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待ち合わせは、正午。自然史博物館セントラルパークウエスト地上正面入り口前。
そう指定するメッセージを読んだ俺は、正直、なぜ彼がそんな場所を選んだのか不思議だった。
5月の大型連休前、空港が混雑しないうちにアメリカ出張を調整していた最中、ちょうどメッセージで彼からの近況報告が届いたものだから、世間話の延長で出張の件を伝えたのだ。
だがまさか、彼から妙に前のめりな返信がくるとは思わなかった。
”こちらで時間は取れますか?” と。
はっきり言って、俺は彼を好ましい人物だと思っている。
人格的にも素晴らしい人間だということは、嘘偽りなき俺の率直な感想だ。
ただ、彼という存在には、未だに胸騒ぐ瞬間があるということも、また嘘偽りなき俺の感情だった。
そしてそれは放っておくと、そのまま後悔という不穏な感情をも呼び起こしてしまいそうで、俺はなるべくならそんなネガティブな時間は排除したかった。
少なくとも、彼の前では。
だから、ニューヨークで会えませんかという彼の誘いにも、平然と乗ってみせたのだ。
そして彼から指定された待ち合わせ場所に首をひねりながらも、約束通りの時刻に赴いたのだった。
「笹森さん!お久しぶりです」
セントラルパークを抜けて横断歩道を渡っていると、博物館の階段の上から手を振る彼の姿があった。
俺も日本人にしては高身長な方だと思うが、彼は高身長だけでなく、非常にスタイルが良い。
男の俺から見ても惚れ惚れするほどだが、彼はおそらく俺より一回り近くは若いはずだから、これが年代の差なのかと自虐めいた気分も芽生えてしまう。
「北浦君、久しぶり。元気そうでよかったよ」
まずは当たり障りのない挨拶を返してから、
「琴子もずいぶん心配してたから」
ささやかな意地悪を織り交ぜてみる。
これくらいはジャブにもならないだろうが。
案の定、彼からは満面の笑みで「琴子さん、心配性ですからね」と惚気を食らってしまった。
「相変わらず仲が良さそうで何より」
俺はひょいっと肩をすくめながら階段をのぼり、彼と同じ高さに辿り着く。
目線はさほど差はなく、互角といったところか。
「で、今日はどうしてこんな場所で待ち合わせを?」
ニューヨークといえばメトロポリタンが一番に浮かぶかもしれないが、この自然史博物館、ナチュラル・ヒストリーも世界中からの観光客で人気の場所だ。
毎日賑わっているし、特別展によってはかなりの混雑具合だったはず。
今日はそこまでではないようにも見えるが、そんな有名観光スポットをわざわざ指定してくるなんて、よほどの理由があるのだろう。
ところが彼は「ちょっと、来てみたかったんです」と言うなり、スマホを俺に見せてきたのだ。
「もうチケットは購入してあるので、付き合ってくれませんか?」
実に楽しそうに提案してくる彼に、何か裏がありそうだなとは感じつつも、どうせ今日は一日オフだしと、誘いに乗ることにした。
「まあいいけど、ずいぶん久しぶりだな」
「笹森さんも来たことがあるんですか?」
「子供の頃に家族旅行で何度かね。親はメトロポリタンに連れて行きたがったんだけど、俺はメトロポリタンよりもナチュラル・ヒストリーの方が好きで………」
「俺もです。子供は美術館よりも博物館の方が楽しめますよね」
「子供…………そうか、大和君か」
彼がここを指定した理由に思い当たった俺は、はぁ……とため息を吐き出したのだった。
この前和倉と一緒に琴子、大和君と食事をした際、連休を利用してニューヨークに行くのだと聞いたばかりだ。
昨年のクリスマスプレゼントはパスポートで、5月の誕生日プレゼントはニューヨーク旅行だと、大和君がそれはそれは楽しそうに教えてくれた。
それを踏まえると、彼がこの自然史博物館に俺を誘ったのはおそらく……いや、きっと、ニューヨークに遊びに来た大和君を案内するための下見だったのだろう。
その証拠に、彼は「今、恐竜にはまってるみたいなので」と悪びれるどころか幸せそうに笑った。
「ああ、そうみたいだね。この前も恐竜の本をお土産に持って行ったら、大喜びしてくれたから」
俺だってそれくらい知ってるのだと、そこはかとなく敵愾心を含ませてみるも、彼にはどこ吹く風でにこやかな応対を返されてしまう。
「大和君、よっぽど嬉しかったんでしょうね。すぐにテレビ電話で自慢してきましたよ。色々とありがとうございます。いつも琴子さんと大和君を気にかけてくださって、頼もしいです」
清々しいほどの爽やかな ”ありがとうございます” に、俺はもう何度目になるかわからない降参を認めるしかなかった。
だいたい、元婚約者である俺と定期的に会うことを琴子にすすめたのは彼自身だというのだから、その時点で俺は彼にとってライバルのカテゴリーからは除外されてしまっているのだ。
そんな相手に今さら張り合おうとしたところで何の意味もないのだろう。
だがそうと承知でも、やはり俺は彼に対して好意以外の感情も抱え持ってしまうのだから仕方ない。
ただ、複雑な感情を持ちながらも、大和君のための下見となれば、協力は惜しみたくはなかった。
「それじゃ、俺も子供の頃に来た以来で覚えてないところも多いけど、一緒に館内探索することにしよう。小さなゲストのためにね」
「ありがとうございます」
彼はにっこりと微笑み、俺達は二人してフロアマップ片手に進んでいったのだった。
目当ての恐竜展示エリアは4階にあり、俺達は上階から下に降りて回ることにした。
エレベーターを降りるとすぐに恐竜の展示室があり、いきなりティラノサウルスが出迎えてくれた。
大和君が驚きながら大喜びする姿が目に浮かんで、その場に立ち会えないことがとても残念だった。
だがそのとき、近くにいた子供が「Daddy!」と父親を呼ぶ声がして、ふと、大和君の父親である市原のことを思い出した。
市原はまだ大和君に自分が父親だとは名乗っていないが、もしかしたら俺以上に大和君と一緒にいたいと願っているのかもしれない。
その背景にある事情を知っている立場からすると、ちょっとしたタイミングのズレやほんの些細な行き違いで翻弄された彼らを気の毒に思う。
生きていればまだ挽回や修正もできたのだろうが、彼女にはもう不可能なのだから。
命は有限で、いつその終わり…大和君の言葉を借りるのならば、閉園時間がどのタイミングで訪れるのかは、誰にも知ることができないのだ。
それは当たり前のことなのに、あのときの俺は、そのことをじゅうぶんに理解しきれていなかった。
だから琴子からの別れを受け入れて、6年もの時間を見逃してしまった………
………やめよう。
今彼の前でそんなことを考えても、何もいいことなんてない。
俺に今できることといえば、大和君を見守っていくことくらいだろうから。
だがそれは、何も大和君が、琴子の大切に育てている男の子だからという理由だけじゃない。
大和君は俺の大事な二人の部下の子供で、忘れ形見でもあり、そして俺が、当時彼女の気持ちを知っていた唯一の証人だという自覚があるからだ。
必要な時がくれば、大和君の母親がどれほど父親を愛していたのか、きちんと説いてみせるつもりだった。
この役目だけは、北浦君にも市原にも譲るつもりはなかった。
そんな決意を密かに固めながら、俺達は自然史博物館の中をぐるりと見て回っていった。
二人ともブランチをとって来ていたので、ランチのことは考えず、ゆっくりと各フロアをチェックしていく。
ここは琴子が気に入りそうだ、でもこっちは大和君が退屈するかもしれない……
まるで遠足のリサーチに来た学校教師のようだなと内心で苦笑いをこぼしていると、彼の方も、時おり苦笑いなのか自嘲なのか、なんとも形容しがたい表情を浮かべているのに気付いた。
そしてその直前には、かすかに唇が動いたり動かなかったり……
それはほんの一瞬で、見落としていても不思議でないほどのわずかな変化だが、まるで何かを言いかけて躊躇しているようにも思えた。
俺はそれを知らないふりで通すこともできたが、もし琴子や大和君に関係してくることならば聞いておきたいと考え直し、1階の海洋生物ファミリーホールに入ったとき、思い切って彼に尋ねてみたのだった。
「北浦君、もしかして、俺に何か話があるのかい?」
誤字をお知らせいただき、ありがとうございました。
訂正させていただきました。




