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ダンサーを辞める。
そうはっきりと口に出したのは、これがはじめてだった。
以前から、FANDAKで人気をもらえばもらうほどに、俺自身が思っていたパフォーマンスからは遠ざかっていってる感覚があったのだ。
葛藤、そう言えばもっともらしく聞こえるかもしれないが、そうとは言い切れないようにも感じる。
それでも、メインダンサーとして仕事を与えてもらってることには有難く思うし、自分がいかに恵まれたポジションにいるのかは理解しているつもりだった。
子供の頃から憧れてFANDAKのパフォーマーになったにもかかわらず、仕事に恵まれず数年、早ければ一年と経たずに去っていく仲間は多くいたのだから。
彼らの中には自ら去就を選ぶ者もいれば、会社側から言い渡される場合もあった。
おとぎ話の世界にも、実力主義は存在しているのだ。
そんな環境において、俺は乞われておとぎ話の住人となった。
ニューヨークのエージェントから声をかけられている最中でのことで、迷いは決して小さくはなかったが、最終的に決めたのは俺自身である。
だから、その後、今に至るまでの状況も、誰かのせいなんかではない。
俺が選択を重ねた結果が、今なのだから。
ただ………
今のおとぎ話の世界は、俺にはとても息苦しかった。
このままでは、自分がいなくなってしまうかもしれない………
窮屈な世界で、もがいていた。
誰にも悟られぬよう、秘し隠しながら。
ダンスは好きだ。
好きなダンスを見てもらって、評価してもらって、ダンスが仕事になるなんて、ダンスで生きていけるなんて、本当に一部の人間にしか叶えられない夢だと思う。
今でも。
それでも、時々、窮屈なおとぎ話から抜け出したいと思ってしまったのだ。
そんなときは決まって、家のそこかしこにある ”the Key” の文字が、やけに目についた。
だが何も、実家を逃げ道にするつもりなどなかった。
もともとダンサーの道を進んだ際も、生涯現役のダンサーでいることは難しいとは思っていたし、ダンサーとして踏ん切りがついた後は、実家の手伝いをさせてもらうつもりだったのだ。
もちろん、経営などに口を挟むのではなく、一従業員として。
おそらく父や兄にもその考えはあったはずだし、そうなったときに困らない程度には、 ”the Key” やアパレル業界の勉強は欠かさなかった。
けれど、俺はまだまだ窮屈なおとぎ話からフェードアウトするつもりはなかった。
少なくとも、琴子さんと出会う前までは。
あの日、俺のファンがきっかけで起こってしまったアクシデントを目の当たりにしたとき、怪我をした琴子さんと接したとき、俺の中で何かが変わった気がしたのだ。
けれどその後、琴子さんからかけられた言葉に救われて、また、大和君からの純真無垢な憧れを向けられて、一度は、おとぎ話の世界に留まった。
だが、琴子さんと大和君がかけがえのない大切な人になっていくと、俺はもう、おとぎ話の中に魅力を見つけられなくなってしまったのだった。
「父さんとの約束のせいじゃなく、俺は自分の意志で、ダンサーを辞めることにしたんだ」
もう一度決意を述べると、父は黙って腕を組んだ。
その双眸はまっすぐに俺を捕らえていて、一心に俺の真意を探っている。
おそらく、会話の手綱はまだ俺の手中だ。
いや、きっと父に握らされているのだろう。
それでもいい。
俺は今日、兄の婚約を祝うとともに、己の想いを父にぶちまけに来たのだから。
「ここまで言ってもまだ、父さんは、俺があの約束をクリアできなかったと思うかもしれないけど、父さんだって、俺がニューヨークのエージェントから声をかけられていたことは知ってるんだろう?母さんと兄さんがそれぞれ父さんに教えたと言っていたよ。俺はあの頃夢だったブロードウェイよりもFANDAKを選んだんだ。そして今度は、FANDAKのダンサーとは別の夢を見つけた。だから、ダンサーを辞めることにした。夢が変わるのは、悪いことじゃない。そうだろう?父さん」
父はフゥ…と息を吐いたかと思えばすぐさま「お前が今の仕事を辞めるのはお前の自由だ」と、至って淡々と告げた。
「だが、今の仕事を辞めたあとはどうするつもりなんだ?まさかうちに戻ってくるつもりか?」
「俺は………ダンサーを志す前は、父さんや兄さんと一緒に ”the Key” で働くことが夢だった。だから、ダンサーという夢を終えたあと、以前の夢をまた叶えたいと思ってる。だけどそんなの自分勝手な希望だし、あっちがダメならこっちみたいに見られるのかもしれない。でも…………人生は、いつ閉園時間が訪れるかわからないんだよ」
「……閉園時間だと?」
父の眉がヒクリと動いた。
「……俺は、大切な人を突然事故で失った人と出会ったんだ。その人は、親友が亡くなってから、自分には聞かされていなかった親友の悩みを知って、もっと早く気付いていればと激しく悔やんでいた。後悔してるのはその人だけじゃなくて、他にも、自分が何か行動していればもしかしたら事故さえも起こってなかったのかもしれないのにと、自分を何度も責めてる人もいた。あのときああしていれば、こうしていれば、逆に、ああしていなければ……人間の後悔なんていつだってきりがないけど、それは生きているからできることなんだ。もし、明日、人生の閉園時間が来てしまったら、もうそんな後悔すらできなくなってしまう。死んだら、夢を叶えることも、大切な人を守ることも、一緒にいることも、ただ家族と笑い合うことも、全部できなくなるんだ。……そんなの当り前のことなのに、俺は、ずっと見過ごしていた。おとぎ話の世界に違和感を持ちはじめていながらも、自分で決断を下すのは後回しにして、父さんとの約束だって、もしかしたら時間切れになるのを待っていたのかもしれない。だけど、現実の世界は、いつ何が起こっても不思議じゃないんだ。今日の当り前が、明日も当たり前とは限らない……それを痛いほどに感じたから、俺は、例え周りが何と言おうと、どんな風に見られようと、自分の気持ちを行動に移すことにしたんだ」
腕を更に絡ませた父は、両目を閉じて俺の想いを聞いている。
「もちろん、そう簡単に ”the Key” に入れるとは思ってないし、例え出来ても出戻りの俺に風当たりが強いだろうことは覚悟している。態度で示せというのなら何だってするよ。でもダンスに飽きたからとか、父親が社長ならとか、そんな軽い気持じゃないことだけは頭に入れておいてほしいんだ。俺は物心ついたときからずっと ”the Key” が生活の中に溢れていて、そばにあるのが当たり前になってたけど、だからこそ、”the Key” の使い勝手や心地よさは、決して当たり前なんかじゃないんだと感じていた。絶対に贔屓目なんかじゃなくて、とにかく俺は、ダンサーになる前もなってからも、ずっと ”the Key” のファンだったんだ。……今何を言ったところで、父さんには言い訳がましく聞こえるかもしれないけど、俺がFANDAKを辞めることと、”the Key” で働きたいと思っている事実は伝えておきたかったから」
ひとまず、腹にためていたことはすべて吐き出せたと思う。
この後は父の判断に委ねなければならないが、例えNOでも諦めるつもりはない。
ただ、今日この場を父との対話に使わせてもらったことには改めて詫びを伝えなければと、俺は兄と婚約者のレイラに向き直った。
「兄さん、それからレイラさん、せっかくの祝いの席なのに、俺のために時間を使ってしまって、すみませんでした」
座ったまま頭を下げると、二人からは「気にするな」「お話しできてよかったですね」と温かい言葉が返ってきて。
だが、その後の会話の手綱は父に取り上げられてしまったようだ。
父はたっぷりと沈黙を泳がせていたが、にこやかにしていた兄と婚約者の表情を、短いたった一言で塗り替えてしまった。
「話は終わったか」
腹の奥に響くような低音だった。
俺は肯定の代わりに父と視線を合わせた。
すると父は、厳しい面持ちは崩さないままで、けれど拍子抜けするほど簡単に俺を許したのだ。
「いいだろう」
「え?」
まったく予想してなかった返事に、俺は耳を疑った。
「何でもすると言ったが、それは本当だな?」
「ああ、ああ本気だ」
だがこの父が、何の条件も付けずに俺の我儘を迎え入れるわけはなかったのだ。
「なら、今の仕事を終えたらうちに来るといい。ただし――――――――」




