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「以前、お会いしたことがありましたか?」
驚きを隠さずに尋ねた私を、佐藤さんはささやかに笑った。
「実は、少し……。ですが覚えておられなくても仕方ありませんよ。もう十年以上も前のことですから」
「十年以上?……というと、佐藤さんは…」
「俺が中学生の頃ですね」
十年前、私はもう幼稚園教諭として働いていたけれど、勤務先は今の園とは違っていた。
当時のことを思い返していると、ふと、”佐藤” という名前が浮かびあがる。
佐藤、佐藤 時生……時…
そして、一人の園児に思い当たった。
「……あの、もしかして佐藤さんて、弟さんがいらっしゃいますか?佐藤 時也君」
名前も似てるし年代的にも当てはまるものがあるけど、絶対の確信があったわけではないので恐々伺う。
すると、今度はふわりとした笑みが佐藤さんからは返ってきた。
「思い出していただけましたか」
嬉しそうな佐藤さんに、私の記憶の中にある少年の面影を見つけた。
一度思い出してしまえば、そこからは数珠繋ぎのようにいくつもの会話ややり取りが蘇ってきて……
「―――思い出したわ。”時也君のお兄ちゃん” 」
「懐かしい呼び方ですね」
どこか照れたようにも見えてしまう佐藤さん。
さっきまでの ”口数の少ないクールでかっこいいファンダックのダンサー” という印象が ”弟の面倒をよく見ていた優しいお兄ちゃん” へと、真っ向から覆ってしまう。
「本当に?すごい偶然。本当に時也君のお兄ちゃんなの?」
言葉遣いもすっかり飛んでしまうほどに、私は懐かしさやら驚きやらでちょっとした混乱状態だ。
「ええ、本当ですよ。蓮からお名前を伺った時に、もしやとは思ったんですが、今日ちゃんとお顔を拝見して、間違いないと思いました。あなたはあの頃と全然変わっておられませんね、琴子先生」
「そんなことないと思うけど、でも、時也君のお兄ちゃんは…ええと、佐藤さんは、すっごく変わったわね。そりゃ、あの時は中学生だったわけだから当たり前なんだけど、すごく大きくなって、かっこよくなって、それから……」
私は目の前の長身の彼をまっすぐに見上げて、胸に熱いものを感じた。
「それから、夢を叶えたんだね。おめでとう!」
熱いものは胸に留まることなく、私の目頭さえもツンとあたたかくさせる。
けれど膝の上で寝息をたてる大和の存在が、涙腺をきゅっと強くしめてきた。
「それも覚えててくださったんですね」
「当り前じゃない」
「俺がダンサーになるという夢を叶えられたのは、あなたのおかげです。琴子先生」
「もしかしてあの日のことを言ってるの?だったら、それは違うわよ。私はちょっと励ましただけ。時也君のお兄ちゃんが…その、佐藤さんが落ち込んでいたから」
ついつい当時の呼び方が出てしまい、苦笑いで誤魔化そうとするも、佐藤さんからは「もしよろしかったら ”時生” とお呼びください」と気を遣われたのだった。
あの頃、時々弟の時也君のお迎えに来ていた彼のことを、職員は皆 ”時也君のお兄ちゃん” と呼んでいた。
これは、互いに接する時間や回数がそこまで多くはなかったせいもあるし、彼もあまり職員と話をしたがるタイプでもなかったので、適度な距離を置こうと大人側が配慮した結果である。
中学校の制服に身を包んでおしゃべりもせず丁寧な挨拶だけを告げて弟を迎えに来ていた少年を、職員は ”いいお兄ちゃん” だと口々に褒めていた。
私も何度か言葉を交わし、無口だけど弟の時也君に向ける表情は柔らかく、動作が俊敏とは言えない弟を嫌がる素振りもなく、思春期にありがちな難しさもあまり見受けられなかった。
彼ら以外にも時々歳の離れた兄姉が迎えにくるケースはあったけれど、その子達よりもずっと大人びているように感じていた。
だからこそ、ある日、お迎えに来た ”時也君のお兄ちゃん” の様子が沈んでいたのが、妙に気になってしまったのだ。
その日、時也君は延長保育で最後のお迎えだった。
早上がりだった私が着替えて帰るのと、時也君のお兄ちゃんがお迎えに来た時間が重なったので、なんとなく、一緒に園を後にした。
正直に言うと、その時、彼の様子がいつもと違うなと気になったのは、何も彼を心配したからではなくて、時也君のことがあったからだった。
ご両親はお仕事が忙しいと聞いていたし、これでもしお兄ちゃんに何かあったら時也君にも影響が出てくるかもしれないと不安視したからだ。
つまり園児を守りたい一心で、私は、さりげなく、彼に何かあったのかと尋ねてみた。
するとよほど一杯一杯だったのか、意外にも彼は素直に悩みを打ち明けてくれた。
ダンスが好きで、将来はそれを仕事にしたいと思ってるけど、親に反対されてるし、コンテストに出たら自分よりももっと上手い人がたくさんいて自信がなくなった……と。
私はそれを聞いて、思わずホッとしてしまったのを覚えている。
中学生の彼にとったらとてつもない悩みに違いないのだろうけど、私からしたら、とても健全な悩みにしか思えなかったからだ。
『ダンス、好きなの?』
『はい』
『すごいね。私、ちっとも踊れないよ』
『でも好きなだけじゃどうしようもないから…』
好きなだけじゃどうしようもない―――
ずいぶん年下の少年のそのセリフが、当時の私の胸を容赦なく抉ってきたのも、鮮明に記憶に刻まれていた。
当時私は社会人一年生で、自分の体に起こった変化にも、それによって失った恋の傷跡にも、まだまだ慣れてはいなかったのだ。
『……そうだね。好きだけじゃ、どうしようもないかもしれないね』
『うん…』
『でも……、でもさ、可能性はゼロじゃないよ?』
『え?』
『ほら、ええと、例えば…子供達に読み聞かせする絵本に出てきそうな、ダンスしたら死んじゃう呪いにかけられたり、ダンスを諦めなきゃ一生獣の姿でいる魔法にかかってるわけじゃないんだから』
『は?』
『だから、とにかく、きみはダンスを禁じられたわけじゃないんでしょ?まだ中学生だし、ご両親を説得する時間も、他の人より上手くなる為に練習する時間も、たっぷりあるわけだから。そこはまだ、ラッキーじゃない?』
『ラッキー…ですか?』
躍起になって説く私と、ぽかんと訊き返してくる彼。
ちぐはぐな会話はもう少し続いた。
『まあ、関係ない私なんかに言われたくもないだろうけど、んー、ほら、世の中にはさ、いきなりピシッて目の前でエンドの線を引かれちゃうこともあるのよ。予告なしで、突然、はい終わりって線を引かれちゃうの』
もう一つ、正直に打ち明けてしまうと、私が彼にこんな話をしたのは、彼を励ましたり慰めるのが目的ではなく、ちょっとだけ、苛立っていたからだ。
あの頃はまだ私も若くて、自分の身に起こったことに納得もいってなかった。
何の仕事に就くにせよ、いつか好きな人と結婚して、子供を産んで、家族で仲良く暮らして……そんなどこにでもあるような穏やかな幸せが私に訪れる可能性がゼロになってしまったことが、悔しくて悲しくて、辛かった。
なのにこの少年は、可能性も時間もまだまだ残しているというのに、ちょっと高い波がやってきたからといってこんなに落ち込んでいるのだ。
それが、無性に苛々してしまった。
いわゆる、ただの八つ当たりである。
でもそうとわかっていても、可能性があるくせにこんな風に嘆きに時間を費やすなんてもったいない、その思いが高まってきたのだった。
『実はね、私は何年か前にその線を引かれちゃったの』
『え?琴子先生が…ですか?』
『そうよ?もう目の前でバサッと。で、その時に思い描いていた夢とか、将来とか、全部可能性がゼロになっちゃったの』
『ゼロ……』
『だから、これは年上のお節介な話として聞いてほしいんだけど、可能性がゼロにならない限りは、その時その時でやれることを探して、ちょっとでも夢に近付いてほしいな……って。だって、いきなり終了の線を引かれることもあるんだから、今日できたことが明日もできるとは限らないじゃない?だったら、落ち込むのはほんの少しだけにして、あとの時間を夢のために使った方がもったいなくないでしょ?』
『もったいなくない……』
彼は復唱したあと、フッとふき出した。
私の言いまわしがおかしかったのか何なのか、その理由は今でも定かではない。
だけど、隣から感じていた硬い空気は霧散していて、彼は『それもそうですね。悩む暇があったら上手くなるように練習すべきだ』と納得顔をになった。
まだ中学生なのにその顔つきは達観してるようにも見えて、いつも以上に大人びて見えたものだ。
そのあとまだしばらく会話は続いたと思うが、その先の内容はほとんど覚えていない。
おそらく私の中で、彼にこの表情をさせられたことで満足したのだろう。
『琴子先生、ありがとうございました』
別れ際、彼は礼儀正しく頭を下げた。
手を繋いでる時也君も一緒にお辞儀したりして、可愛らしい兄弟だ。
『私は何もしてないわよ?ただおしゃべりしながら一緒に帰っただけ』
『今日、あなたと話せてよかったです』
『私も話せてよかったわ。いつか、ダンス見せてね』
手を振りながら言った私に、彼は照れ臭そうに頭を掻いていた。
その時の姿はどこからどう見ても年相応の中学生の少年にしか見えなくて、普段大人びていてもやっぱりまだまだ子供なのだと再認識した私は、そんな相手に八つ当たりなんかして大人げなかったと反省しながら帰路についたのだった。
あれから、もう十年以上……
その翌年に時也君は卒園し、以降は私も勤務先が変わったりして、二人に会うことはなかったけれど。
「でも、本当にすごいよ。頑張ったんだね。夢が叶ってよかったね、時生君」
なんだか、自分のことのように嬉しかった。




