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市原さんから知らされた事実に、私は、居ても立ってもいられなくなった。
もう平常心を取り繕うことすら忘れた私に、市原さんは顔色が悪いと気にかけてくれたが、私は失礼のない範囲で切り上げると、その場を駆け出していた。
この事実を笹森さんは知らなかったのだろうか?
すぐにでも連絡したいところだが、それよりも先に蓮君に相談したかった。
大急ぎで家に戻ると、私の様子が明らかにおかしく見えたのだろう、蓮君は「お帰りなさい。お疲れさまでした」と出迎えてくれた直後、目つきを鋭くさせた。
「おかえりなさい!琴ちゃん」
「…ただいま。大和、今から私とレンお兄ちゃんでお昼ご飯の用意するから、大和はリビングで待っててくれる?」
「うん、わかった!」
無邪気な返事に、少しチクリとした。
蓮君は私の意図が理解できたのだろう、何も訊かず、すでに準備を終えているであろう料理に手を加えている風に装ってくれる。
私は大和がリビングに出しっぱなしだったおもちゃで遊びはじめるのを見届けてから、蓮君に振り向いた。
「どうかしましたか?」
小声で尋ねた蓮君は、私にコップ一杯の麦茶を差し出してくれた。
私は遠慮なくそれを喉に流し込み、その分だけ、すっかり行方不明になってしまった冷静を取り戻せた気がした。
「………今日の説明会に、市原さんという女性が出席していたの」
「え?市原って、あの市原さんの……?」
「お姉さんだったの」
「お姉さん……?」
蓮君は声のボリュームが上がってしまい、慌てて潜めた。
「……それで?」
「それで………、とにかく、笹森さんに確認したいことがあるの。事実が何なのか、ちゃんと正しい情報を知りたいの。だから、今から笹森さんに連絡しようと思ってるんだけど……」
「すぐにかけましょう」
蓮君の即答に私は安堵した。
そしてちらっとリビングの大和に視線を投げ、変わりない様子を確かめてから、蓮君の目の前で笹森さんに電話をかけた。
今日は土曜日だが休日出勤なんて日常茶飯事の笹森さんにすぐ繋がる確率は低いだろう。
それならそれで構わない。不在着信を残しておくだけでもよかった。
ところが、私の予想に反して呼び出し音は間もなくプツリと途絶えたのだった。
《―――もしもし?琴子?》
「もしもし。笹森さん、今お電話よろしかったですか?」
《ああ、大丈夫だ。俺も今夜琴子と北浦君に連絡しようかと思っていたところだ》
その言葉に、何かがピンとくる。
おそらく笹森さんの方でも新しい情報を得ているのだろう。
それを先に聞くべきか短い逡巡をしたが、笹森さんの《琴子。何かあった?》という問いかけにより、先手を受け入れることにした。
「実は今日、市原君のお姉さんとお会いしました」
《何だって?》
「来年度の新入園者の説明会があったのですが、そこに出席されていたんです」
《すごい偶然だな……》
「それが偶然ではなかったようです。どうやら市原君が私のいる園を勧めたらしくて」
《なるほど……。それじゃあ、琴子も市原の件はお姉さんから聞いたんだな》
「はい……」
私はじっとこちらを見つめている蓮君をしっかり見つめ返しながら、今日知ったばかりの真実を告げた。
「市原君は、結婚していなかったんですね」
蓮君が、息を飲みこむのを感じた。
《……ああ、そうだ。昨夜本人から直接聞いた》
笹森さんも驚いたような口ぶりだ。
けれどどこか淡々として聞こえてしまうのは、笹森さんが驚いた感情のまま立ち止まっておらず、そこから先のことを第一に考えているせだろう。
私よりもずっと具体的にだ。
《遅い時間だったから琴子に連絡するのは控えたんだ。それで今日、市原ともう一度ゆっくり話すことになっていたから、そのあとで北浦君と琴子に報告の電話をするつもりだった》
「今日ですか?いつ?もう終わったんですか?」
飛びかかるように質問を重ねた私にも、笹森さんは落ち着き払っていた。
《いや、これからだが…》と答えると、少し思案した様子を覗かせて。
そして言った。
《琴子も来るかい?》
「いいんですか?」
《それが一番いいだろう。北浦君も一緒だと尚よかったのかもしれないが、》
「蓮君なら今一緒にいます」
《……そうか。それなら話は早い。市原とは俺の家で会うことになっていたんだが、北浦君は嫌がるかもしれないな。………和倉に頼んでみるか。市原とも面識があるし、琴子もその方が近いからいいだろう?大和君はどうする?》
「市原君には、大和のことは話してるんですか?」
《いや、まだだ。工藤さんとそういう関係だったというところまでしか聞いていない。あいつも色々と思うことがあるようで、昨夜はそれ以上の追及はできなかった》
「そうですか……。でもそれなら、理恵が亡くなったことは…」
《もちろん………話せていない》
なぜだか唐突に、目の奥がツンと痛くなってしまう。
どうしてこのタイミングで涙腺が刺激を受けてしまうのだろう。
しっかりしなくては。
私は理恵の不在を握りしめながら、笹森さんに返事をした。
「………わかりました。大和は、実家の母にお願いしてみます」
すると蓮君がそっと私の肩を抱いてくれた。
笹森さんの声は聞こえていないのに、蓮君には会話の全容だけでなく私の感情の機微までもが察知されているようだった。
最初から通話をスピーカーにしておくべきだった、そんなことにも気が回らなかったなんてと、私は自分の狼狽えっぷりを恥ずかしく思いながらも、笹森さんとこのあとの段取りを交わし電話を切った。
スマホを下ろすや否や、
「琴子さん、俺も一緒にいます。厳密に言えば無関係な立場ですけど、琴子さんを一人にはできませんから」
有無を言わせない蓮君の抱擁が容赦なく私を励ましてくれた。
蓮君の腕の中、私は気持ちを込めて伝えた。
「ありがとう…」
彼の存在には本当に支えられっぱなしだ。
そしてもう一人、私の心を強くさせる存在が、痺れを切らしたようにリビングから訴えかけてきた。
「琴ちゃん、レンお兄ちゃん、ごはんまだ――っ?」
可愛らしいクレームに、私と蓮君は顔を見合わせて、クスクス笑みをこぼした。
………大丈夫。すべての真実が明らかになっても、私が守るものははっきりしているのだから、大丈夫。
しっかりと自分に言い聞かせながら。




