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「それは否定しません」
断言した時生君も、不機嫌な色が浮かんでいる。
隣の蓮君は私に体ごと向けて、心配そうに瞳を揺らした。
「ということは、琴子さんも明莉に騙されたんですか?何て言われたんですか?」
「それは…」
ここまでくると、さすがに隠しても隠さずとも差はないかもしれない。
私はちらりと斜め前、和倉さんの隣に座る時生君を掠め見てからおずおずと答えた。
「時生君が……」
「俺、ですか?」
「そう。時生君が、私に会って以来何か悩んでるようだから、話を聞いてあげてほしいと……」
「あいつ…」
時生君はテーブルの上で手の指を絡ませてぐっと力をこめた。
それは怒りの感情にも見えるけど、何かを堪えているサインのようにも思えた。
「あいつは俺の名前を使って他にも何か言ってませんでしたか?」
「え?あ…他には特に…」
「そうですか」
ホッと、少し指先から感情を退かせた時生君に、和倉さんは「佐藤君には心当たりがありそうだね」と横目で一瞥した。
それには蓮君も続く。
「そうなのか?時生」
「……琴子せ、…さんのことを、明莉に話したことはあります。でも悩んでるとかそんな話題は一切なかったし、第一もし俺が本当に琴子さんに用があったら自分で連絡します。―――琴子さん」
「はい……?」
急に話題の矛先を曲げられて、私は反射的に敬語がこぼれ出てしまった。
時生君が元教え子のお兄さんだったと判明してからは、蓮君と時生君に対してはほとんど敬語が抜けていたのに。
「今後、もし明莉から俺のことで何か言われても、信じないでください」
「はい、わか…ったわ」
言葉尻に迷ったのは、敬語に戻るのを避けたかったためだ。
蓮君はともかく、時生君に敬語というのはなんだか違和感があったから。
「それと、また同じようなことがないとは言い切れませんから、俺と連絡先の交換していただけますか?」
「それはもちろん」
「よかった。じゃあ…」
時生君はスマホを取り出し、私も迷いなく応じた。
テーブル上ををクロスする形で連絡先交換中、和倉さんが「なかなか手強いね」とひとり言のように囁くのが聞こえた。
何を評したものなのかは思いつかなかったけれど、それに対し蓮君が「承知してます」と返していたので、二人には通じるものがあったのだろうか。
だが二人の間にそれ以上の会話はなく、私達が交換を終えると、和倉さんはボリュームを上げて告げたのだ。誰へというわけでもなく。
「今日みたいなことは、これっきりにしてもらいたいものだね」
和倉さんが浮かべている微笑の真偽はわからない。
それに、”今日みたいなこと” の大本となる明莉さんに関しては、私はどうすることもできない。
そんな考えが過ったからか、私は無意識のうちに蓮君を見上げていた。
目が合うと、彼からは小さな頷きがあった。
「お二人にはご迷惑おかけしました」
「あいつにはきつく言っておきます」
蓮君、時生君が揃って頭を下げると、和倉さんはパンッと手のひらを打ち、「じゃあ、この話はここまで。さ、美味しいご飯を食べようじゃないか」と満面の笑みを見せたのだった。
そのあと、四人になった会食は和やかに進み、やがて終宴となった。
普通に考えれば私と和倉さんは同じマンションに住んでるのだから、一緒に帰路に就く流れになるところだけど、今日は大和を迎えに実家に寄る必要があるのだ。
和倉さんはそれも含めて一緒に帰ろうと申し出てくれたけれど、蓮君がどうしてもその役を譲らなかった。
二度ほどのラリーののち、和倉さんが「じゃあ頼んだよ」と蓮君の肩を叩いたのである。
別れ際、時生君からは「もし明莉からまた電話があったら、すぐに俺に知らせてください」と念押しされ、私も了承した。
明莉さんの思惑がどこにあったのか定かではないものの、今日の蓮君と時生君の様子を窺う限りは、もう明莉さんから何か企てられることはなさそうな気もするけれど。
でも時生君を安心させるためにも、それは伝えずにただ頷くのみにとどめたのだった。
◇
「今日は本当に、すみませんでした」
二人になり、私の実家に急ぐためタクシーに乗り込み、少し走ったところで蓮君が改めて頭を垂れた。
「もういいよ、本当に。それに蓮君のせいじゃないし」
「でも大和君をわざわざご実家に預けたりして、ご迷惑おかけしましたから。俺が原因の一つなのは、たぶん間違いないと思います」
「ひょっとして明莉さんのこと?だとしても、蓮君には不可抗力じゃない。だからもうそれ以上は謝らないで?」
蓮君が責任を感じるのも仕方ないかもしれないけど、過剰な謝罪は無用だ。
ところが蓮君は静かに首を振ってみせた。
「明莉がお二人を騙して店で会わせたのは、俺に二人の仲の良さを見せつけるためだったんです。大切にしてる大和君を人に預けてまで二人きりで会ってるんだから、よほど親密なんだろうねと、意味深な言い方で俺に知らせてきましたから」
「もしそうだとしても、蓮君がそれを止めることはできなかったでしょう?」
恋する者は時に浅慮にもなるから。
それは誰にでも覚えのある記憶だろう。
それでも蓮君は首を垂れたままだった。
「いえ……。俺がもっとちゃんと対処してたら、止めることはできたかもしれません」
「そうかしら?でも……とにかく、止められたにせよ無理だったにせよ、私は蓮君にそれ以上謝ってほしくないの。だからもう顔を上げて?」
言うと、蓮君はどうにか聞き入れてくれた。
そしてすいっと私に視線を流した、かと思えば、また逸らしたりしながら話しはじめた。
「俺は……、いろいろ周りのことを見たり考えたりしてるうちに、大切な決断や決定をついつい後回しにしがちなんですよね。詰めが甘いとも、時々言われます。白黒つけなくてもまあわかるからいいか…って思ってしまう。でも、自分のことだけならそれで構わないけど、自分以外の相手が絡んでくることについては、そんなんじゃだめなんですよね。……わかってるつもりだったんですけど……」
抽象的にも聞こえる話は、おおよその内容を今回の件と組み合わせると、彼の言いたいことに辿り着ける。
その自己反省を否定するつもりはないけど、彼のあまりにも凄すぎる人気を考えれば、そうやって決着つけず曖昧で据え置くのも、一種の防衛本能ともとれるのではないだろうか。
私は蓮君をそう擁護しようとしたものの、絶妙のタイミングできっぱりと言い切られてしまう。
「近いうちに、明莉と話してみます」
「そう……」
それしか返す言葉がなかった。
だって、それは蓮君と明莉さん、二人だけの問題なのだから。
私は完全に部外者で、それについて発言権は持ち合わせていない。
タクシーの車内、じとりとした重たい空気が広がりかけたその時、蓮君が再び口を開いた。
「琴子さん、俺…」
けれど今度は絶妙に間の悪いタイミングで、タクシーが目的地に着いてしまったのだった。
誤字報告いただきありがとうございました。
訂正させていただきました。




