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交通事情により私の実家前までタクシーで乗り付けることは難しいため、私はタクシーを利用する際はいつも実家最寄り駅で降車していた。
今夜も例に漏れず、私と蓮君が降りたのは、私鉄のそこそこ大きめな駅のロータリーだ。
ここから実家までは目と鼻の先ほどで、だから蓮君には駅ビルのコーヒーショップで待っててもらうことにした。
夜間であることから、私を心配する返事があったが、私が夜分に実家に男の人を連れていくことに躊躇を示すと、蓮君も素直に引き下がってくれた。
「くれぐれも気を付けてくださいよ」と何度も言い聞かせるように告げてくる蓮君に、彼は恋人には過保護なタイプなのかもしれないと思った。
けれどそう思った次の瞬間には、そんなことを思い浮かべた自分が恥ずかしくなったりして。
私達は、そんな関係じゃないのに。
生ぬるい風と共に夜道を歩きながら、私は頬の火照りを冷ましつつ実家に向かったのだった。
まだそこまで遅くない時間だったおかげで、大和は起きて私を待っててくれた。
父がお風呂に入れてくれたらしく、石鹸の清潔な匂いに包まれた大和が「琴ちゃん、おかえりー」と抱きついてきてくれると、心から癒された。
「もっとゆっくりしてきてもよかったのに。大和君が寝ちゃったらあんたも泊っていくつもりだったんでしょ?」
母が大和の帰り支度を手伝ってくれながら言う。
私の両親は大和のことを本当の孫のように可愛がってくれているのだ。
いつも私と大和を気にかけてくれていて、時にはこうして力にもなってくれる二人には感謝しかないけれど、もし、私の体のことがなかったら、果たしてこんな風に血の繋がりのない子供を育てることに賛成してくれただろうかと、不穏な想像が過ることもあった。
仮定の話を並べたところで幸せは得られないと、自分の経験から学んでいるはずなのに……
「そうならないように、こうして早めに迎えに来たのよ」
実家に二人で泊ったことは何度もあるけれど、その度に両親がはりきってしまって、私達の帰宅後は疲れているのが目に見えているのだ。
二人とも、絶対に認めないだろうけど。
「あらそうなの?遠慮しなくていいのに」
大和君はとっても良い子だから。
母は大和に笑いかけた。
その姿は本物の祖母と孫にしか見えなくて、私は胸がきゅっと締まる気がした。
「…ところでお父さんは?」
「あの人ときたら、お風呂で大和君と思い切り遊んだみたいで、あがったらご機嫌にビール飲んだりして、もう夢の中よ」
「無理させた?」
「まさか。すっごく楽しかったって、お祖父ちゃん言ってたわよねえ?」
母は大和に目配せして、大和も「うん!ぼくも楽しかった!」と大喜びを見せた。
「そう?それならよかった。じゃあお母さん、もう行くわね。今日はありがとう。お父さんにもよろしく言っておいて」
「気を付けてね。大和君、またおいでね。今度は大和君の大好きなファンディーに会わせてね」
「うん!またね!」
”ファンディー” と聞いて、駅で待たせてる蓮君の顔が浮かぶ。
どうやら大和は母にファンディーのことを話して聞かせていたようだけど、もしかしたら蓮君もそこに登場したのだろうか?
今やファンディーよりも大和の人気を得ている蓮君。
その蓮君が駅で待っていると知ったら、大和はどんな顔をするだろうな。
そんな想像をしながら大和の手を引く私は、胸にあたたかいものが流れ込んでくるのを感じていた。
「あー!レンお兄ちゃんだ!」
予想通り、蓮君を見つけた大和は驚きと歓喜の声をあげて駆け出した。
「だめよ、大和。走らないの!」
私の注意が届くよりも早く、蓮君がしゃがんで大和を抱き止めてくれる。
「大和君、こんばんは」
「こんばんは!レンお兄ちゃん」
二人ともにこにこ顔で、私まで頬がゆるんでしまいそうだ。
本当に大和は蓮君が大好きで、蓮君もまた大和を好きでいてくれている様子がそのまま描かれたような光景だった。
ただ私は、それを素直に嬉しいと思いながらも、頭の片隅、心のどこかでは、大和と蓮君が近付きすぎることに複雑でもあった。
これ以上親しくなって、その関係を維持できなくなった時、大和が傷付いてしまうかもしれない……
その懸念は何度も浮かんでは沈み、また浮かんで…を繰り返していたのだ。
関係を維持できなくなる――――そのきっかけはいつ訪れてもおかしくない。
私は、私の中に入り込んでくる蓮君の存在が、この頃では、少しだけ怖くなりつつあった。
実家から自宅は二駅なので、大和も起きていることだし、私達は電車を使うことにした。
駅はわりと混んでいて、はぐれないようにしっかり大和の手を握る。
大和の反対側の手は蓮君と結ばれており、大和は上機嫌で両手を揺らしていた。
途中、喉が渇いたと言う大和のために、私は駅構内のコンビニに立ち寄った。
蓮君には大和と先にホームに行って乗車の列に並んでもらっていたのだけど、私が戻ると、二人がこちらを見て何やらコソコソしていた。
フフフフと笑いを堪えきれないといった感じだ。
「……どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ!」
「ナイショだよね?大和君?」
「ねー?ないしょないしょ」
大和は可愛らしく両手を唇に当てて、絶対に言わないぞと仕草で訴えてくる。
蓮君も同様に、人差し指を立てて秘密だよねと大和と目を通い合わせて。
「なになに?私には教えてくれないの?」
大和にペットボトルのお茶を手渡しながらも、内心では落ち着かない。
大和に関しては、大和の実の母親で私の親友である理恵の次に、私が何でも知っているはずなのに。知っているべきなのに。
それは保護者としての自負なのだろうけど、俯瞰で思い返すと、幼稚園の子供達はしょっちゅう『ママにはないしょね』『先生、パパに言っちゃだめだからね』といった、可愛らしい小花のような秘密をあちこちで咲かしている。
教職員達はその小さな花々が可愛くて仕方ないけれど、保護者の方にしてみれば面白くないと感じられるかもしれない。
だが、それらの小花はたくさん集まると、やがて大輪の花となって大好きなパパやママのもとに届けられるかもしれないのだ。
実際、私はそういうシーンを何度も目にしてきたのだから。
けれど、大和と暮らしはじめてまだ一年の保護者初心者の私は、相手が蓮君だということもあってか、心中穏やかなままではいられなかった。
どうしても気になってしまったのだ。
それは、電車に乗り込んでからも変わらなかった。
電車内ではどうにか座れたものの、大和はそこで電池切れとなってしまい、こっくりこっくりと眠りに吸い込まれていった。
駅に着いてからは蓮君が大和を背負ってくれることになり、広い背中で、大和は心から気持ちよさうな寝顔だった。
最寄駅から自宅マンションまでは少し歩くけれどタクシーをお願いするにしては近すぎて申し訳なかったので、今夜は蓮君が一緒で助かった。
蓮君の肩口にもたれかかり、ムニャ…と口角を動かす大和は、もう完全に夢の住人だろう。
こちらの声も聞こえていないはずだ。
私は駅のロータリーから出る横断歩道で、蓮君に問いかけた。
「さっき、大和と何の話で笑ってたの?」
蓮君は大和をよいしょと背負い直し、「ああ、さっきのですか?」ととぼけた風に返した。
「大和が、私のこと何か言ってたの?」
「いえ、そうじゃないです。あ、いやでも……そうじゃないこともないのか」
愉快そうに背中を見やった蓮君。
「…どっちなの?」
蓮君につられて私もつい笑ってしまう。
そこまで遅い時間でもないし、人通りもあるのに、私達の辺りはほのかに静寂が流れていて、だからよけいに笑い声が響いた。
「大和君、琴子さんが大好きだって言ってましたよ?」
笑いながら言われて、ドキリとする。
「……そう、大和がそう言ってたんだ……」
自分自身をはぐらかすように、私は蓮君の視線から逃げて大和の頭をそっと撫でた。
「大和君、本当にいい子ですよね?」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
「いつもにこにこしてて可愛いし。俺、疲れてても大和君の笑顔を思い出したら元気になるんですよね」
「私もよ。親バカだと思われるかもしれないけど」
「そんなこと思いませんよ」
蓮君はそこでふっと言葉を休ませ、その輪郭を整えた。
「さっき………駅で琴子さんを待ってる時ですけど」
「うん」
「俺達の横を通りかかった女性が、”りえ” って呼ばれてたんです」
「理恵……。そう……」
「そうしたら大和君が『ぼくのお母さんと同じ名前だ!』って教えてくれて、そこからちょっとだけ大和君のお母さんの話をしてくれました」
「そうだったの……」
大和が明るくおしゃべりする姿が容易く想像できる。
だけど蓮君は若干言いにくそうな控えめな口調になった。
「あの、伺ってもいいですか?」
「大和の母親のこと?」
「ええ、まあ…」
この流れで蓮君が何を訊きたいのかは察しがつく。
「大和は、まだ母親の死を理解していないわ」
蓮君が疑問に感じたのはおそらくこのことだろう。
彼だけでなく、大和とある程度接する時間があった人は、大抵同じことを尋ねてくるから。
「ああ、やっぱりそうなんですね」
腑に落ちたと表情で語る蓮君に、私は最初に言っておけばよかったのかもしれないわねと詫びた。
「大和のまわりにいる大人はみんな優しい人ばかりで、大和を傷付けるようなことを言わないの。母親のことも適当に話を合わせてくれて……。だから、蓮君もきっと大丈夫だろうって思ったの。実際、大丈夫だった。蓮君は大和の話を否定せずに聞いてくれたのでしょう?」
「ただ『うん、うん』って頷いてただけですけど」
「じゅうぶんよ。たまに意地悪な人もいて、子供でも現実を見せなきゃいけないとか勝手に正義感を押し付けてくるの。もちろんそういう人は二度と会わないようにしてるんだけどね」
「どうしようもない人間がいるんですね」
「世の中には色んな人がいるからね」
そこで会話のテンポが落とされて、道端の自動販売機がヴーンと唸っているのが聞こえた。
「……大和君のお母さんは、琴子さんの親友だったんですよね?」
「そうよ?大和から聞いたの?」
「はい。一番仲良しの友達だったって……」
「大和らしい言い方ね」
理恵が聞いたら満面の笑みになりそうだ。
「あの、その……、踏み込み過ぎてたらすみません、大和君のお母さんのお墓とかは、どうしてるんですか?」
「ないわ」
「え?」
「お墓はないの。大和の母親は、子供の頃に両親を亡くしてて、親戚もいなかったから、18までは施設で育ったの。だから自分に何かあった場合はこうしてほしいああしてほしいって遺言を書いてて、そこに、自分の遺骨のことも指示してあった。それに従って、今彼女の遺骨は彼女が18まで暮らしてた施設で手元供養として置かれているの。あと何年かして、大和が母親のことを理解できるようになった時、改めて一緒に彼女に会いに行くつもりよ」
大和も知らない理恵のこと、不思議と蓮君にはすらすら打ち明けられていた。




