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琴子さんは「あ……」と、俺の指摘に思い当たった反応をした。
どうやら隠したいことでもなかったようで、俺は無意識のうちにホッとしていた。
「あんまり顔に出さないようにしてたんだけど、やっぱり出てた?」
「いえ、琴子さんは大和君に対しては完璧な笑顔でしたよ。ただ、ちょっとだけ体が強張ったような気がしたんです」
「それだけ?」
「はい、それだけです」
「すごいね、蓮君。私、蓮君にはもう隠し事したり嘘吐けないね」
「嘘吐く予定があるんですか?」
「まさか」
至近距離で鼓膜を揺らす琴子さんの笑い声は、極上のシルクのように心地良い。
俺はそっと体を離し、彼女の話をきちんと聞くという姿勢を示してから、もう一度訊いた。
「琴子さんはあのとき、何が気になったんですか?」
すると琴子さんはわずかばかりに視線を左右に泳がせ、だけど俺の元へ戻ってきてくれる。
「そんな大したことじゃないのよ?…………私ね、理恵がイルカやクジラを好きだったなんて、全然知らなかったの」
「―――え?」
「だから大したことじゃないって言ったでしょ。私は、理恵は犬が好きだとずっと思ってたの。だから、大和がさも当たり前のように理恵がイルカとかクジラを好きだったって言ったのが、ちょっと……」
「ショック?」
「まあ………ちょっとだけね。本当にちょっとだけよ?でも、私……ほら、理恵の好きな花とかも知らなかったじゃない?だから、学生の頃からずっと一緒にいたけど、案外理恵のこと知らないんだなと思って。それに……、”一人で二人分” とか、そんなことを大和に直接話してたなんて、全然知らなかったから……」
「俺もイルカ好きですよ」
「え?」
「クジラも、犬も、恐竜も興味あります。でも、一番好きなのは何だと思います?」
「え?そうね………じゃあ、猫?」
「ぶー。ハズレ」
「え?ハズレ?じゃあ……」
「琴子さんですよ」
「………え?」
「俺が一番好きなのは、琴子さんです。ああもちろん、大和君もですけど」
「それは……、嬉しいけどそれはちょっと違うっていうか…」
「違いませんよ。ね?こんなに近くにいるのに、琴子さんは俺の答えがわからなかった。でもそれはしょうがないことなんですよ。だって俺と琴子さんは別の人間なんだから」
「それは、その通りなんだけど……」
「でも、琴子さんがショックを受けたのも、痛いほどよくわかります。俺だって、俺の知らない琴子さんの情報を琴子さん以外から聞かされたらショックですから」
独占欲や嫉妬心だけではないけれど、人の心の構造は複雑すぎて、自分自身でも解読が困難なときもある。
どんなにその人を想っていても、その人のすべてを知ることなんて不可能なのだ。
それが恋人でも、婚約者でも、親友でも。
「蓮君……。それって、笹―――んっ」
俺は琴子さんの言葉を唇で塞いだ。
彼女が何て言うつもりだったのか察したからだ。
今夜はもうこれ以上、俺以外の男の名前は聞きたくなかった。
「琴子さん、好きです。もう……」
だが、このまま客室のベッドへと思ったそのとき、琴子さんの斜め後ろにある時計がちょうど0時を指してるのが目に入ったのだった。
「あ、5月5日……」
キスの途中、ふと呟きが漏れ出てしまう。
「え……?」
ふっと、琴子さんも掠れた声をこぼした。
「今、ちょうど日付が変わって5月5日になったみたいです。ほら…」
目線で促すと、琴子さんも「本当だ…」と、嬉しそうに目を細めた。
「大和君、ハッピーバースデーですね」
「そうね。大和、蓮君と一緒にお誕生日を迎えられるの、すっごく楽しみにしてるの。明日のブランチはバースデーパーティーをしてくれるんだって、喜んでたから」
琴子さんと大和君のニューヨーク滞在は、明日まで。
明日の夕方、日本へ戻ることになっている。
時差の関係で二人が日本に着くのは6日の夜だ。
本来なら日本での連休は5日までだが、大和君が今年の春に入学した小学校では、学校行事の関係で6日までが休みだった。
それならと、5日の大和君の誕生日を一緒に迎えることになったのだ。
だが、5月5日は、大和君の誕生日以外にももう一つ、俺には大切にしたい記念日があった。
「だって、明日は、俺と琴子さんが出会った記念の日でもあるんですよ?大和君のお誕生日と一緒に、それもお祝いしたかったんです」
「ああ、そうだよね……。もう一年経つんだ……」
感慨深げに頷く琴子さんは、もしかしたら5月5日の出会った記念日よりも、恋人になった日の方が印象深く留めているのかもしれない。
だが俺はやっぱり、あの日のことが強く強く心に刻まれているのだ。
「実はこのボールペンも、出会って一年の記念にと思ったんですけど、ちょっとフライングしてしまいました。でも明日は朝ケーキが届くように手配してますから、大和君のお誕生日がメインでのお祝いになりますし、フライングでちょうどよかったのかもしれませんね」
「ケーキまで用意してくれてるの?」
「もちろんです。お誕生日にケーキは必須でしょう?」
「でも明日は帰国するし、バタバタするだろうからって……。本当に蓮君はサプライズ上手ね」
「お褒めに預かり光栄です」
俺はダンサー時代に慣れ親しんだお辞儀を座ったまま披露した。
琴子さんも面白そうにふふっと笑ってくれた………のだが。
「ねえ、もしかしてまだこれ以外にもサプライズがあったりしないわよね?」
思わずギクリとしてしまう質問を無邪気に放ってきたのである。
「………蓮君?」
おどけて恭しくお辞儀なんかしてたくせに、とたんに黙ってしまった俺を、琴子さんは訝しげな瞳で見上げてきた。
「あー……、えっと………」
「まだ何かあるの?」
誤魔化そうと思えば誤魔化せたことだが、俺は心のどこかで、早くそれを琴子さんに話したいとも思っていたのだ。
そんな想いが、言い淀むという態度に出てしまった。
「実は……」
「なあに?」
「琴子さんと大和君が住んでるあの部屋ですけど……」
「うん」
「俺、買い取ろうかと思ってるんです」
「え?」
琴子さんは予想通りの反応を見せた。
そりゃ驚くだろなとほくそ笑みたくなる一方で、琴子さんに黙って計画を立てていたことが、彼女の目にどんな風に映るのかが気がかりでもあった。
「だって、俺のニューヨーク勤務が終わって日本に戻っても、俺が住んでた部屋はもう解約してますし。実家に戻ってもいいけど、結婚の話を進めるなら一緒に住んだ方がベストでしょう?琴子さんも忙しいでしょうし、大和君の意見も聞きたいですし。それで、あの部屋のオーナーにコンタクトを取ってみたんです。でも………琴子さんに黙ってたことは、すみません」
それらしい言い訳の羅列のあと素直に詫びた俺に、琴子さんは一瞥で返してくる。
その目が穏やかではないように見えて、ひやりと、背中に冷たいものが通った感覚がした。
琴子さんはスッと表情を消して、ただ俺をじっと見据えたままだ。
もしかして俺は、打ち明けるタイミングを誤ったのだろうか。
「あの、琴子さん……」
呼びかけるも、琴子さんから返事は聞こえない。
にもかかわらず目を逸らさない琴子さんに、俺は急激に後悔が押し寄せてきた。
そうだよな、家主は琴子さんの勤め先の理事長なんだから、そんな相手に俺が勝手に接触を図っていたとなれば、なんで言ってくれなかったのと責められても仕方ないだろう。
それに、家となればかなりの買い物だ。
まだ結婚してないとはいえ、これから家計を共にしていこうという間柄で、そんな大きな買い物を黙って計画されていたわけだから、琴子さんが怒りたい気持ちもわかる。
俺は静かに琴子さんから距離を取り、居住まいを正した。
「……あの、琴子さん。隠しててすみませんでした」
土下座とはいかなくても、頭を下げて謝罪を伝えた。
1秒、2秒、3秒、4秒……俯いている俺に、まだ琴子さんから声はかからない。
ああ、これは本気で怒らせてしまったかと、今度は心臓がぞわりと蠢きそうになったそのとき、
「本気で悪かったと思ってる?」
俺を試すような質問が降ってきたのだ。
「それはもちろん!………って、………え?」
素っ頓狂な声をもらしてしまった俺は、戸惑わずにはいられなかった。
バッと頭を上げた俺の真正面で、琴子さんがクスクス笑っていたのだから。
「琴子さん?怒ってるんじゃ……」
「どうして?だって、それだけ蓮君が私との結婚を真剣に考えてくれてるってことでしょう?そりゃずっと隠されてたらショックだけど、蓮君はまだ実際には購入してないじゃない」
「でも黙って部屋のオーナーに連絡したりしたのに……」
すると琴子さんはフフッと声に出して笑う。
「実はね、うちの理事長から聞いてたの」
「えっ?」
「あ、あの部屋を買うとかは聞いてないんだけどね、『秋山さんの婚約者は頼りがいのあるいい男だね』って褒めてらしたから。理事長が仰るには、仕事で偶然蓮君と会ったってことだったけど……よくよく考えたら、蓮君はずっとニューヨークなわけだし、ちょっとおかしいなとは思っていたのよね。それで、今蓮君から聞いて、ああなるほどそういうことだったんだ……って納得できたわけ」
明朗な種明かしに驚きが隠せなかった。
「じゃあ、怒ってないんですね?」
だが琴子さんは俺への逆サプライズが成功して楽しそうに言った。
「もちろ―――あ、やっぱり怒ってるわ」
”もちろん” と答えかけたのに、急に方向転換させて唇を尖らせた琴子さん。
突然のことに俺はどう返すべきかと躊躇ったが、恋人からはすぐに仲直りの条件が提示されたのだ。
「でも、蓮君がその敬語をやめると約束してくれるなら、すぐに機嫌を直してもいいわよ?」
「敬語……」
一瞬何を言われたのか拾えず、反応が遅れてしまったけれど、意味が理解できると、もう愛しさが溢れかえりそうだった。
「琴子さん、そんなことでいいんですか……って、呼び方も変えなきゃだめですか?」
抱きしめようと腕を伸ばしたところで、はたと思いとどまる。
けれど琴子さんは「呼び方についてはこれから応相談ね」なおもいたずらっぽく笑うから、俺ももう遠慮せずに抱きしめた。
「琴子さん、好きだ。……好きだよ。だから、許して?」
「しょうがないわね。じゃあこれからは、一緒に家のことも考えていこうね」
「うん、そうする。だからもう……」
唇を耳元、こめかみ、頬に移していき、そして唇に辿り着いたとき、二人の息遣いはもうどちらがどちらのものなのか判別もつかなくなっていた。
5月5日。
それは、人生を共にしたい大切な人と出会った記念の日。
俺は今後一生忘れないであろう記念の日に、愛しくてたまらない人のぬくもりを辿りながら、ふと、明日届くケーキのことが頭に浮かんだりしていた。
今年は大和君の大好きなファンディーのイラストを描いてもらったが、来年はどんなケーキにしようか。
だって来年もきっと、5月5日は俺達は一緒に迎えるのだから。
来年だけじゃなく、これからもずっと。
次の5月5日までには、大和君もちゃんと ”シロナガスクジラ” と言えてるだろうか。
そんなことを考えている余裕は、そろそろなくなってきそうだけれど。
次第に頭には靄がかかっていって、琴子さんの声が潤んでいく。
そして、さらに熱を帯びていく口付けの痕に、俺はもう、溺れていくだけだった………
5月5日 in ニューヨーク(完)
番外編までお付き合いいただき、ありがとうございました。
しばらく間を置きまして、もう一つ後日談を更新予定です。
その際はまたお付き合いいただけたら嬉しいです。
ありがとうございました。




