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蓮君から聞かされた二つ目の条件は、意味を解するのに少し時間がかかった。
お父様の仰った ”結婚” という言葉に唐突感があったせいだ。
だけど数秒後、よくよく考えてみると、それがとても重要な内容であることに理解が追い付いてくる。
「蓮君、お父様に私のことは何も…」
「話してません。琴子さんの名前や仕事も、大和君のことも。もちろん、琴子さんが病気を乗り越えられたことも。でも父は、俺が選んだ人ならどんな人であっても認めてくれると、はっきり言ったんです。俺がニューヨーク行きを受け入れさえしたら……期限が決まってないのはちょと気にはなりますが、それでも琴子さんと結婚できるのなら俺は、」
「ちょっと待って」
徐々に気持ちを昂らせていく蓮君にストップをかけたのは、この期に及んでもまだ、私の中に臆病の種がしぶとく残っていたからだ。
蓮君と将来的に結婚を見据えた付き合いをしているのは事実だ。
だけど私と結婚するということは、将来的に実子は望めないという意味でもあるのだ。
私達は何度も何度も話し合って、時にはぶつかり合って、それでも一緒に、大和も含めて三人で一緒にいる未来を選んだつもりだった。
だけど、いざ ”結婚” という選択が具体性を帯びて目の前に提示されてしまうと、本当にそれでいいのかと、一気に迷いが噴き上がってきたのである。
もし蓮君が世襲でお父様の跡を継ぐのなら、蓮君の跡継ぎはどうなるのか。
ついさっきもまったく同じことで心を沈ませたというのに、私はいっこうに成長できていない。
トラウマだろうとコンプレックスだろうと、蓮君は何度も何度も私に気持ちを伝えてくれているのに。
なのにどうして私はこんなにも弱いのだろう………
けれど、いつもは優しく私の弱さにも想いにも寄り添ってくれる蓮君が、この時は違ったのだ。
「いいえ、待ちません。待ちませんよ、琴子さん」
そう繰り返す蓮君は、相変わらずの優しさの中にも、蓮君らしい意志の強さがはっきりと感じられた。
「俺は琴子さんと大和君と、この先もずっと一緒にいるつもりですから。前にも言いましたよね?琴子さんが俺のことを嫌いだ、もう一生顔も見たくないと言わない限り、他のどんな理由を出してこられても琴子さんを諦めるつもりはありませんし、絶対に離しませんから。どうせ今琴子さんがそんな顔してるのは、結婚話が現実味を帯びてきて、本当に自分でいいのかとかそんな風に思ったからでしょう?だったらそんなのは考えるだけ、悩むだけ時間の無駄ですよ。俺は琴子さん以外の人と結婚する気なんてさらさらありませんから。琴子さんと結婚できなかった俺は一生独身確定です。別に結婚がすべてじゃありませんけど、琴子さんが結婚してくれなかったら、俺は一生、琴子さんと大和君のことを想いながら寂しい人生を送るしかないんですよ?」
琴子さんはそれでもいいんですか?
ぐいぐい迫ってくる蓮君の圧に、私はつい反射的にふるふると首を横に振っていた。
すると蓮君はパッと圧を解放した。
「だったら、結婚に向けて一緒に考えていく、ということでいいですね?」
そう訊きながら、蓮君は私の片方の手の指先をつまみ、まるで本物の王子様がするように、甲の上にキスをしたのだ。
彼の唇の熱が肌を伝い、私は一気に全身の血が上昇するのではないかというほどにカッとなった。
蓮君はプロの演者だ。どのように振舞えば自身の魅力が最大限に引き出せるかを熟知している人なのだ。
そんな蓮君が、自分の麗しい容姿を遺憾なく発揮してくるのだから、彼を好きな私にとってはもうお手上げでしかない。
それでも、今の段階で結婚を具体的に決めてしまうのには、まだほんの少しの気がかりが燻っていて。
「……私だって、蓮君とずっと一緒にいたいと思ってる。でも、その………私達はまだ知り合って一年も経ってないし、付き合いだしてからの期間はもっと短いのよ?それに、まだ………プラトニックなままだし」
「え?」
「だから、私達は、まだ」
「そんなことですか?」
ああよかった……とでも続きそうな安堵口調で言われて、私は「大切なことでしょう?」と反論した。
「だって結婚っていうのは、一生、その人としか肌を合わせないってことなんだよ?もし相性的なものが合わなければ、それは重要な問題でしょう?それに私の場合は、普通の人とは違うわけだし……」
ムキになったつもりはなかったけれど、感情がこもってしまったのは否定できない。
だが蓮君は私のそんな感情ごと丸飲みするかのような大らかな態度で告げたのだ。
「恋愛や夫婦関係でセックスは大切なことですし、俺は今すぐにでも琴子さんを抱きたいと思ってますけど、何も愛情表現はセックスだけじゃありませんし、俺は琴子さんを抱きたいから琴子さんと付き合ってるわけじゃありませんよ?」
隣の部屋に大和がいるので声のボリュームは絞り気味だったけれど、直接的なワードにはドキリとしてしまう。
でも、蓮君には茶化すような雰囲気は皆無で、だから私も恥ずかしがってる場合ではないのだ。
「琴子さんが不安に思うのもよくわかりますよ?でも俺は、例え琴子さんと一生抱き合えなくても、それでも一生一緒にいたいと思うはずです。琴子さんが言うように、俺達はまだ知り合って一年にも満たないけど、琴子さんと出会えたことで俺の人生は大きく変わったんです。人生だけじゃない、考え方とか気持ちの在り方とか、琴子さんと大和君、二人と一緒にいることで俺がどれだけ影響を受けていることか……。これまでの人生の中でも、ここまで自分が変わったと自覚した出会いはありません。一年にも足らない短い付き合いでも、その内容は、きっと十年間付き合う以上に濃密だと思いますよ」
真剣味が強かった眼差しが、ほんのりとゆるんでいくように感じた。
蓮君は片手で私の頬を触ってきて、手のひらを当てたかと思えば、次は手の甲で撫でるように接してくる。
「蓮君……」
私は、蓮君が言ってくれたことが、すごく、よく、理解できた。
それは私も日頃からしょっちゅう思っていたことだったからだ。
「蓮君。私も、同じことを考えていたわ」
私の頬に留まったままの蓮君のあたたかな手に、自分の手をそっと重ねる。
混ざり合った手のひらは、お互いの体温以上の温かみを生み出して、ホッとした。
「私、きっと蓮君じゃなかったら、今も恋愛できてなかったと思うから。もう誰とも恋愛しない、大和と二人でずっと生きていくって決めていた私を変えてくれたのは、蓮君だから。なのに………やっぱりだめだね、自分ではそう思ってるくせに、自分の大切な人に対しては弱気になってしまうというか……」
「琴子さんは自己評価がちょっと厳しいんですよ。でも、そんな琴子さんも好きですよ」
「―――っ!」
「それに、今はまだタイミングが合わなくて抱き合えていませんけど、来月の約束があるじゃないですか」
「それは………そうだけど」
蓮君が言っているのは、はじめての泊りデートのことだ。
大和を実家にお願いして、はじめて過ごす二人きりの夜の約束。
「でも、そのときに何か合わないことが見つかったりしたら……」
「そんなの、合わなかったら二人で合わせていけばいいんですよ。だってセックスって、二人でするものでしょう?どちらか一方が我慢しても、本当の意味で気持ちよくなんかなりませんよ」
「蓮君っ!」
爽やかに言われても、やっぱりダイレクトが過ぎる言葉は恥ずかしくて。
なのに蓮君はいたって穏やかに笑みを浮かべていて。
「琴子さんが恥ずかしがり屋なのはわかってますけど、これも大切な話ですよ?二人で一緒に、思い出の残る時間を増やしていきたいんです。……思い出といえば、プロポーズもちゃんと思い出に残るようなものをプラン立てますので、待っていてくださいね」
さも今思い出したかのように蓮君は言った。
「え……?今日のこれは、プロポーズにはならないの?」
「当り前じゃないですか。いつか、もっとちゃんとしたのをしますよ」
蓮君のことだから、もしかしたらもう何か練っているのかもしれないけれど、私には今日蓮君からもらった言葉の一つ一つが、もうプロポーズに変換されているのに。
けれど、それを蓮君に伝えるよりも先に、大和が ”プロポーズ” という言葉を聞きつけたのだった。
「ねえねえ、いま ”プロポーズ” って言った? ”プロポーズ” って、けっこんしたい人がするんだよね?じゃあ、琴ちゃんとレンお兄ちゃんもやっぱりけっこんするんだよね?」
ファンディーを抱きながら、わくわく顔で頬っぺたを赤くさせている大和は、歓喜一色だ。
すると蓮君も「うん、そうだよ」と満足そうに認める。
「ほんとう?琴ちゃんとレンお兄ちゃん、けっこんするの?いつ?いつするの?」
「そうだな………俺が、ニューヨークに行って、日本に帰って来てからかな」
「ええっ?ニューヨークって、ブロードウェイがあるところだよ?レンお兄ちゃん、やっぱりブロードウェイに行っちゃうの?」
とたんに歓喜を取り下げる大和。
まさに一喜一憂だ。
けれど蓮君は落ち着いたもので、大和を抱き上げ、膝に乗せた。
「ブロードウェイに行くんじゃないんだよ?お仕事で、たまたま、ブロードウェイのあるニューヨークに行くことになりそうなんだ。だから、少しの間、こうやって大和君に会いにくるのもできなくなっちゃうんだ」
「ええ……。そんなの、やだよ」
「そうだね、俺も大和君や琴ちゃんと会えないのはすっごく寂しいよ。でもね、日本に帰ってきたら、それからはず―――――っと一緒にいられるんだよ?」
「……それ、ほんとう?」
「ああ、もちろん。それに、俺がニューヨークに行ってる間も、テレビ電話ですぐに繋がるし、大和君が琴ちゃんと一緒にニューヨークに来たっていいんだよ?絶対に会えないわけじゃないんだ」
「ほんとう?!」
大和の中から憂いが払拭された瞬間だった。
「あのね、ぼくね、クリスマスプレゼントにパスポートをお願いしたんだ!ニューヨークに行くのにパスポートがいるんでしょ?」
「そうだよ?でも、大和君がパスポートを持っててくれるなら、いつだってニューヨークにおいでって言えるね」
「やったぁ!ぼく、ニューヨークに行く!琴ちゃん、いいよね?」
きらきらと興奮していく大和に、まさか否定したりはできない。
「そうね。大和が好き嫌いなくご飯食べたり、幼稚園の先生やお友達と仲良くしたり、オモチャや脱いだお洋服を出しっぱなしにしないでちゃんと片付けたりできたら、いつか一緒にニューヨークに行こうね」
「やった!ニューヨーク!ニューヨーク!」
大和は大喜びで蓮君の膝から飛び降り、ファンディーと手を繋いでくるくる回りだした。
そして本棚から世界の国々について書かれてある絵本を取り出し、ラグの上に開いてファンディーと一緒に鼻歌混じりで眺めはじめた。
蓮君は大はしゃぎの大和を愛おしそうに見つめながら、私にはじめて訊いた。
「琴子さんは、俺のニューヨーク行きを応援してくれますか?」
愛おしさあふれる表情の中にも、よく見ると不安が滲み出ていて。
だから私は大いに即答したのだ。
「そんなの当り前よ。言ったでしょう?蓮君の夢は私の夢でもあるんだから」
「でも、今みたいにすぐに会うことはできなくなりますよ?」
「さっきは大和にテレビ電話で会えるって言ってたのに?」
「でも、こうして触れることはできませんよ?」
「その代わり、日本に帰ってきたあとはずっと一緒にいられるんでしょう?私と大和と蓮君、三人でず―――――っと」
「琴子さん……」
「だったら、寂しいけど頑張るわ」
「よかった………」
おそらく、蓮君も私の反応には確信がなかったのだろう。
たった一言の呟きに、恋人の違う一面を見た気がした。
だから私は、今すぐにでも、大切な恋人と前向きな話をしたくなったのだ。
「でも蓮君、ニューヨークのファッションウィークって2月だったんじゃないの?そんなに早くFANDAKを辞めたりできるの?」
「実は、それについてはちょっと特例をいただいてるんです。俺が以前ブロードウェイかFANDAKか迷ってるときに、FANDAKに誘ってくれたディレクターから、FANDAKに残っても、いつでも俺の好きなタイミングで契約解除ができるって条件を付けてもらってたんです。きっとディレクターは、俺がいつブロードウェイ挑戦を思い直してもいいようにって、そういう意味で提案してくれたんでしょうけど」
「そんな条件が……」
蓮君の仕事に関しては私は素人だけれど、きっとそのディレクターの方は、蓮君の実力を高く評価してらっしゃったのだろう。
それが誇らしくもあり、その実力をもう発揮する場がなくなるのかと思うと、少しだけ残念な気持ちにはなった。
私はまだ数度しかダンサーとしての蓮君を知らないけれど、そんな私でさえその魅力や才能が決して人並みでないことくらいはわかるのだから。
「だから、FANDAKに関してはスムーズに事を運べると思います」
「そう……。でも、ファンの方は急なことで驚かれるでしょうね」
「それは申し訳ないとは思いますが、これは、俺の人生ですから。ファンの人達にはいくら感謝しても足りませんけど、だからといって、俺の新しい夢を諦めるつもりはありません」
潔く言い切る蓮君に安堵してしまった私は、意地悪なのだろうか。
私が蓮君を知るよりもずっと前から、蓮君を応援して支え続けてきたファンの方々には、何と言っていいかわからない感情が浮かんでは消えていくばかりだった。
だけどこればかりは私が口出ししていい問題ではないのだと、自分の立場をわきまえた。
「そうね。蓮君の新しい夢を応援してくれる人達もいるでしょうしね」
「その筆頭が琴子さんと大和君ですね」
「もちろんよ。それは譲らないわ」
「ところで、大和君がパスポートをクリスマスプレゼントにお願いしたって言うのは本当なんですか?」
「そうなのよ。でも実は、年末でバタバタしちゃってて、まだ申請できてないの。大和には内緒よ?年明けには申請しようかと思ってるんだけど……」
「ぜひ取っておいてください。いつでもニューヨークに来られるように。俺も、いつでも日本に戻れるようにしてますから」
「わかった」
「ああ、それから、もうひとつ……」
「まだ何かあるの?」
「俺の家族のことなんですけど」
「うん」
「たぶん、父以外は俺のFANDAKでの最後の日に観に来ると思うんですよ。それでもしかしたら琴子さんや大和君とも顔を合わせることになるかもしれません」
「そのときにご挨拶はしてもいいの?」
「もちろんですよ。だから、それまでに大和君のことを俺の家族に説明してもいいですか?」
「そんなこと、全然気を遣う必要ないのに」
「でも一応、プライベートなことですし」
「だけど私達が結婚したら、みんな家族になるんでしょう?」
「…………俺、今の、ちょっと感動しちゃいました」
「大袈裟よ」
私はちょっと笑ったあと、ふと思い出し、付け加えた。
「だったらそのときに、私の病気や体のこともお伝えしてもらいたいの。包み隠さずに。お願いできる?」
自分でも信じられないほど普通の感情で、フラットな温度でそう言えたのだ。
それは他でもない蓮君にだからできることだった。
好意や恋愛感情だけでなく、彼への絶対の信頼がそうさせてくれるのだから。
しばらくして、蓮君のダンサーとしての最後の日が、年明け早々、私達のはじめての泊りデートの日に決まったのだった。




