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笹森さんのお母様とはそれまでに何度もお会いしていて、とても良くしていただいたので、私は休日のランチのお誘いにも喜んで伺った。
ただ、笹森さんには内緒にしておいてほしいというリクエストには、かすかな予感が走ったのも事実だ。
そしてその予感は見事的中となったわけだ。
おそらく結婚を見越して笹森家では私の身辺調査を行ったのだろう。
笹森さんは知らせていないにもかかわらず、お母様は、私の体のことをご存じだった。
『琴子ちゃんのことは大好きよ。琴子ちゃんは何も悪くないの。でも、笹森家を息子の代で終わらせるわけにはいかないの。ごめんなさい』
深く頭を下げられるお母様に、私は何も返せなかった。
むしろ、『ごめんなさい』と言ってもらえただけでも、どこか心は救われるように思えた。
彼のお母様は、優しい人だから。
だから、私はしばらくの時間を要したけれど、ついには彼との別れを選ぶことにしたのである。
笹森さんはご両親に私の事情を説明するつもりはないと以前から決めていた。
『子供が授かるか授からないかは健康な夫婦でもわからないんだから。もし結婚前に琴子のことを話して、何か琴子が嫌な思いをするのは俺が嫌なんだ。大丈夫。すべての責任は俺がとるから、琴子は安心して俺のプロポーズを受けてくれたらいいよ』
思えば、彼がそう言って譲らなかったのは、もしかしたらこうなるかもしれないと危惧していたせいかもしれない。
ご両親と彼との板挟みになって私が苦しまないように、傷付かないように、最善の選択をしてくれていたのだ。
彼は私に告げないままに、私を守ろうとしてくれていた。
だから私も、彼には何も告げないまま、別れを選んだ。
もちろんはじめは彼の強い拒絶にあったが、徐々に徐々に距離をとっていき、やがて彼の海外赴任が決まった時に、正式に別れることになった。
きっと聡い彼のことだから、私が突然別れを切り出した理由に気付いていたのかもしれない。
でもそれを口にすると私がよりいっそう傷付くと思って、あえて言わなかった…のかもしれない。
想像の範囲を超えるものではないけれど、それが彼からの最後の優しさであり、愛情だと感じた私は、心からの感謝を伝えて、彼との恋愛を終了させたのだった。
これが、私がもう恋愛をしないと心に決めた、二つめのきっかけである。
笹森さんのことは本当に大好きだったから、当然のことながら、別れは辛かった。
けれど同時に、自分の体のことをご両親に隠したまま結婚するというのには大きな罪悪感もあったので、結婚がなくなったことについては、これでよかったのかもしれないと思う自分もいた。
すべてが決まったあとで理恵に報告したところ、彼女は複雑そうにしていた。
笹森さんのお母様の件には怒ってくれたけど、結婚がなくなったこと自体は、そんな家に嫁がなくて正解だったと言って、でも、笹森家がそんな考えの一族だったなんてと、私以上に残念がっていた。
なんだかその時の私の感情を理恵がすべて先回りしていってくれたようで、私の気分はずいぶんと軽くなっていった。
理恵と親友でよかった。
もし理恵に何かあったら、今度は私が力にならなくちゃ。
心の底からそう誓った。
けれど、親友に感謝しつつ、失恋の痛手から立ち直っていってる途中で、その何かが訪れたのである。
理恵が、未婚のまま母になったのだ。
妊娠が判明したとき、理恵には迷いは微塵も存在しなかった。
だが相手の男性についてはいくら訊いても打ち明けてもらえず、向こうには認知はおろか知らせるつもりもないのだと言った。
私や医師が父親には知らせておいた方がいい、考え直すようにと説得しても彼女の決意は固く、私は、もしや相手に知らせられない事情があるのではと勘繰ったりもした。
けれど理恵は安定期に入って悪阻がひどくなってくると、不規則な仕事は続けられないからと会社まで辞めてしまい、私はそんな彼女のサポートに手一杯で、子供の父親についてはそれ以上踏み込めないままだった。
やがて理恵は本当に父親不在のまま我が子を産み、シングルマザーとしての人生を歩みはじめたのである。
もちろん私は協力を惜しまなかったし、理恵は私の両親とも仲が良かったので、二人はまるで自分達の孫のように大和を可愛がった。
『大和にはパパはいないけど、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもいるし、ママは二人もいるのよ』
理恵がよく大和に聞かせていた言葉だ。
幼い大和にどこまで理解できていたのか、理恵がいなくなった今、どこまでを覚えているのかはわからないけれど。
一人で子育てする中で、理恵が苦労する場面を私は何度も見てきた。
それでも理恵は自分の選択に誇りを持っていて、大和のことを大切に育て、愛していた。
あまりにも大和を溺愛するものだから、私は思わず、『その人のこと、そんなに好きだったのね』とこぼしてしまった事があった。
すると理恵はそれには曖昧に微笑んで答えなかったが、相手について唯一の手掛かりを聞かせてくれたのである。
”大和” という名前は、その人物の名前から一文字もらったのだということを。
けれどそれ以上はどうしても教えてくれず、そしてあの日が訪れたのだ。
突然、見知らぬ番号から私の携帯に電話がかかってきた。
その末尾から、おそらく警察からであると予感したものの、交通安全教室などでお世話になっていたので、てっきり仕事関係の連絡かと思った。
けれど、違った。
連絡を受けて私は指示された病院へ急いだ。
どうやって辿り着いたのかは覚えていないけど、とにかくすぐに病院に駆け付けた。
そこには、泣きじゃくる大和がいた。
そして―――――
「―――ちゃん!琴ちゃんってば!」
「――――え?」
うっかりあの日に心を持っていかれてた私は、大和からの呼びかけで我に返った。
「だから、ぼく、わくらさんと男の子のおトイレに行ってくるね」
「大丈夫?琴子ちゃん」
二人はしっかりと手を繋いで、私の前、テーブルの向こうに立っていた。
最近の大和は知り合いの男の人がいるとお手洗いを男性用に行きたがるので、和倉さんにお願いするのはいつものことだけど……
「あ…いつもすみません、和倉さん」
「全然構わないけど、琴子ちゃん、どうかした?北浦君達が出ていってから、ちょっと考え事してるみたいだったけど」
「琴ちゃん、かんがえごと?」
ケーキをきれいに平らげた大和は、手洗いに行きたいというよりも、退屈してきてる様子だ。
私は和倉さんに「すみません、大丈夫です」と答えてから、大和には「和倉さんの言う事はよく聞いてね」と伝える。
何ともないという素振りで。
大和からは「はーい」と元気な返事があった。
「本当に大丈夫?平気?」
「はい。ご心配いただいてすみません」
「それならいいけど。じゃ、行ってくるよ」
「よろしくお願いします」
二人が出ていってしまうと、当たり前だがとたんに静かになった。
大和と暮らしはじめる前、ほんの一年ほど前までは、こういった一人きりの時間は日常だったのに。
今はすっかり、自分以外の気配や音、存在があることに慣れてしまっていて、急に静寂がはびこると、なんだか不安が芽生えてきそうで。
つくづく、人間は慣れてしまう生き物なのだと思う。
私の体のことも、恋を諦めたときの傷も、親友を失った悲しみも、
決して癒えきることはないけれど、毎日泣き暮れるわけでもなく、いつか、その不在に馴染んでしまう。
それは弱さなのか強さなのか。
いや、例えどちらだったとしても、大和と共に歩みはじめた私にとっては、そんなの気にしてる余裕もなかったのだろうけど。
今だって、余裕があるわけじゃない。
でもそんな余裕のない毎日にも慣れてきたこの頃は、なんだか少し前よりも、理恵のことを思い浮かべるようにはなっていた。
そしてそれと連れ立ってよく考えてしまうのは、大和の父親のことで………
一人きりのテーブルで答えの出ない思考の淵をさまよっていると、ふいに、扉のない仕切り口をトントントンと打つ音がした。
「すみません、ちょっといいですか?」
突然の訪問にびっくりした私は、顔を上げた先にいたアカリさんを不躾に見つめてしまう。
彼女は少しだけ表情が強張っているような感じがした。
「あ……、アカリさん、でしたよね?何でしょうか?」
声が整わないまま返事してしまったけれど、アカリさんはハッとして、「そういえば、私ってば名乗ってもいませんでしたね…」
すみませんでした。
そう言って小さく頭を下げた。
それを受けて私は、彼女をちゃんとした人なんだなと思った。
何もそうじゃないと思っていたわけじゃないけど、さっき和倉さん達と話してる雰囲気を眺めていて、とてもフランクな印象を受けたからだ。
北浦さんや佐藤さんがどちらかというと私と大和に気を遣ってくれてたのとは対照的に、彼女は誰に対しても砕けた態度だったように感じた。
だから、その彼女がこうして私に頭を下げるのが、少し意外だったのだ。
けれど彼女が私に声をかけた理由を聞くと、やはり、フランク、率直な人だなという感想を覚えた。
「山田 明莉、レンやトキオと同じファンダックのダンサーをしてます。あの、ほぼほぼ初対面の方にこんなこと言うのは申し訳ないんですけど、時間がないので単刀直入に言いますね。さっきレンと連絡先交換してましたけど、連絡しないでいただけますか?」
さっき ”すみませんでした” と言ったその口で、まるで宿敵に先制攻撃を仕掛けるような物言いをしてくる彼女。
勝気な性格が前面に出ていて、これはちょっとフランクの度合いを過ぎてるのかもしれないけれど、私は彼女が北浦さんと特別な関係にあるのだろうと思い、そこは年長者のゆとりで受け流すことにした。
「ごめんなさい、もしかして、山田さんは北浦さんの」
「明莉」
「え?」
「私のことは明莉と呼んでください」
即訂正してきた彼女は若干の不機嫌さを浮かべていた。
「えっと……、それじゃ、明莉さん?」
「はい」
「明莉さんは、北浦さんの」
「ただの同僚ですけど?」
それが問題でも?
そう言いたげな温度の明莉さんに、私はそれ以上は踏み込めないと判断した。
といっても、そもそも踏み込むつもりもないけれど。
私はそれならそれで構わないと、意識して微笑みを作ってみせた。
「あ……大丈夫、です。もとから、北浦さんに連絡差し上げるつもりはありませんでしたから。だから心配しないで大丈夫ですよ」
「本当に?」
「ええ。大和は会いたがるかもしれませんけど、ご迷惑でしょうから」
「それを聞いて安心しました。でも大和君……そっか、すごく懐いてましたもんね。だったら、代わりに私の連絡先教えておきます。あ、でもスマホ持って来てないや…。あの、ペンとか持ってませんか?」
「ペン?」
「早く!和倉さんが戻ってきちゃう」
「え、ちょっと待って…」
思いもよらない展開になり、明莉さんに急かされる形で私はバッグを漁る。
慌てて仕事用のファイルに挟んでいたペンを取り出すと、それを奪うようにして明莉さんはテーブルにあったナプキンに電話番号と思しき数字を書き記していった。
「……でもよかった。実は来週、オーディションの最終選考があるんですよね。レンは今それに向けて集中してるので……じゃ、これ渡しておきます。もし大和君がレンに会いたがったりしたら連絡ください」
明莉さんはほとんど一方的に告げると、私の顔すら見ずに大急ぎで部屋を出ていってしまった。
それほど和倉さんには知られたくないのだろうか。
その割には、口止めもされなかったけれど。
案外、そそっかしいのかもしれない。そして勝気なようで、大和を気にかけてくれるほどには優しい人。
私は明莉さんが小走りで出ていった方を見やりながら、大丈夫だよと声に出さずに呟いた。
何を心配してるのかは知らないけど、私と北浦さんが会うことは、たぶんもうないだろうから。
ファンダックで偶然見かけることはあるかもしれないけど、たぶんそれだけ。
だって、もともと私達は住んでる場所が違うんだもの。
あなた達はおとぎ話から飛び出てきた人で、私は、ただの観客なのだから。




