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だが、何もいますぐに琴子さんからいい返事をもらえるとは思っていなかった。
だって琴子さんからは恋愛に対する前向きな雰囲気は微塵も感じなかったから。
何よりも大和君が大事だと、常にその気持ちがあふれている琴子さんに付き合ってくださいと言ったところで、断られるのが目に見えている。
俺とそれなりに距離を近付けてくれたのだって、大和君がきっかけだ。
大和君がいなかったら、大和君が俺を慕ってくれなかったら、今みたいな位置にはいないはずで。
だから俺は、返事は急がないから考えてほしいと訴えた。
琴子さんはにわかには躊躇も見せたものの、最終的にはわかったと言ってくれたので、俺は心の底からの息をついた。
いくら今返事はいらないと言ってみても、それでも絶対拒否だと返されたら完全にお手上げだったからだ。
首の皮が一枚繋がったというのは物騒にも聞こえて琴子さんには不似合いだが、言い換えるなら、俺はまだ、ガラスの靴を持っていてもいいとシンデレラ本人から許された…というところだろうか。
少なくとも、即刻ガラスの靴を破棄しろと命じられなかった、俺はそれが思っていた以上に嬉しかった。
そして、その喜びは口に出さずとも自然と全身から滲み溢れてしまっていたようだ。
「最近機嫌がいいな。何かあったのか?」
鋭い指摘が、時生からもたらされたのである。
ショーとショーの合間時間、新しいパレードの振り付け動画をチェックしてる時のことだった。
「……は?いや、別に……?」
咄嗟にきゅっと唇を噛み、顔つきを引き締める。
時生は琴子さんのことをどう思ってるのか明かしておらず、俺にしてみればライバル判定はグレーゾーンなのだ。
そんな相手にわざわざ自分の進展度を報告するなんてあり得ない。
いいやつではあるけれど、琴子さんに関してだけは要注意人物だ。
だが、時生はいたってクールに、氷のような目つきで言ってのけた。
「お前は隠し事がど下手だ。その点は明莉を見習ったらどうだ?」
「はい?何言って……」
「俺が気付いたくらいだ、俺よりもっとお前を見続けている明莉だってとっくに感じてるだろうさ」
「……何を?」
「お前がここのところやけに機嫌がいいってことさ」
「そりゃ、まあ、オーディション受かったりCMが決まったりしてたからな……」
「それだけか?」
「他に何があるんだよ」
「しらばっくれるな。あんなことがあって誤魔化す方がどうかしてるぞ」
「何だよ」
「琴子さんのことだよ」
きっぱり言い切られてしまえば、白を切るのも難しい。
だが一応は「琴子さんがどうしたんだ?」と切り返してみた。
すると時生はみるみると視線を研ぎ澄ませていった。
「わかってないなら教えてやるよ。この前琴子さんを送っていった次の日から、お前、妙に浮かれてるぞ」
「そうか?」
「まさか付き合ってるのか?」
「まさか。まだ返事はもらってな―――」
しまった、と思った時にはすでに遅かった。
時生は「ふうん…」と腕組みして俺を睨んでくる。
「まだ、ねえ……?」
ただでさえ冷たい雰囲気を醸し出してるくせに、さらに冷やした永久凍土のような目つきの時生に、俺はため息と共に観念した。
幸い、このミーティングルームには二人きりだった。
「わかったよ、言うよ……。お前の想像通り、俺はあの日、琴子さんに好きだと言った」
「やっぱりな。それで?」
「すぐに返事しなくていいから考えてほしいと言った。今の琴子さんは大和君のことが最優先だろうし、いい返事は期待できそうにもなかったからな」
「それで琴子さんは何と?」
「何も。返事しなくていいという俺の言葉を受け入れてくれたんだ。今はそれだけで良しとする」
「……それだけか?」
「ああ、そうだけど?」
悪いか?
言外に問うと、時生はフッと笑って目を逸らした。
「お前、案外可愛いんだな」
「何だよ、喧嘩売ってんのか?」
「お前相手じゃ喧嘩にならないよ」
「どういう意味だよ」
「とにかく、あの人は俺にとっても大切な恩人なんだ。くれぐれも迷惑になるようなことはするなよ」
「わかってるよ」
「……ならいい」
なんだか琴子さんの身内のような言い草の時生に、若干モヤモヤしてしまう。
だが、こいつが琴子さんをどう思ってるのかを確かめるなら今がいい機会だと、モヤモヤは一旦抑え込むことにする。
「なあ、前から訊きたかったんだけど、お前は琴子さんを恩人以上には思ってないんだよな?」
時生は男の俺から見ても男前で、憧れるところもあるほどだ。
ここでライバル宣言でもされたら、俺は今みたいに悠長に琴子さんとの距離を測ってる場合ではなくなるだろう。
じっと隣の氷の美丈夫を見つめると、逃げることなく正々堂々と受け止めるように見返される。
そして時生は氷を溶かさぬまま
「あの人は……琴子さんは、俺の恩人で、憧れの人だ。それに、今俺にとって一番大切な人だ。もし困りごとがあるならどんなことでもして差し上げたいと思ってるほどのな」
まるで冷たい熱を帯びているような、芯の通った返事を投げつけてきたのだ。
俺は知らずのうちに、ゴクリと唾を飲んでいた。
「だが……、それが恋愛感情かと言われても、正直わからない。だって十年以上もお会いしてなかったんだ。だから今はお前のことも邪魔したりするつもりはないが、この先、もし俺の琴子さんへの想いが恋愛感情だと自覚するようなことがあれば、きっと手加減はしない」
いつもクールだの無口だのと噂しそんなとこが素敵だと騒いでるこいつのファンにも見てもらいたいほど、俺は、感情が煮えてるような熱さを確かに時生から受け取った。
つまり、俺が真剣に誠実に琴子さんに接してる以上は、今のところは時生は手出しも口出しもしないということだ。
それを聞けた俺は心弛びしたと同時に、気持ちをひと際締め直した。
時生を敵に回すなんて考えられなかったし、それ以上に、時生よりも俺の方が琴子さんと大和君を想っているのだという矜持がそうさせたのである。
「だったらずっと自覚しないままでいてくれよ。お前はかなり手強いライバルになりそうだからな」
その矜持のままに強がりを口にすると、時生はフンと笑うだけだった。
その時、カタンと扉付近で音が鳴った気がした。
俺も時生もすぐに反応したが、扉には異変はないようだ。
「誰か来たか?」
「さあ?鍵はかけてないんだろ?俺以外にも声かけたのか?」
「いや、俺達と同じパートの担当はいなかったからな」
時生が答えながら扉を開く。
だか廊下には人の往来はあるものの、この部屋の扉を鳴らした人物らしき姿は見当たらなかった。
「小道具か何かが当たったのかもな」
「そんな音じゃなかった気がしたけどな」
特に気に留めない俺に対し、時生はわずかに訝しんだ。
けれどそれも大したものではなく、俺達はそのあとは何事もなかったように一日の仕事を終えたのだった。
俺がこの時の音の主を知ったのは、閉園後のファンダックを後にし、ファンに見つからないよう最寄り駅とは反対の私鉄の駅に向かっている途中のことだった。
顔が知られてない演者は最寄り駅を利用しても差し支えないが、ある程度認知されてくるとそれは難しくなる。
俺も以前ファンに囲まれて駅に迷惑をかけてしまったことがあるので、それ以降はなるべく最寄り駅以外の駅まで足を延ばすことにしている。
俺だけでなく、時生や明莉なんかも同様だ。
そして複数ある駅の中には徒歩で向かうにはやや遠距離なところもあり、その途中にある公園の自販機やコンビニなんかでは同僚とよく出くわしていた。
みんな考えることは同じということだ。
今夜も例に漏れず、とある小さな公園の自販機に立ち寄った俺は、その近くのベンチに見知ったシルエットを見つけた。
明莉だ。
一人で腰掛けて、電話をしているようだった。
時生は弟と約束があるとかで別行動だったし、俺は久しぶりに明莉と一緒に帰るかと、ゆっくりと近寄っていった。
あまり会話を聞かれたくないだろうという俺なりの配慮だったのだが、漏れ聞こえてきた「秋山さんが…」という声に、反射的に大股になってしまった。
落ち着け、何も相手が琴子さんと決まったわけではない。
だけどそうとしか考えられない。
まさか明莉がまた何かしたのか?
仕事仲間であり友人でもある明莉をもう疑いたくないけど、こいつには前科があるのだ。
焦りを纏ったおれがベンチに最接近した時、明莉はちょうど通話を終えたところだった。
「お前何してるんだ?まさか今電話してたの琴子さんじゃないだろうな?」
自分でも信じられないほどの低い声で詰問していた。
明莉はわかりやすくビクリと全身を揺らして俺を振り仰いだ。
「えっと……」
「はっきりしろよ。琴子さんに電話したのか?してないのか?」
「……ごめん。どうしても言いたいことがあったから……」
俯いた明莉に、俺は腹の底から苛立ちが膨れ上がった。
「何のつもりだ!」
感情のままに声も荒ぶる。
こんな苛立ちを明莉に投げかけたのははじめてだった。
明莉の顔色は蒼白で、俺をここまで怒らせたことに驚いているようだ。
だがそんなことどうでもいい。
問題は明莉が琴子さんに何を話したかだ。
「琴子さんに何言ったんだよ。また琴子さんに迷惑かけたんじゃないだろうな?」
「迷惑なんかかけてないわよ。今日はちょっと話したかっただけで、失礼にならないように注意もしたし…」
「だいたいお前が琴子さんに何の話があるんだよ?」
「だって、蓮が秋山さんに告白したとか言うから……」
「なんでお前が知って…」
言いかけて、さっきミーティングルームで鳴った音の主は明莉かと察した。
「俺達の話を盗み聞きしたのか」
「だって蓮は……」
俺が何だっていうんだよ!
そう怒鳴りつけてしまいそうだったが、これ以上感情をぶつけても明莉まで感情的にさせてしまうだけだろうと思いとどまる。
だが言うべきことは言っておかないとまた同じことの繰り返しだ。
俺は意を決して告げることにした。
「……この際だからはっきり言っておくけど、俺にとってお前は妹みたいなものなんだ。お前が本気で俺のためを思って琴子さんにいろいろしてるのだとしても、それは、余計なお世話だ」
明莉は年下だけどファンダックでは同期で、俺はスカウト、明莉はオーディションという違いはあったものの、説明会やら面談で顔を合わせていくうちに親しくなっていった。
当時から明莉もブロードウェイに憧れを抱いていたようで、俺がニューヨーク帰りだと知ると妙に食いついてきたのを覚えている。
それからも何かにつけて懐いてくるようになった。
ダンスのセンスもいいし相性もよかったので、ペアを組むとやりやすかったし、物怖じせず相手が誰でもズバズバ言う性格は付き合いやすいとも思った。
本当に、可愛い妹のような存在だったのだ。
少なくとも俺にとっては……
俺の発言に明莉がひゅっと息を飲むのがわかった。
そして俺を避けるように目を伏せ、「……ごめん」と呟くと、ベンチから立ち上がって小走りで公園を出ていった。
俺は明莉を傷付けたかったわけじゃない。
苛立ちは噴き上がったが、明莉に対してこれまで白黒はっきりさせてこなかった俺にも落ち度はあるのだ。
咄嗟に明莉の後を追いかけようとした俺だったが、スマホのバイブ音がそれを引きとめた。
明莉を優先するべきかと迷うもこのタイミングも引っ掛かる。
俺はとりあえず着信相手だけでも確認しようとさっとスマホを取り出して画面に釘付けとなった。
「―――琴子さん?」




