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その瞬間、市原君の肩がビクリと揺れた。
「あ、大和君だめよ。まだみんなお話し中だからね」
大和の後ろから職員の焦り声が追いかけてくると、園長が「琴子ちゃん」と一言だけ呼んだ。
念のため大和の保護者である私に伺いを立ててくださったのだろう。
市原君と大和を対面させるタイミングは私次第だと言われているようで、だけど私の中ではもうとっくに答えは出ていた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
私は職員の方にお辞儀をし、大和を迎え入れた。
「わあ、ささもりさんとわくらさんもいる!」
「こんにちは、大和君。いや、まだおはようの時間だったかな?」
とことことこと急ぎ足でテーブルにまでやって来た大和に、まず笹森さんが挨拶した。
椅子に座っているのに、さらに身を屈めるようにして大和に合わせてくれる。
すると和倉さんも「大和君、おはよう。お友達とたくさん遊べたかい?」と、普段通り柔和に接してくれる。
背の低い大和からは、奥にいる市原君はまだ見えないのだろう。
大和は「じゃあ、おはようこんにちはだね!みんなといっぱいあそべたよ!」と満面の笑顔で返し、次に、蓮君の膝にある薄ピンクのブーケを指差した。
「あ、ぼくがお母さんにあげるお花だ」
言うなり、可愛らしい手でブーケを持ち上げると、「琴ちゃん、お母さんはどこにいるの?」まっすぐにそう尋ねてくる。
私は横目で市原君がこちらを振り返らないのを確認し、どう答えたものかと逡巡していると、その隙に大和は「レンお兄ちゃんとお母さん先生はぼくのお母さんがどこにいるかしってる?」と濁りない純真で二人に問いかけた。
母親のために自分で何かしてあげた、ということが、よほど嬉しいのだろう。
それは理恵の死後、はじめてだったから。
ところが、嬉しさのあまり気持ちが先走った大和は、私が答えるよりも早く、辺りをきょろきょろと見まわし、理恵を抱きしめて床に膝をついていた市原君に気が付いたのだ。
「あれ?ねえ琴ちゃん、あのひとはなにしてるの?―――あ!」
私に訊いてきたはずが、大和はハッとした表情になるや否や、テーブルをぐるりとまわり、駆けていく。
「大和?」
「大和君?」
私や蓮君の呼びかけにも足を止めず、大和は市原君のもとに急ぐと、背中側から覗き込むようにして声をかけたのである。
「どうしたの?お兄ちゃん、泣いてるの?おなかいたいの?」
そのセリフの通り、心配そうに、市原君の前にまわりこみ、スッとしゃがんだ大和。
市原君の肩が、また揺れる。
「お兄ちゃん?」
俯いたまま返事をしない相手に、こくん、と首を傾げる。
大和は市原君の姿をどう感じたのか、自分の持っていたブーケから、えいっ、と一本の花を引き抜いたのだ。
そして目の前で涙を流す大人の男性に、自分よりも何倍も大きな相手に、
「はい、これあげる。これね、ぼくがお母さんのために選んだお花なんだ。だけど、お兄ちゃん泣いてるから、あげる。おともだちが泣いてたら、やさしくしてあげなさいってお母さんが言ってたから。お兄ちゃん、げんき出して」
可愛らしくも大きな包容力で慰めの言葉をかけたのだった。
「俺に………そんな大切な花を、くれるのかい?」
市原君は、隠し切れない涙声で大和にはじめて声をかけた。
けれど大和は対照的ににこにこ声で。
「うん、いいよ!お母さんもきっとおこらないと思うよ。だから、はいどうぞ!」
もう一度差し出され、市原君は肩を震わせながら、鼻を何度もすすりながら、その一本を受け取った。
左腕に、小さな理恵を抱きしめたまま。
大和は花を渡せたことに満足げで、「お兄ちゃん、もうおなかいたくない?」と無邪気に確かめる。
そして続けて「あれ?それなあに?」と市原君の抱えているものを目で指した。
私は、今がそのタイミングだと察した。
「大和。そのお兄さんの持っている入れ物の中に、理恵の…大和のお母さんのカケラが入っているのよ」
意識して普通にそう告げた。
けれど意識した普通なんて、もう普通ではないのだ。
自分でも上擦っている声が聞こえたから。
理恵の死を徐々に理解していってる途中の大和に、遺骨の説明をどうすべきなのかはこの瞬間まで判断できていなかった。
けれど、市原君が大事そうに理恵を抱きしめているのを見て、自然とその言葉が口を突いて生まれていたのだ。
「お母さんのカケラ?お母さんは死んじゃったんじゃないの?」
大和はまたもやこてん、と小首を傾げた。
「うん、そうだよ?だから、お母さんの姿は目に見えなくなっちゃったんだよね」
「じゃあ、カケラってどういうこと?」
両手でしっかりと薄ピンクのブーケを握りながら訊いてくる大和に、私は席を立ち、ゆっくりとテーブルをまわりながら説明した。
「例えば、大和が今持っているお花にも、人間と同じように命があるのは知っているでしょう?その花達も、しばらくしたら元気がなくなって、」
「かれちゃうね」
「そう。それが人間だと ”死ぬ” ということなのはわかるわよね?」
「うん。この前レンお兄ちゃんがおしえてくれたよ」
「そうだね。でも、お花は枯れたからといって、すぐに消えてなくなっちゃうわけではないでしょう?大和は枯れたお花を見たことがある?」
「うん、あるよ。色がかわって、カサカサしてた」
「その枯れたお花を見て、大和はどう思った?」
「んーと……かわいそうだなって」
「そう。じゃあ、もし大和が大切に大切に一生懸命お水をあげて育ててきたお花だったら、どう思ったかな?」
「え?えっと………なんかイヤだなって思う。かなしいし、さびしいよ」
「そうだね。できることなら、消えないでいてほしいって思うよね」
「うん……」
「大切だから、全部なくならないでほしい。そう思ったら、お花を少しだけ残すこともできるの。押し花とか、ドライフラワーって聞いたことない?」
「しってるよ!前の保育園の先生がやってくれたことある!」
「そうなんだ?じゃあ、そうやって、全部なくならないでほしいって思う気持ちはよくわかるよね?でもそう思うのは、お花だけじゃなくて、人間でも同じなの。だけど、いくらなくならないでほしいって思っても、お花も人間も、みーんな残していたら、大変なことになっちゃうでしょう?だから、ほんの少しだけ、小さく小さくして残すのよ。どうやって小さくするのかは、大和にはちょっと難しいと思うから、もっと大きくなってから教えるわね。それで――――」
市原君と大和の真後ろにまで辿り着いた私は、二人と同じく、そこに屈んだ。
「―――そうやって、大和のお母さんも、小さく小さくなって、体のカケラが、その中に入っているのよ」
わかった?
今ここで私が涙を見せるのは違うと思い、懸命に堪えながら、なるべく大和に添った言葉を選んでいった。
すると大和は「そっか、わかった」と大きく頷いてくれたのだ。




