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翌週、とある広告の最終オーディションを控えていた俺は、その日の夜に秋山さんに連絡することに決めた。
迎えた当日、めでたくオーディションに受かり、まず会社に報告の電話を入れた。今後のスケジュール調整が必要になってくるからだ。
そしてその後家に戻るのも待ちきれずに、秋山さんに電話をかけた。
時刻は午後8時過ぎ。
何の仕事をしてるのかは聞いてなかったが、小さなお子さんを育ててるのだから、さすがにもう帰って、大和君と夕食をとり終えてるだろう。
今の時間帯なら、まだ大和君も寝る前で、もしかしたら彼とも話せるかもしれない。
そんな算段があったのも事実だ。
オーディション会場だった貸しスタジオから駅までの途中、なるべく騒がしくない路地裏を見つけて、はじめての電話をかける。
数コールののち、《はい…》と、どこか恐る恐るといった秋山さんの声が聞こえたときは、小さくガッツポーズをとってしまった。
ひとまずは、電話に出てもらえた。
それだけでもこんな風に嬉しいのだから、自分で思ってた以上に彼女に気持ちが引き寄せられているのだろう。
「あの、俺、北浦 蓮です。ファンダックのダンサーの。……わかりますか?」
きっと覚えてくれてるはずだと信じていたが、念の為、控えめに名乗った。
だが電話の向こうからは《もちろんです》と、即答が返ってきたのだ。
「あ、今って電話しても大丈夫でしたか?」
《はい。ちょうど大和の歯磨きが終わったところでしたから》
「よかった。寝る前に間に合ったんですね。大和君は今そこにいるんですか?」
《今隣の和室で着替えてます。代わりましょうか?》
「ああ、いいえ、着替えの邪魔をしちゃいけないので……。でも、あとで声が聞けたら嬉しいですけど」
《じゃあ着替え終わったら代わりますね》
「ありがとうございます。それで、この前言ってた、大和君のお誕生日祝いをさせてほしいって話ですけど……」
大和君の話題になって秋山さんの声が柔らかく、近くなってきたところだったが、”お誕生祝い” を持ち出したとたん、《そんな、気になさらないでください》と一気に距離ができてしまった。
《お気持ちだけでじゅうぶんです。大和はファンダックでもたくさんの方から『おめでとう』と声をかけられて、とても喜んでましたから》
「でもあの日は俺のせいであんなことになってしまいましたし、大和君も泣かせてしまったわけですから、どうしても俺自身が大和君に個人的に何かしたいんです」
《ですが…》
なおも遠慮を匂わせた秋山さんだったが、その後ろで大和君の声が聞こえた。
《大和、ちょっと待っててね。あとで大和もお話しできるから》
何て言ってるのかまでは聞き取れないものの、雰囲気からして、大和君は電話に出たがったのだろうか。
《すみません、大和に王子様のお兄さんからだって教えたら、興奮しちゃって……》
「だったら、大和君に代わってください。一度話したら落ち着くかもしれませんし」
《そうですね…それじゃあ……》
秋山さんは何も疑わず俺の提案にすんなり乗ってくれたが、俺はこれ幸いと、大和君を味方に引き入れるつもりだったのだ。
間もなく《もしもし?レンお兄ちゃん?》と、可愛らしい声が聞こえてくる。
初登場の呼び方に、おっ、と気分が上がった。
「もしもし。大和君、こんばんは」
《こんばんは》
「レンお兄ちゃんって呼んでくれるんだね」
《うん!わくらさんがそう言ってたよ》
「そっか。ありがとう。嬉しいよ」
《どういたまして!》
舌たらずのせいか、言い間違いなのか、とにかく大和君の可愛らしさが全力で俺を包囲していくようだった。
おかげで俺は笑い出したいのを堪えなければならなかった。
「ところで大和君、前に、大和君のお誕生日のお祝いをしようって言ってたの、覚えてるかい?」
《うん!おぼえてるよ》
「もし大和君がよければ、一緒にファンダックに行って、そこで何か大和君が欲しいと思った物をお誕生日プレゼントにする…というのはどうかな?」
比較的長めのセンテンスだったせいで、大和君は黙って少し考えるような間を置いた。
そして
《…じゃあ、ぼく、またファンダックに行けるの?こんどはレンお兄ちゃんもいっしょ?》
まだ完全には理解できてないような感じに、本当に?と確認してきた大和君。
俺はそれを聞いた秋山さんが大和君に何かを伝える前にと、急いで話をまとめにかかる。
「そうだよ?僕がお休みの日だったら、大和君と一緒にファンダックに行けるからね。僕はファンダックのことをよく知ってるから、大和君と…”琴ちゃん” を案内してあげられるよ?どうかな?」
”琴ちゃん” と、秋山さんのことを大和君の呼び方に合わせるだけで、ちょっとドキリとしてしまう。
まるで学生の頃に戻ったような初々しさだなと思ったが、恋愛はいくら経験を重ねてもそのはじまりは毎回初心に戻るものだと、誰かが言ってた気もした。
《本当に?本当にレンお兄ちゃんがファンダックをあんないしてくれるの?》
「ああ。もちろんだよ」
《わぁい!やったぁ!》
大和君はすぐに大喜びの反応を聞かせてくれたが、やはり、その後ろからは秋山さんの注意するような声が混ざってきた。
《……よ。大和、代わって?》
《ええ、やだ、もっとレンお兄ちゃんとおはなししたいのに》
《大和》
大和君の可愛らしい抵抗にも揺るがず、秋山さんは短くも強く名前を呼びかけるだけで窘めた。
《はあい……。レンお兄ちゃん、琴ちゃんに代わるね》
しゅんと勢いを削がれた大和君が気の毒で、俺は畳み掛けるように一方的に約束を告げた。
「わかった。じゃあ大和君、今度一緒にファンダックに行こうね。何が欲しいか、その日までに何個か考えておいてね」
《うんっ!わかった!じゃあね、ばいばい!》
元気が回復した大和君に代わって、《もしもし、あの……》という秋山さんの何とも言えない声が戻ってきたが、俺は一歩も引かないつもりで秋山さんにプレゼンを開始したのだった。
「すみません、秋山さん。秋山さんと約束するよりも前に、大和君と約束しちゃいました」
若干の申し訳なさを漂わせながらも、内心は計画通りだと満足していた。
まだたった二度しか会っていないけれど、そんな中でも秋山さんが大和君のことを大切にしてるのはよくわかっている。
それはただただ甘やかすというだけの厄介な溺愛ではなく、正しく本当の意味での溺愛だ。
だからこそ、大和君が純粋に楽しみにしてる誕生日の約束を、大人の理由で容易く反故したりなんかしないはずだと思った。
そんな下心満載な俺の詫びを、秋山さんは疑いもせずに聞き入れてくれたのである。
《いいえ、こちらこそ、気を遣わせてしまって、すみません……》
「あなたに怪我をさせてしまったきっかけは、俺ですから。ずっと気になってたんです。さっきは個人的に大和君にお祝いしたいと言いましたが、個人的に秋山さんにお詫びしたいという気持ちも大きいんです」
だからどうか、断らないでください。
そう言葉にはしなくとも、想いはありったけに込めて告げた。
すると、電話の向こうで秋山さんが微かに息を吐いた気配がして。
《………本当に、そんなに気にしてくださらなくても大丈夫なんですけど……。…でも、ありがとうございます。そのお気持ちは、とても嬉しいです。それでは……よろしくお願いいたします》
ついに折れてくれた秋山さんに、俺は包み隠さず「やった!」と歓喜の声をあげた。
「これで大和君との約束を破らずに済みます。ありがとうございます」
《そんな、こちらこそありがとうございます。大和も隣ですっごく喜んでます》
秋山さんの言葉通り、彼女のすぐ近くからは大和君のはしゃぐ声が動き回っていた。
きっとあのパレードのときのようにぴょんぴょんと飛び跳ねているのだろう。
可愛らしい様子が目に浮かぶ。
けれど、秋山さんと次に会う約束を取り付ける、という願いを達成できた俺は大和君にも負けないほどの上機嫌だった。
そのあと、俺の休みと土、日が重なる日を伝えて、その中から秋山さんの都合がつく日を選んでもらい、めでたく、俺達三人の初デート日が確定したのである。
「それじゃ、おやすみなさい」
《今日はありがとうございました。おやすみなさい》
まるでいつもそう言い合ってるかのような温度で別れを伝え合い、通話を終える頃、俺の頭にはこの前の和倉さんの飄々とした声が浮かんでいた。
『琴子ちゃん、押しに弱いからなあ……』
確かに、あの時も今日も、はじめは戸惑いながらも結局最後には俺の押しを受け入れてくれた秋山さん。
そのおかげで俺は次回の約束を結べたわけだが、それを喜ぶ裏では、俺以外の相手にもこう容易く押し切られないでもらいたいものだと、複雑な男心が疼いてしょうがなかった。




