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エレベーターに乗り込むと、蓮君は「勝手なことして、すみませんでした」と細めの声で言った。
年下なのに年上に感じるほど頼りがいのある蓮君が、しゅんとして目を伏せがちなんて、こんな姿なかなか見られないだろう。
ある意味新鮮で、新たな一面を知れたことは考えようによっては良かったのかもしれない。
けれども。
「本当だよ……。私、怖かったんだから」
「え?」
パッと顔を上げた蓮君。
「だってあれから蓮君にずっと避けられてて、もう、取り返しがつかないことをしたんじゃないかって、すごく怖かった」
「琴子さん………すみませんでした」
「ねえ蓮君。蓮君は、もし本当に大和の父親が笹森さんだったときは、私と別れるつもりだったの?」
今さらそんな追及は蓮君を追い詰めるだけだと承知してるのに、どうしても訊きたくなってしまう。
本気で、私と別れる意志があったのかを確かめるために。
蓮君は口を噤んでしまった。
その間にエレベーターは私の部屋のフロアに着いてしまって、無粋に扉は開いていく。
だが私の中には、ここで蓮君を見送るという選択肢はなかった。
「それ、うちで一緒に飲まない?」
「え…?」
「その茶葉、母にいただいたものだけど、やっぱり笹森さんからのお土産を実家に持っていくのは、ちょっと……」
私がエレベーターの扉を開いたままにして紙袋を指差すと、蓮君は躊躇いを覗かせた。
蓮君はああ、と納得いった顔をして、でもすぐにまた迷いを滲ませた。
「……でも今夜は大和君いないんですよね?」
「そうよ。だから二人で、ちゃんと話がしたいの」
「それなら、外で話しませんか?」
明確な拒否反応に、にわかに怯んでしまう。
けれど、今話さないとだめになりそうで、怖かった。
「外だと誰が聞いてるかわからないわ。大和の話をするなら、万が一ということは避けたいの」
すると蓮君は数秒の思案後、「わかりました」と、一緒にエレベーターを降りてくれたのだった。
「もしかしてこの後何か用があったの?」
部屋の鍵を開けながら何とはなしに尋ねた。
もうすぐ9時になるところだが、蓮君の職業柄、この時間からの仕事もじゅうぶんあり得る。
「いえ、それは大丈夫です」
「そう?それならいいけど、なんだかうちに来るのを避けたいようだったから……どうぞ、入って」
蓮君は私の後に続きながら「おじゃまします」と言ったけれど、玄関ドアが閉まるなり、「この前この部屋に来たのも、大和君のいないときだったので……」と、体裁が悪そうに説明した。
「そういえばそうだったわね……。あの日はちゃんと話せなくてごめんなさい。今日はちゃんと話をしましょう?」
「いえ、俺が言ったのはそういう意味だけじゃなくて……」
「え?」
ぼそぼそと呟いた内容は私にははっきり聞こえず、問い返したのに蓮君は「いえ、いいんです」とはぐらかしたのだ。
その反応が気にならないわけではなかったけれど、今はもっと話したいことがリストから溢れかえっていたので、私も特に拾い上げることはしなかった。
「そう?じゃあ、お湯沸かしてくるから、座って待ってて」
電気ケトルに溜まる水を眺めながら、これが沸騰するまでに、蓮君に話したいこと訊きたいことを整理しておかなくては…と思っていた。
お茶のセットをトレーに乗せリビングに向かうと、蓮君はソファーには座っておらず、テレビボードに立ててある理恵の写真をじっと見つめていた。
「―――蓮君」
呼ぶとすぐにこちらに顔をまわしたけれど、その瞳は切なげに潤んでいるようにも見えた。
こんな時に場違いな感情だとわかっていても、私は、目と目が合った蓮君を、やっぱりかっこいいなと思ってしまった。
好きだな……私はやっぱり蓮君が好きなんだなと、改めて心に刻みつける。
そして、なんだかとても、理恵に自慢したい気持ちになった。
私が笹森さんと別れたことで、自分のことのように心を痛め、きっとものすごく心配してくれていた親友に、今私が心から大切だと思える人を胸を張って紹介したかった。
私はトレーをテーブルに置いて、蓮君の隣りに並んで。
「………理恵、紹介が遅れたけど、こちらは北浦 蓮さん。私の恋人よ。FANDAKでダンサーをしているの。素敵な人でしょう?でもかっこいいのは外見だけじゃないの。中身もすっごくかっこいいの。だってね、私の実の子供じゃないのに、私が親友から託されて大切に育てている大和のことを、私と同じように大切に想ってくれる人なのよ。あまりにも大切に想ってくれるせいで、大和のために私と別れようとしたくらいなんだから。でも大丈夫。ちょっとした行き違いがあっただけで、心は離れてないってちゃんとわかってるから。だから心配しないでね?これからは………大和の父親のことで、ちょっといろいろあるかもしれないけど、私と蓮君は必ず二人一緒に、大和のことを守っていくから。理恵に心配させちゃうことがあるかもしれないけど、どうか見守ってて?」
笑顔のまま時を止めた親友に明るく穏やかに語りかけた。
すると蓮君はすっと私の手を握ってきたのだ。
だけど顔は私から写真立ての理恵に向き直った。
「はじめまして、北浦 蓮といいます。琴子さんと真剣にお付き合いさせていただいてます。大和君も、仲良くしてくれてます。大和君、いい子ですね。素直で優しくて可愛らしい。理恵さんのことも、よく話してくれます。もちろん、琴子さんからも理恵さんのことをよく聞いてますよ。今も、これからもずっと大親友だと言ってました。それから、今琴子さんが話したことなんですが、俺から少し訂正させてください」
蓮君の手が、ピクリと力を込めて動いた気がした。
「………俺は、琴子さんがいつも自分のことより大和君のことを一番に考えているのをそばで見てきました。だから俺も、自分より大和君を優先させるのは、自然のことでした。でも……それは結局、俺の独り善がりだったのかもしれません。琴子さんに相談して、二人で話し合っていれば、もっと別の方法が浮かんでいたかもしれません。そうしていたら、いくら大和君のためだったとしても、俺が琴子さんと距離を置こうなんて暴走は起こらなかったかもしれないのに……。今になって、もし俺の暴走があのまま突っ走ってたら取り返しのつかないことになってたかもしれないと、怖くなってきました。そのうえ、大和君のお父さんのこと、笹森さんのこと、琴子さんと話したいことは山ほどあるのに、何から話したらいいのかわからないんです……。情けない男だと思われますか?仕方ありません。自分でもそう思うくらいですから。だけど、………だけど、琴子さんが好きなんです。大和君のお父さんのことを聞く前も、後も、今日笹森さんに会いに行ったときも、今も。俺が琴子さんを好きな気持ちはずっと変わりません。どうかそのことを知っておいてほしいです。琴子さんの親友の理恵さんに―――――」
蓮君は私の手を引き上げる。
それから今度は私を見つめて。
「―――そして、琴子さんにも」
まっすぐに届けられる想いは、戸惑いや驚きの連続だった今夜の中でもずっとそばに在ってくれたのだと、蓮君の眼差しが教えてくれていた。




