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「もしもし、琴子さん?」
久しぶりの琴子さんからの電話に、状況も忘れてつい声が弾んでしまう。
だが琴子さんは明莉からの電話を受けたから、こうして俺に連絡してきたわけで、それは告白して返事待ちの俺にとっては決して喜ばしい展開ではないはずだ。
そしてその予測はどんぴしゃだったようだ。
《ごめんなさい、蓮君。私は蓮君の気持ちに応えることはできません》
こんばんはの挨拶さえすっ飛ばして、琴子さんはいきなり俺を振ってきたのである。
改まった敬語混じりのセリフに驚きはしたが、なんとなくはそんな予感もしていた。
おそらく明莉がさっきの電話で何かを言って、そのせいで俺への返事を迷っていた琴子さんの秤が片方に一気に傾いたのだろう。
”俺とは付き合えない” という側に。
「……理由を伺ってもいいですか?」
もともと琴子さんがこういう返事をすることは織り込み済みだった俺は、引き下がるつもりなど一切なかったものの、ひとまずは琴子さんの考えを教えてもらう必要があった。
いくら推し量ったところで、琴子さんの心の内までは見抜けなかったからだ。
《それは……前にも話したように、大和と私は実の親子ではありません。私達には血の繋がりもない、しかも子供を産んで育てたこともない私がいきなり5歳の男の子の母親になったわけで、まだ一緒に住み始めて一年ほどだし、まだまだ大和との関係を構築していってる最中なの。そんなときに誰かと恋愛するなんて、とてもじゃないけどそんな余裕はないのよ。……本当にごめんなさい》
琴子さんは律儀にありのままを説明してくれたのだろう。
ただ俺は彼女のそういうところも好きだと思ったし、だけどその程度の言い訳で納得するはずもない。
むしろ、そんなすぐに考えつく理由を持ち出して、それで俺が琴子さんを諦めると思われていたのだとしたら心外である。
そんな俺の心境に気付かない琴子さんは、もうこの件に関しては話し合いは終了したとでも言わんばかりの空気をスマホ越しに漂わせてきて、俺はそれを一刀両断にしたくなった。
「だったら、俺も一緒に大和君と琴子さんの絆が深まるようにお手伝いしますよ。だって大和君は俺にとても懐いてくれてるし、俺も一緒にいた方が何かと好都合だと思いませんか?」
俺が甘やかに攻撃を開始すると、琴子さんは一瞬怯んだように黙った。
だが《そんな蓮君を利用する真似できないわ》と俺の提案はひらりとかわされてしまう。
まあ、これも想定の範囲内ではあるけれど。
「違いますよ」
ぴしゃりと否定の文句を口にした俺に、琴子さんは《え?》と条件反射的な訊き返しをしてきた。
「だから、今琴子さんが言った ”俺を利用する” という言いまわしのことです。俺は例えあなたから真夜中に車の運転手をしてほしいと電話がかかってきても、休みの日に買い物の荷物持ちをしてほしいとお願いされても、早朝に虫退治をしてほしいと呼び出されても、大変だなと思うことはあっても迷惑だなんて思ったりしません。むしろ他の誰でなく俺を頼ってくれたことに大喜びするはずです。もちろん、琴子さんがそんな無理難題を俺に言うとも思いませんけど、もし言われたとしても、俺は琴子さんの役に立てるなら嬉しいんです。だから、琴子さんの言葉を借りて、例え琴子さんが ”俺を利用した” としても、それは俺にとっては喜びでしかないんですよ」
《……っ》
琴子さんからは言葉に詰まったような気配があった。
俺は立て続けに甘やかに説得を試みる。
「琴子さんは優しいから、”俺を利用する” なんて俺に悪いと感じてしまうのかもしれませんが、だったら、もし琴子さんが ”俺を利用する” ようなことがあれば、その代わりに俺とデートしてください。ああ…デートって言うと語弊がありますね、そんなちゃんとしたのじゃなくていいんです、例えばカフェでランチするとか、一緒に食事をするとか…なんか食べることばっかだな。もちろん大和君も一緒に、三人で。何だったらこの前みたいにまたファンダックに三人で行くっていうのもいいですね」
もう夜も遅いというのに、公園を包むのはじっとりとした今の季節を謳う風だ。
俺はシャツの中にツーと走る汗を感じながら、これが気温のせいなのか、知らずのうちに緊張を孕んでしまったせいなのかは測りかねた。
だからこそ、もうひと思いにと畳み掛ける。
「だからといって、琴子さんと大和君二人きりの時間を邪魔するようなことは絶対にしません。俺は二人の時間のどこかに、少しだけ仲間に入れてもらえたらじゅうぶんです。自分で言うのもなんですけど、もし俺が仲間に加わったら、きっと大和君は喜んでくれると思いませんか?それに、この前琴子さんは自分では頑張ってるつもりはないと言ってましたけど、それでも、人間のエネルギーって限度があると思うんですよね。だけどもし俺が琴子さんを支えたとしたら、琴子さんはもっとたくさんのエネルギーを大和君に注げると思いませんか?だって自惚れるわけじゃないですけど、琴子さん、俺のこと嫌ってるわけではありませんよね?もしそうならもうとっくに振られてるはずだし、なんのかんの連絡を取ったり会ったりもしてくださるわけですから。だから琴子さん、もし大和君以外の理由がないのなら、俺はあなたを諦めたりはできません」
《蓮君……》
やっと返ってきた琴子さんの声は、か細く弱く聞こえた。
もしかしたら泣いてるのではと不安になってしまうも、しばらくして《違うのよ……》と続けた琴子さんに、俺は嫌な予感が駆け抜けた。
大和君以外のことで俺の気持ちに応じられない理由があるのかと、瞬時に心を構えたのだ。
攻守の交代は、予測していなかった。
「何が違うんですか?」
内心ではビクビクしてるくせに、そんなのはおくびにも出さない。
ただでさえ年下なのだから、琴子さんの前で頼りない雰囲気は1ミリだって漏らしたくないのだ。
けれど琴子さんはそんな俺の心の武装を気にも留めないような、少しも自身を繕わない弱弱しさのまま、俺に告げたのである。
《私が蓮君と付き合えないのは、大和のことだけが理由じゃないの……》
嫌な予感は、俺の胸を突き刺して的中した。
「では、その理由を、教えていただけますか?」
無理なら言わなくていい。
いつもの俺ならそう付け加えていたところだろうが、今は、そんな余裕もなかった。
この先に、琴子さんが抱えている何かが待ち構えている。
もしかしたらそれが、彼女の携えている最も大きな何かのかもしれない………今度はそんな予感がしてたまらなかったから。
《……大和のことを一番に考えたかったから誰とも恋愛するつもりがない、そう思ってるのは本当なの》
「ええ、それは当然わかってます」
《でもその理由だけじゃ蓮君は納得してくれないみたいだから……》
「そうですね」
《だから、もう一つの理由も話すわ》
「教えてください。俺と付き合えない理由を」
何を言い出されるのか見当もつかない俺にフェイントをかけるように、琴子さんはフゥ……と深い息継ぎをした。
これから聞く話は、そんな呼吸を整えてからでないと始められないような深刻な内容なのだろうか。
俺も無意識に背筋を伸ばして琴子さんの告白を待った。
《はじめに言っておきたいのだけど、私は蓮君だけじゃなくて、誰とも付き合うつもりはないのよ。だって…》
琴子さんはわずかな小休止を挟んだのち
《私………、私は、子供を産めない体なの………》
ひと思い告げた。
「……え」
《学生の頃病気が見つかって、手術したの。もう大昔のことだから詳しいことは省くけど、そういうことなの。だから……。蓮君からは好きだと言われただけだし、蓮君が将来をどう考えてるのかは知らないけど、私はもう30代も半分を過ぎてて、蓮君も29でしょ?今付き合いはじめたとしたら、自然と将来を見据えることになるかもしれない。だけど、私が相手だと………一生子供は望めない。どんなに愛し合ったとしても、子供は授からないのよ》
「ちょ、ちょっと待ってください」
そのつもりはなかったけど、琴子さんが肝心な部分を抜かして話を続けようとするものだから、俺は慌てて割って入った。
電話の向こうでは琴子さんが何?と不思議そうな感じに言葉を置いてくれた。
「病気って、その、詳しいことは教えていただかなくて結構ですけど、手術して子供が……ということは、きっと大きな病気だったんですよね?今はその病気はどうなってるんですか?完治はしてるんですか?」
そこが最も重要じゃないか。
俺の拙い知識でも、女性が手術して妊娠出産を望めなくなったということは何らかを手術で摘出したのだということが思い浮かぶ。
女性特有の病気には詳しくないが、もしかしたらその中には、癌の部類も含まれているんじゃないのか?
そんな考えが過ったとき、背筋をひやりとしたものが落ちていった。
さっきまであんなに蒸し暑くて汗を纏っていたというのに。
肌を撫でる風の温さも遠くで聞こえる車や人が行き交う音も、さっきまで当たり前にあったもの達が、一斉に消え去ってしまう。
早く。
早く言ってくれ。
もう病気は治っていると。心配ないのだと。
誤字をお知らせいただき、ありがとうございました。




