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大した事ない、どこにでも転がってるような他愛ない会話なのに、その質問にはビクリと肩が反応してしまった。
好きな人……と言われて、私が今一番に思いつくのは、いったい誰なのだろう?
瞬時にそんな自問自答が過り、心が構えてしまったのだ。
蓮君に対し、好意は持っている。
でも、それがここで和倉さんが言うところの ”好きな人” に当てはまるものなのかはわからない。
それを言うなら、目の前の和倉さんに対してだって好意を持ってるのだから。
そもそも、大和と生きていく人生を選んだ時に今後恋愛はしないと決めたのだ。その決意がたった一年で変わってしまったなんて思いたくはない。
だったら、私が今、恋愛の面で最も心を大きく割いてる人物は……考えたくはないけれど、もしかしたらそれは……
思い出したくもない人の影が頭に浮かんできてしまい、私は小さく頭を振った。
その人物が、私の最後の恋愛相手、最後に好きになった人だったからだ。
「琴子ちゃん?大丈夫?」
飄々としながらもきちんと紳士的である和倉さんは、私の顔色を心配そうに窺い少し身を屈めた。
そしてじっと見据えながら言ったのだ。
「言いたくなかったら言わないでいいよ。でももしかして、琴子ちゃんは、過去に恋愛事で何かあったのかい?」
「え……」
「だっていくら大和君のことで忙しいからといっても、あんな風にわかりやすい態度を取ってくる北浦君に対してちょっと平坦すぎるように感じるんだよね。それも、無理やりそんな接し方を心掛けてるようにも見えるし。そりゃ好みはあるだろうけど、あんなイケメンで性格もいい人気者に近寄って来られたら、普通はそれなりの反応をしそうなものだと思うんだよね。なのにそうならないということは、他に好きな人がいるか、それとも誰とも恋愛したくないのか……。踏み込み過ぎてたら、ごめんね」
いきなり図星を指された私は、ぎょっとして和倉さんを見返してしまった。
頬がジンジンと強張っていき、喉の中は水分が消失してしまうようにヒリリとする。
ここ数年、素知らぬ振りという大人スキルを磨いてきたつもりだったけど、この件に関してはその努力も無効になってしまうようだ。
私は自分でも想像できるほどに無防備な表情のくせして、それでも和倉さんに自分の事情や過去を打ち明けるつもりもなくて、大慌てで首を振った。
「そ…いえ、全然。全然そんなことないですよ?」
部屋の中におかしな明るさの否定を響かせると、和倉さんは観察するように私に縛りつけていた視線の縄を解いた。
「まあ、答えたくなかったら別にいいんだよ。だけどもし、琴子ちゃんが過去に何か傷ついたり嫌な思いをして、それがまだ癒えてないから恋愛に足を踏み出せないっていうなら、それは俺がどうにかしてあげたいなと思ったんだよ。ま、俺にどうこうできるかどうかは別問題だし、琴子ちゃんにとったらただのお節介なんだろうけど」
和倉さんはひょいっと肩を竦めて、またグラスに手を伸ばす。
「………だってもしそうだとしたら、そんなの寂しいじゃないか。過去に囚われてるなんてさ」
いつもの和倉さんらしい物言いだけど、横向いてグラスに口を付ける仕草からは、どことなくいつもの和倉さんらしくない雰囲気が滲み出ていた。
すると私は妙に申し訳なさが湧き上がってきて。
「あの、和倉さん…」
「うん?」
私は大丈夫ですから。大和のことで手一杯で、恋愛に時間をかける余裕がないだけで……
そう言い訳しようとした矢先、私の鞄からヴヴヴ、とスマホの振動がけたたましく聞こえてくる。
時間も時間で、仕事でも心当たりがないとくれば、大和を預けている実家からの連絡が最も可能性が高い。
私は和倉さんに「すみません」と断り、すぐに確認した。
だがそこにあった名前は、蓮君だったのだ。
「蓮君…?」
「北浦君からかい?それならすぐ出てあげなよ」
促されるままにスマホを耳に当てた瞬間、
《琴子さん?どこの個室にいますか?》
今までに聞いたことがないほどの蓮君の焦り声が鼓膜を大きく揺らしたのだった。
「え?蓮君こそ、今どこに…」
《いいから早く教えて。もう店に…今着いたから。できたら個室から出てきてくれませんか?》
蓮君の向こう側では、時生君の声も聞こえた。
どうやらスタッフと思しき女性と話しているようだ。
和倉さんも蓮君の声が漏れ聞こえたのだろう、私達はどちらからともなく席を立った。
そして扉を開き廊下に顔を覗かせると、
「《琴子さん!》」
電話越しと直に耳に、両方から蓮君に呼びかけられたのである。
彼は大きなバッグを肩から掛けていて、見るからに汗をかいている。
そのすぐ後ろには時生君もいて、彼も同じように一泊程度の旅行荷物なら余裕で詰められそうなバッグを持っていた。
彼の涼やかな面差しにも、うっすらと透明の粒が張り付いている。
二人の荷物や様子を見るに、同じところからこの店に駆け付けたのだろうことは想像に難くない。
ただ、なぜそんなに急いでここに来たのか、その理由はわからなかった。
「蓮君、どうしたの?時生君も」
数時間前、明莉さんと電話した時、確かに蓮君は明莉さんのそばにいたのに。
もし明莉さんからこの店のことを聞き出したのだとしたら、その明莉さんはどうしたのだろう。
電話を切りながら不思議顔を隠さずに告げると、二人は私を通り過ぎて後ろにいる和倉さんを見やり、揃って体から力を抜いたようだった。
「なんだ、和倉さんだったのか……」
蓮君の安堵いっぱいの呟きに続き、時生君からは無言のため息が吐き出される。
「俺が、何だい?」
和倉さんも訝しげに二人を見たけれど、その答えを既に思い当たっているような目つきにも感じた。
「ま、とにかく入りなよ。北浦君と佐藤君も一緒に――」
「お二人は付き合ってらっしゃるのですか?」
個室に案内しようとした和倉さんを遮ったのは、低く這うような時生君の声だった。
前触れもないあまりにダイレクトな訊き方に面食らってしまったのは私だけではなかった。
「俺と琴子ちゃんが?」
「和倉さんと私が…?」
問い返すセリフが重なった直後、顔を見合わせ、思わず苦笑いをこぼすのも同時だった。
「私達はそういう関係じゃないわ」
「残念ながら、俺にはこんなに可愛い恋人はいないよ。それより、そんなことを君達に吹き込んだのは山田さんかな?」
苦笑がクスクス笑いになった和倉さんは返事を待つことはなく、ちょうど通りかかったスタッフに二名追加する旨を伝え、身を翻して個室に戻った。
仕事の早いスタッフにより二人の席が整えられると、真っ先に蓮君が私の隣を選び、確認してきた。
「琴子さん、和倉さんとは本当に付き合ってないんですよね?」
「なんだい北浦君、俺には訊いてくれないのかい?」
「慌てるな、蓮。俺達は明莉に一杯食わされたんだ」
時生君の言葉には既視感を覚えた。
だがすぐに理解に及ばなかった私と違い、蓮君も薄々は勘付いていたようだ。
「明莉のやつ……」と僅かばかりに憎らしげに吐き出した。
「いったい山田さんに何て言われてここに来たんだい?」
今度は蓮君と時生君が顔を見合う番だった。代表して蓮君が答える。
「……明莉の知り合いの男が琴子さんとデートすると言ってた、だから琴子さんは今夜、どこかに大和君を預けてそいつと二人で会ってるはずだ…って」
「ふうん、デート、ねえ……まあ、二人きりで会ってたんだから、デートと言えなくもないけど」
「和倉さん」
「おっと、君までそんな怖い顔しないでくれよ、佐藤君」
軽妙な口ぶりの和倉さんに反し、蓮君と時生君にはシリアスの種が燻っているようにも見えた。
「……お二人の関係についてはわかりました。信じます。でもそれじゃ、どうして琴子さんが和倉さんと会ってるのを明莉は知ってたんですか?」
「それは…」
明莉さんに時生君の名前を使って呼び出されたと事実を言っていいものか逡巡する。
どう説明したって、告げ口にしか聞こえないかもしれない。
だけど和倉さんの方は、優しそうに微笑みながらも、私のような躊躇いは見せなかった。
「俺達も山田さんに騙されたんだよ。前からそんな気はしてたけど、どうやら彼女は自分の望みに従順なタイプみたいだよね」
穏やかな音吐の端々に踊るのは他ならぬ不快感だった。




