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「俺と一緒にって……、そんなのいつ見たんだ?」
「笹森さんと秋山さんが別れて少し経った頃ですよ。社内ではほとんど見かけませんでしたけど、終業後や休みの日、時々会ってましたよね?俺が偶然遭遇しただけでも数回はあったはずです。それに、ホテルで親しそうにしてるところも見かけました。工藤は顔を赤くさせてて、いかにも恋してますって感じでした」
すらすらと、今見てきたかのように説明する市原君に対し、笹森さんは「ああ……」と腑に落ちた目つきに変わった。
「俺と工藤さんをホテルで見かけたという、あれか……」
「……秋山さんから聞いたんですか?」
市原君は私をちらりと見てから、笹森さんに質問をぶつけた。
その温度から、彼の中では、笹森さんへの鈍色の感情が燻っているのを察する。
それはひとえに理恵への想いゆえだろう。
だけどそれは、市原君の誤解なのに。
私は思いきり ”そうじゃない!” と叫んでしまいたくなるのを、全力で宥めていた。
だってまだ、理恵との本当の関係を話してもらってないのだから。
それを市原君から確実に聞くまでは、私は感情を吐き出してはいけない。
例え、理恵の叶わなかった恋に胸が苦しくなっても、今はまだ、堪えなきゃ……
ぐっと理性をかき集めた私は、知らず、膝の上できつく拳を握っていたようだった。
隣りから蓮君の手のひらが添えられるまで気付かなかった。
蓮君は真綿のようにふわりと撫でてくれて、そのあと優しく離れていった。
私は、恋人に支えられながら、親友の叶わなかった恋の本当の行き先を見守った。
「ああ、そうだよ。お前が秋山さんに話したんだって?」
「いけませんでしたか?」
「いいや。ちっとも。俺が彼女と社外で会っていたのは事実だからな。お前が言うように、ホテルでも会ったことはある」
「じゃあ、やっぱり二人はそういう関係だったんですね?」
市原君はナイフを言葉で包んで笹森さんに向けた。
だけど笹森さんも私と同じで、誤解を解くよりも市原君の話を理恵にまで繋げることを優先させたのだ。
「だから、お前は自分の叶わない気持ちをダメもとで工藤さんにぶつけたのか?」
ギクリと、心が震えたのがわかった。
一気にそこに話を引き上げた笹森さんに、蓮君も和倉さんも、そして市原君でさえも、私と似たような反応が起こっているようだった。
「……そうです。そうですよ?でも昨日もお話しましたけど、別に強引に迫ったわけじゃありません。ちゃんとお互いの了承の上でした」
「了承の上なら、どうして関係を持った直後お前は何も告げず長期の海外出張に行ったりしたんだ?まるで彼女から逃げ出したようじゃないか」
「そんなことないです!」
「だが彼女からはそういう風に見えたかもしれないだろ?」
「そんなことない。だって俺達はそういうんじゃなくて、大人の…」
「大人の、体だけの関係だったと言いたいのか?」
「だってあいつは笹森さんのことが好きだったんですよ?笹森さんだって、秋山さんと別れてからあいつとそういう関係になったんじゃないんですか?あいつ、笹森さんのことで悩んでる感じだったから、それで俺が話を聞くよって誘って、そうしたらあいつ、『好きな人には好きな人がいて、自分は振り向いてもらえない。でもどうしても諦められなくて、せめて想い出に一度だけでも温もりを重ねたいと思うのはいけないことなのか……』みたいなことまで言って思い詰めてたんです。それって笹森さんのことですよね?だから俺は、そんなことないよって、」
「違うわ」
「――――え?」
とうとう堪えきれず、言葉がこぼれ出てしまった。
だけど思っていたような激しい感情ではなくて、ただ理恵の想いが一方通行でなかったことが嬉しくて、そして辛かった。
「違うわ市原君。それは、あなたのことだったのよ。市原君」
「―――――は?」
市原君が耳を疑うように力の抜けた声をあげた。
無理もないだろう、私だってはじめて聞いた時は信じられなかった。
理恵が市原君を好きだったこと、私は理恵から直接聞いたわけではないけれど、笹森さんはそんな嘘をつく人でない。
だからそれは真実のはずで。
だから、理恵は……
私は、今自分の感情の淵をよじ登ってくるものが何なのか、まったくわからなくなっていた。
「理恵の言っていた ”好きな人” というのは、あなたのことだったの」
「なっ、秋山さん何言ってるんだよ、冗談にしてもタチが悪いよ」
「冗談なんかじゃないわ。でも、信じられない気持ちもよくわかる。私だって、ついこの前笹森さんから聞くまではずっと、理恵が好きだった人は笹森さんだと思い込んでいたから。でも違ったの」
「そんなわけないだろ。工藤はずっと笹森さんのことを」
「お前はそれを工藤さん本人から聞いたのか?」
笹森さんが低く訊いた。
すると市原君は私に全否定していた勢いをとたんに落としたのだ。
「それは………でも、そんなの、」
「見てたらわかる、なんて不確かな答えは通用しないよ。俺は、工藤さん本人の口からはっきり教えてもらったんだからな」
「え………?」
市原君の表情が、みるみる凍り付いていく。
「確かに以前は、彼女は俺に好意を持っていたかもしれない。だが俺と琴子が付き合いだしてからはそんな素振りは一切ない。むしろ琴子とのことを心から応援してくれていた。彼女にとって琴子は誰よりも大切な存在だったんだ。だから、婚約が解消になって別れたときは、真っ先に俺を責めに来た。別れた事情を知っていた彼女は、どうにか修復できないのかと、自分のこと以上にあれこれ考えてくれたよ。その時の俺は、彼女にとって間違いなく、”大切な親友の恋人” という立ち位置でしかなかった。そして琴子ともう一度やり直したいと思っていた俺も、工藤さんのことを ”恋人の親友” として相談に乗ってもらっていたんだ。お前が偶然見かけたというのは、その時だろう」
「でもそんなの、工藤が秋山さんを気遣って嘘ついてただけかもしれないじゃないですか」
顔色を蒼白に染めながら、それでも市原君は一縷の可能性を訴えた。
私も、その可能性が過らなかったわけじゃない。
今も、その可能性が0になったわけじゃない。
だけど理恵は私に言ったのだ。
大和の父親のことをとても好きだったと……その人から大和に名前の一文字をもらうほどに。
つまり、理恵があの頃関係を持った人、その人物こそが、理恵の本当に好きだった人なのだ。
私は、あと一歩にまで近づいた真実に、呼吸が浅くなっていくのを感じた。
「そうだな。工藤さんなら、琴子のために自分の気持ちを隠すことだって有り得るだろうな。だが工藤さんは俺に、今好きな人がいると打ち明けたんだ。その相手の名前もな。もちろんそれだって嘘だったのかもしれない。でも俺には、どうしてもそれが彼女の演技には見えなかった。だって、その相手が親戚の結婚式で行くと言ってたから……そんな理由で、わざわざそのホテルのバーに一人で立ち寄ってみるなんて、どう考えても本気で惚れてるだろ?」
笹森さんの言った内容におそらく心当たりがあったのだろう、市原君は瞬きも忘れたように、笹森さんを凝視していたのだった。




