1
ふと、何かに導かれるようにして、目が覚めた。
最初に視界に映ったのは、俺が愛してやまない人の、絹のように手触りの心地良いダークブラウンの髪だった。
仕事柄、会う時はほとんどと言っていいほど一まとめにされている髪が、ベッドの上で静かに波打っているなんて、それだけで不覚にも煽られてしまいそうになる。
昨夜あんなにも肌を重ねたばかりだというのに………
俺は朝から抑えが効かなくなる事態だけは避けたくて、まだ夢の住人である彼女を起こさぬよう細心の注意を払いながら、ベッドから抜け出した。
部屋はほどよい暖房に包まれていたが、彼女を見返るとむき出しの肩が冷たそうにも見えて、俺は毛布を引っ張り上げた。
窓の向こうはちょうど夜が明けはじめた頃で、部屋の間接照明がいい具合に彼女を照らしていて、そのデコルテあたりなんかは特に………
………いや、これ以上はやばい。
俺は足元に脱ぎ落されていたバスローブを纏い、寝室を後にした。
昨夜は、ソファの上でキスをはじめてしまったせいで、いつ寝室に移ったのかさえ朧気だ。
琴子さんが眠ってから一人でシャワーを浴びたのは覚えているが、そのあとは片付けをする余裕はなく、琴子さんの隣りに滑り込むと彼女の温もりを抱き込んで深い眠りに落ちてしまった。
ゆえに、大体の想像はついたものの、リビングルームは、寝室にも劣らぬほど昨夜の濃厚な時間の残骸が広がっていた。
彼女をこれ以上求めてしまわぬように避難してきたというのに、ソファまわりに残された彼女の衣服を目にした途端、俺は自分の中にまだ熾火が残っていることを痛感してしまった。
自分は、結構淡白な方だと思ってたのにな………
琴子さんの物を拾いながらそんな言い訳めいたことを思っても、彼女への想いが休む暇などないのは事実だからしょうがない。
俺は欲望に火がつかぬようにと、気を逸らすつもりでテラスに続く窓に近付いた。
真冬のこんな時間にバスローブ一枚で外に出るなんてあり得ないが、今まさに白々と夜が明けようとしている景色は、開園前のFANDAKを静かに浮かび上がらせていた。
夜と朝の狭間といっても、FANDAKはもうすでに目覚めているはずだ。
そもそも、FANDAKというおとぎ話の世界は、常に眠ってなどいないのかもしれない。
お客様の来園のため、開園時間、閉園時間を設けているだけで、その中から完全に人がいなくなることはないし、例え表向きは照明が消えて闇夜に包まれていたとしても、必ずどこかで何かしらの作業は行われているのだから。
それはアトラクションの点検だったり、清掃だったり、昨夜のようなリハーサルのために朝4時5時にパフォーマーが集合することもあるし、植栽や美術担当は毎朝夜明けから園内の隅々まで手入れを欠かさない。
そうやって、たくさんの、本当にたくさんの人の手によって、おとぎ話の世界は続いていくのだ。
閉園時間を迎えたあとも、ずっと。
俺はそんな世界の中にいたことを誇らしく思いながら、最後の日となった昨日のことを思い返していた―――――
◇
俺にとってFANDAK最後の日、朝からとびきりの晴天だった。
1月の凛として冷えた空気はあったものの、気持ち的にはこれまでに感じたことのない熱さがみなぎっていた。
寂しさや後悔みたいな感情がなかったわけではないが、それらは見えていないふりをして、俺はただ目に映る青い空のように晴れ晴れした気持ちだけを胸に、ダンサー人生の千秋楽に挑んだのだった。
アンコールなしの、最後の舞台だ。
いつものようにスタッフ用のセキュリティゲートをくぐり、いつものようにロッカールームに寄り、いつものようにスタッフと挨拶をかわす。
ただいつもと違ったのは、その挨拶が
「今までお疲れさまでした」
「いろいろお世話になりました」
「頑張ってね!」
別れを踏まえたものだということだった。
ここで働く人は数えきれないほどいるが、俺が今日でFANDAKを去ることはほとんどのスタッフが知っているような雰囲気だった。
中には、これまであまり親しく言葉を交わしてなかったにもかかわらず、最後だからと労いをくれる人もいて、俺は感謝とともに、決して小さくはない感動に胸が震えていた。
「おはよう。いよいよだな」
ミーティングルームでひとしきり同僚と挨拶を終えた俺に、最後に話しかけてきたのは時生だった。
きっと俺の体が空くのを待っていたのだろう。
「ああ。最後までよろしく頼むよ」
「任せろ。お前の門出を盛大に祝ってやるよ」
フッといつものようにクールに笑んだ時生。
だがそれはあくまでも言葉の綾で、実際には今日のパレードもいつもと同じ、何も特別な変更などはない。
俺の引退は公にはしていないし、ファンだってそれを知る術はないはずだからだ。
それでも、俺は親友のセリフが嬉しくて、やはりいつものように全幅の信頼を置いて。
「楽しみにしてるよ」
そう答えたとき、どちらからともなく、自然と握手が交わったのだった。
他のテーマパークではどうか知らないが、ここFANDAKではダンサーやアクター、シンガーといったパフォーマー達は、一人一人に一日のスケジュールが組み立てられていて、開園から閉園まで出ずっぱりの者もいれば、夜のショー1ステージだけということもあった。
また外の仕事で数週間まるまる姿を見かけない場合もあり、今日会えないと予めわかっている人には、事前に電話やメッセージで連絡済みである。
だが先ほど俺に別れの言葉をかけてくれたダンサー仲間の中には、今日はオフだったり、夜しか出番のない人もいたのだ。
彼らが俺のためにわざわざ集まってくれたのは明らかだった。
俺は、本当に素晴らしい仲間に巡り会えていたのだ。
改めてその幸せを噛み締めながら、俺は本日唯一の出演である午後のパレードの準備に取り掛かった。
この衣装に袖を通すのも最後なんだなと、心にしっかり刻み付けて、その時を迎える。
さすがにここでは、”いつものように” とはいかなかった。
平常心を心がけていたのに勝手に心臓はバクバク大きくうるさくなっていたし、手先足先が妙に冷えてきたりジンジンしてきたり。
メイクだっておかしなところでミスするし、喉もカラカラに干上がってしまいそうだった。
それは間違いなく緊張しているせいなのだが、その緊張の理由は、今日が最終日だということ以外にもあるかもしれない。
数日前、実家の母親から電話があった。
俺が事前に最終日に招待できるがどうするかと尋ねていたことへの返事だ。
その時点で母と兄、それに兄の婚約者の三名が出席するとのことだった。
父は仕事の都合でギリギリまで可否はわからないようだったが、なんにせよ、俺の家族が来園予定だと把握してのパレード出演ははじめてだったのだ。
しかも、今日は琴子さんのご両親もお見えになる。
これでは緊張が緊張を呼んでしまうのも仕方ないだろう。
だけどそんな俺の事情など、今日のお客様には全く関係ないことなのだ。
お客様にとって今日はFANDAKでの大切な一日で、俺が緊張したりしていつものようなパフォーマンスができなければ、その大切な一日を台無しにしてしまうかもしれない。
平常心、普段通り、全力のパフォーマンスを………
必死に自分に言い聞かせていたとき、まるでそれを見抜いたかのようなタイミングで思わぬ知らせが運ばれてきたのだった。
「大変です!蓮のことを知ったファンが大勢パレードの場所取りをはじめているようです!」




