堵しきりだった。
《そうね。絶対とは言い切れないけど、ほとんど心配はないそうよ》
「そうですか……」
絶対ではないのかと、俺は素人感覚でショックを受けてしまう。
だがもし少しでも不安因子を残していたなら、いくら親友の忘れ形見だとしても、果たして琴子さんは大和君を引き取っただろうか?
いや、そうはならなかったはずだ。
だとしたら、琴子さんが言う ”ほとんど心配ない” の ”ほとんど” を信用してもいいのでは?
何より琴子さん自身が大丈夫と言ってるのだから。
「…それを聞いて、安心しました」
ようやく口元に笑みが戻ってきた俺に、琴子さんは《だから……》と話を戻そうとしてきた。
琴子さんがそのあと何と続けるつもりなのかはわかりきっている。
だから俺は先手を打って、その続きは言わせなかった。
「でもそのことと俺と付き合えないことは、全然関係ありませんよね?」
本気で意味がわからないという温度の俺に、琴子さんの方も《――え?》と、彼女は彼女で俺の発言の意味が本気でわからないという戸惑いをこぼしたのだった。
「ですから、琴子さんの病気や子供のことは、琴子さんが俺の気持ちを受け入れられない理由にはなりませんよね?」
俺は本気でそう思っていた。これは誓って嘘ではない。
だって俺は、琴子さんと俺の子供のことなんて、一度も考えたことがなかったのだから。
ただ琴子さんを好きで、大和君も好きで、二人と一緒にいたい。
それだけだ。
付き合っていけば当然結婚や子供のことも話題には出てくるだろうけど、それが目的で俺は琴子さんに気持ちを伝えたわけじゃない。
俺も子供は好きだけど、居もしない子供と琴子さん、どちらが大切かなんて比べるまでもないのだ。
《待って、蓮君はちゃんとわかってる?私と付き合ったら、自分の子供には一生会えないんだよ?》
どうしてもそれを押し通そうとしてくる琴子さん。
その意志は堅そうだ。
俺のためにそう言ってくれてるのだろうが、俺の想いはそうじゃないんだと、何度でも言い聞かせるしかない。
「例えそうだとしても、大和君がいるじゃないですか」
《大和は蓮君の子供じゃないわ。私の……私が生んだわけでもない、ただ私が保護者代わりをしてるだけで、》
「それって立派な親なんじゃないですか?義理の親も、正真正銘親ですよね?」
《それは、そうかもしれないけど……》
「だいたい、俺は、将来的に子供が欲しいから琴子さんを好きになったわけじゃありませんよ?」
《………でも、例え蓮君がそう思っていても、蓮君のご両親はきっと気にされると思うわ。だって孫の顔を見せてあげられないんだから》
「俺は親のために生きてるわけじゃありません」
《だけど、一番の親孝行ができなくなるのよ?》
「もとから、俺はダンサーになると言って家を飛び出してきた親不孝者ですから」
《だったら余計に孫に会わせたいとは思わないの?》
「まったく思いません。それに俺は次男なので、万が一親が跡継ぎのことを言い出したって問題ありませんよ」
《でも、》
「琴子さん、そろそろ気付いてください。さっきから琴子さんは、俺と結婚する未来のことばかり話してるんですよ?」
《―――っ!》
俺は一歩も退くつもりはないし、琴子さんが俺を嫌いだ迷惑だと言わない限りは諦める必要もないと思っている。
それに琴子さんが押しが弱いというのは把握済みで、電話の向こうが無音になったのをみすみす見逃したりはしない。
「琴子さん」
意識して声のトーンを落とした。
その刹那、耳元で琴子さんのささやかな吐息を感じた。
「本当は直接会って顔を見て伝えたいところですけど……」
俺はふと見上げた夜空を背景に、琴子さんの顔を思い浮かべた。
本人が目の前にいない分、より一層の想いを込めて。
「あなたが好きです」
二度目の告白は、一度目とは気持ちの濃度が全然違っていた。
琴子さんの事情を知ったからには尚更だ。
《どうして、そこまで……》
想ってくれるの?
最期は掠れるように告げてくる琴子さんに、俺はわかりやすく愛おしさを感じた。
そして、俺が琴子さんを好きになったきっかけや理由をまだ伝えてなかったのだと思い出し、出会った日に感じた特別な気持ちを聞いてもらうことにしたのだった。
「……琴子さんが、俺を救ってくれたからですよ」




