10
「そうですか……。いつか、大和君がお母さんのことを、穏やかに受け入れられたらいいですね……」
言葉を選びながらそう言ってくれる蓮君は、やはりとても優しい人だ。
思えば、昔から私のまわりには優しい人が多かった。もちろん全員というわけではないけれど、理恵も、仕事関係の人達も、和倉さんも、別れてしまったけど学生時代の恋人も、それから、笹森さんも……
うっかりと蘇りかけた懐かしい彼の姿に、私は慌てて頭を振った。
「琴子さん?大丈夫ですか?」
「あ…うん、何でもない」
「本当に?疲れてるんじゃないですか?ちょっと顔色が悪い気もします」
「そう?平気よ?」
蓮君が隣から正面にまわって顔を近付けてくるので、私は反射的に体を反らしてしまった。
他意はなかったのだけど、蓮君からしたら私は逃げたように映らないだろうか。
けれど目の前の整った顔が浮かべているのは心配色だけだった。
「……琴子さん、まだ知り合って日も浅い俺がこんなこと言うのはどうかとも思うんですけど、あんまり、一人で頑張り過ぎないでください」
「え?」
「和倉さんが言ってました。琴子さんは頑張り過ぎて危なっかしいところもあるって」
和倉さんが……?
確かに和倉さんには相談に乗ってもらったこともあるし、私と大和のことをよく知っている人だとは思うけれど……
「私、自分ではそんな風に言ってもらえるほど頑張ってるつもりはないわよ?」
頑張ってないとは言わない。
慣れない子育てに、仕事、特殊な関係であるがゆえに発生する色々な手続きやら配慮、そのどれを取っても、大和と暮らしていくためには必要なことなのだから。
それらは決して ”頑張る” のではなくて、”やって当たり前” のことばかりなのだ。
だから、毎日慌ただしく、時間がなくて大変だとは思っても、苦痛に感じたことはない。
だって大和と一緒にいられるのだから。
私は、子育てで得られる幸せも忙しさも、喜びも悩みも、自分にはもう一生望めないことなんだと諦めていた。
養子縁組という選択もあるにはあるけれど、自らの意志でそれを求めるほどの強い気持ちもなくて、それに独身のままでは色々と難しい面もあったから。
それなのに、親友の死というこの上なく悲しい出来事の果てに、大和という、この上なく大切な宝物を授かった。
その宝物を前に、苦痛を感じてる場合ではなかったのだ。
もしかしたら、世の先輩方には、そんなこと言ってられるのも最初だけだと笑われてしまうかもしれない。
それでも私は、一度は諦めた夢をまた違った形で与えていただいたのだからと、少なくとも今の時点では、どんなに疲弊しても、大和に関することで苦痛に感じたりはしなかったのだ。
「なんか、琴子さんらしいですね」
蓮君は私の隣に戻り、ふわりと微笑んだ。
まるで私を見守るようなまなざしで。
それはまさにおとぎ話の中、お姫様をエスコートする王子様のようだった。
……いや、私はお姫様なんかじゃないけれど。
自分の想像に申し訳なく思っていると、ちょうどマンションが見えてきた。
「蓮君、ありがとう。もうここで大丈夫よ」
私の言葉に蓮君も頷き、ぐっすり眠る大和を私の背中に移動させてくれる。
「おかしな背負い方になってませんか?」
大和の手足の位置を見まわして訊いてくれる。
どこまでも丁寧に優しい人だ。
「ありがとう。大丈夫」
今夜何度めかの ”大丈夫” を蓮君に返した私は、「それじゃ、おやすみなさい」と告げた。
けれどマンションに歩き出そうとした私を、蓮君が「琴子さん」と呼び止めたのだ。
「?」
振り返って長身の彼を見上げると、彼は王子様のようだった笑顔に凛々しさが合わさっていて、それはまるであのパレードの時のような騎士を連想させた。
「琴子さん、さっき、大和君が琴子さんのことを大好きだと言ってたって話しましたよね?」
「え…?ええ、そうね」
呼び止めてまで確かめることなのだろうかと、少し判断に惑う。
ところが蓮君はより騎士に寄せて、若干の強張りさえも乗せて言ったのだ。
「その時大和君から『レンお兄ちゃんは?』と訊かれたので、俺は『もちろん大好きだよ』と答えました。琴子さん、俺は、あなたが好きです―――――」
それは、おとぎ話ではなくむしろ少女漫画に出てくるような、王道中の王道の告白のセリフだった。
あまりにもストレート過ぎて、私は、そのあと自分自身がどんな顔をしてどんな対応をしたのか、実はよく覚えてなかったりする。
ただ蓮君が最後に「返事は急がないから考えてください」と言ったのだけはしっかり記憶していて、どうして言われるがまま、すぐに返事しなかったのかが不思議だった。
だって、私は蓮君の気持ちを受け入れることはできないのに。
今は大和のことが一番大切で、誰とも恋愛するつもりはないのだから。
だから、蓮君の気持ちを察しながらも、知らないふりで通してきたのだ。
知ってしまえば、もう知らないふりはできないから。
なのに明莉さんも和倉さんもあちこちから針でつつくように私と蓮君を刺激してきて……
けれど、蓮君の告白に即答できなかったのは、私自身の責任だ。
大和と生きていくためにもう誰とも恋愛しない、そう決めたのは自分のくせに、いつの間にか蓮君が心に入り込んでくるのを許していたのだから。
一緒にいると優しい気持ちになれて、電話やメールの端々にも見える誠実な人柄や、大和を大切に思ってくれるのが丸わかりな接し方の一つ一つに、私は好感を抱くとともに信頼を寄せていた。
だからこそ蓮君の告白は、受け入れられないにもかかわらず、心では嬉しいと感じてしまう私もいたのだ。
だけどいくら日にちを置いたところで、誰とも恋愛しないという決意に変わりはない。
大和が健やかに成長して、成人を迎えた頃にはまた違っているかもしれないけれど、少なくとも今しばらくは絶対に無理だ。
ただでさえ、私達は普通の家族ではないのだから、とても恋愛事に時間や気持ちを割いてる余裕はない。
大和が母親の死を理解した時、全力で向き合うためにも、私の心は大和でフルになっていたい。
そうすると自ずと、返事は定まっていく。
問題は、どうやってそれを伝えるかだ。
蓮君は優しい王子様のような容姿でいながら、しっかりと自分を通す強さも持っている。
私が断りの文句を告げようものなら、きっとそれを上回るだけのセリフを打ち返してくるだろう。優しい言葉を用いながら。
そんな蓮君の紳士的な強引さを思い返すと、そのおかげで私達の距離は縮まっていたのだなと、くすぐったくも感じた。
けれどもう、それに浸っているわけにはいかないのだ。
あの夜から一週間、私は毎晩のようにスマホを見つめていた。
もう答えは決まっているのに、なかなか行動には移せない。
蓮君からも連絡はなかったけど、大和は毎日のように蓮君からプレゼントしてもらったファンディーのぬいぐるみを抱えながら「レンお兄ちゃんにつぎはいつ会える?」と訊いてきた。
その度に「どうだろうね?」「さあ?わからないな…」と、曖昧に紛らわせるしかなかったけれど。
そして今夜も大和がベッドに入ったあと、私はスマホをテーブルに置いて彼への返事について考えていた。
そこへ、こちらの事情を一切鑑みない不躾な着信音が鳴り響いたのである。
「………明莉さん?」
まったく予想外の相手だった。
躊躇はしたものの、蓮君と時生君がああ言っていた以上、明莉さんがまた何かを企んでいるということもないだろう。
「……はい」
《秋山さんですか?明莉です》
「こんばんは、明莉さん」
《こんばんは。この前は……すみませんでした。蓮と時生にめちゃくちゃ怒られました》
「そうですか……」
普通に受け答えしながらも、私の中では明らかに明莉さんに対する罪悪感が育っていた。
前に彼女と電話で話した時と今とでは、状況が決定的に違っていたからだ。
だから私は、彼女とはあまり話していたくなかった。
「それでしたら、もう気にしてませんので……。あの、お話がそれだけでしたら、」
失礼しますね。
私の最後の一言を横取りするようにして、明莉さんは勢いつけて言い放った。
《だけど蓮が今大事な時なのは事実なんです!蓮はブロードウェイの舞台を目指してて、私はその応援をしたいんです。一番のファンとして。だからあなたとは……》
この前とは違い、明莉さんからは必死感が伝わってきて。
それが蓮君への恋心ゆえか、それとも仲間の夢を応援したい気持ちからか、どちらかはわからないけれど、私にはどちらでもよかった。
「……あの、明莉さん、そんな心配しなくても、本当に大丈夫ですよ?私達はそういう関係にはならないので」
明莉さんにそう断言したことで、私の内心では何かの合図が弾けたのかもしれない。
再度、《すみませんでした》と締めくくった明莉さんとの通話を終えて間もなく、蓮君に電話をかけていた。
《―――もしもし、琴子さん?》
久々の電話に声を跳ねさせる蓮君だったけれど、私はこんばんはの挨拶も抜かして告げたのだった。
「ごめんなさい、蓮君。私は蓮君の気持ちに応えることはできません」




