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おそらく、たまたまブーケの話題になったので、園長は何とはなしに市原君にそう尋ねたのだろう。
私はそう思っていた。
だって、理恵が花にあまり興味がなかったことは、理恵とある程度親しい間柄なら誰もが知っていただろうから。
ところが、市原君は私の想像とはまるで異なる返答をしたのである。
「工藤が好きだった花は………全部、じゃないですか?」
「え?」
反射的に、声が漏れ出していた。
多少の尖りがあったのは、無意識だ。
「全部って、どういう意味?」
理恵は、植物音痴の私でも見分けがつくカーネーションとバラをしょっちゅう間違えるほど、花について関心が薄かったのだ。
私にも『好きな花を訊かれたも名前を覚えてないから答えられないのよね』なんてふざけた調子で言っていたほどなのに。
訝しむ私に対し、何がそんなにおかしいのかと、逆に市原君こそ訝しげに問い返してきた。
「え……そのままの意味だけど?俺、何か間違ったこと言った?」
テーブルを挟み、かなりの温度差で会話を運ぶ私と市原君の間に、私達以外で唯一生前の理恵を知る笹森さんが割って入ってくる。
「確かに、工藤さんはあまり花を好むタイプではなかった気がするな。花が嫌いとうわけでもなかったが、もっと実用的なものを求める印象だ。違うかい?」
「いえ、その通りだと思います。理恵も私も、自室に花を欠かさないようなタイプではありませんでしたから」
「そうね。理恵ちゃんは、子供の頃からいろいろ苦労もしてきたから、花を生けて愛でるような時間はあまり持てなかったのかもしれないわね」
園長はしんみりと、だけど温和に言ってから、もう一度市原君に問いかける。
「それで、市原さんは、どうして ”全部” と答えたのかしら?」
「それはあいつが、あ…工藤が、そう言ってたからです」
「理恵ちゃんが、何て言ってたのかしら?」
「確か……今みたいに何の花が好きかという話になったときに、工藤は、『私のために選んでくれた花ならなんでも好きになると思う。だからそういう意味では、私の好きな花はこの世界にある花全部ね―――――』と」
理恵が、そんなことを……?
初耳だった。
けれどそれを聞いた園長は、ふわりと笑ったのだ。
そしてお茶を運んできたトレーをテーブルの端に置くと、まるで胸を撫で下ろしたような安心顔になった。
「どうやらあなたは、間違いなく、正真正銘、大和君のお父さんでいらっしゃるようね」
「え……?」
戸惑うのは市原君だけではない。
私も園長のセリフの真意は読み解けなかったし、きっと笹森さんだって同じだろう。
当然、私達にわからないのだから蓮君や和倉さんにだって見抜けるはずもなく。
全員が困惑する中、園長はテーブルをぐるりとまわり、市原君のすぐそばに立った。
そしてどこに隠し持っていたのか、そっと両手で、白い封筒を差し出したのだ。
「理恵ちゃんからあなたに………大和君のお父さんが訪ねてきたらお渡しするように頼まれていた手紙です」
市原君はまさかそんなものがあるとは夢にも思っていなかったのか、絶句しながらも、震える指先でその手紙に触れた。
私さえその手紙の存在は知らされておらず、何とも言い難い複雑な感情がじわりと浮かんでしまう。
その感情は正直過ぎたのだろう、園長が私に向かい「黙っててごめんなさいね」と言ってくださった。
「いえ……」
咄嗟に首振るも、園長には私の心境は手に取るように悟られているようだった。
「琴子ちゃんも、市原さんも、聞いてほしいの」
園長の言葉に、手紙を大事そうに握りしめ見つめたままの市原君も、そろそろと園長を見上げた。
「理恵ちゃんは、大和君を授かってから、万が一のことを考えて細心の備えをしていたのは知っているわよね?そのうちの一つで、私はこの手紙を預かったの。もちろん中は読んでないわ。だけどその手紙に宛名はないし、理恵ちゃんが言うには、中にも特定の人物の名前は書いてないそうよ。理恵ちゃんは、もし自分が亡くなったあと、大和君の父親がここを訪ねてきたら、その手紙を渡してほしいと言ったの。だから私は、どうやってその人が大和君の父親だと判断するのかと尋ねたわ。赤の他人が父親に成りすますことだってできるし、唯一父親を知ってる理恵ちゃんがいなかったら、本物かどうか見分けなんかつかないと思ったの。でもそのとき、理恵ちゃんは二つの条件を教えてくれたのよ。一つ目は、父親と名乗る人物が、必ず琴子ちゃんと一緒にここを訪れること。そのときにはもう自分の遺骨はここにないかもしれないけれど、例えそうだったとしても、もし本物の父親なら、きっといつかは、琴子ちゃんと一緒に園長の私に会いにここにやって来るはずだと言っていたわ。よほど大きな確信があったようね。そして二つ目の条件が、さっきの好きな花の質問。理恵ちゃんはその人が誕生日に花束をプレゼントしようかと言ってくれたとき、とっても嬉しくて、だから、本当はあまり花に興味がないとは答えたくなかったらしいわ。それで、さっき市原さんが仰ったみたいなことを答えたんですって。でもそれは嘘じゃないの。理恵ちゃんは花には詳しくなかったけれど、その人がプレゼントしてくれるなら、本当に何の花でも嬉しかったと言っていたから」
私の知らない親友が、そこにいる気がした。
少し寂しくも感じてしまうけれど、私だって、恋人や好きな人にしか見せない一面や態度があるはずで。
花を好まなくとも、名前を知らなくても、理恵はきっと、市原君から贈られる花束は特別だったのだろう。
「中を……読んでもいいでしょうか?」
おずおずと、市原君が問う。
「もちろんよ」
園長に促されて、丁寧に開封していった市原君は、徐々に、徐々に、乾いていたはずの両眼が露を抱えはじめていった。
便箋一枚。そんなに長くはないメッセージだ。
すぐに読み終えてしまったのだろう、市原君は便箋から藍を上げると、込み上げてくるものを必死に堪えてる相好で園長に尋ねた。
「工藤に、触れても……?」
園長はまた「もちろんよ」と頷いた
市原君は手紙を握りしめたまま、ゆっくり立ち上がり、小さな理恵に歩き出す。
やがて真正面まで来たところで、その場に跪いた。
「工藤………」
躊躇いがちに伸ばした両腕が小さな理恵にやっと届くと、市原君は愛おしそうに胸元に抱きしめた。
「工藤、ごめんな。俺が臆病だったばかりに……。お前が、一人で大和君を産んで育ててる間にも、俺はお前を忘れようと、別の人と付き合ったりもしてた……。でもだめだったんだよ。短い時間なら忘れられても、ふいにお前が頭に浮かぶんだ。俺………なんであのとき、お前に好きだって……フラれてもいいから、言っておけば、こんな………もうどうしようもないのに………。なあ、好きだよ。俺はやっぱりお前が好きだよ。ごめん………でも好きなんだ。好きなんだよ…………なんで…………」
市原君は、さっきとは打って変わって、じっと、静かに、静かに涙を流していた。
叫ぶわけでもなく、感情を爆ぜさせることもなく、ただ悲しみを纏って。
小さな理恵を抱く市原君の後ろ姿は、あまりにも切なくて胸がひび割れそうだけど、私は心の中で理恵に語りかけていた。
これで、二人の恋は実ったと思っていいんだよね―――――?
理恵………
すると、まるで親友からの返事のように、私の片方の目から一筋の涙が伝い落ちていった。
だがちょうどそのとき、
「あ―――っ!みんなここにいた!」
大和の元気いっぱいな声が入ってきたのだった。
誤字報告いただき、ありがとうございました。
訂正させていただきました。




