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笹森さんは私がそう訊くのがわかっていただろうに、どう答えるべきか考えあぐねているようだった。
「………それは、今は言えない。琴子が知りたがるのは当然だと思うけれど、俺の推測でしかない今の段階では、おいそれと名前を持ち出すことはできないよ」
躊躇いがちながらもキッパリと拒否した笹森さんに、頷ける部分もあった。
私だって、もし笹森さんが既婚者だったら、きっと大和のことを話せずにいたと思うから。
その ”理恵の好きな人” というのが、今現在どういう状況なのかもわからない以上、不用意に名前を挙げるべきでないというのは正しいのだろう。
だけど私の事情はそうではないのだ。
「それはそうかもしれませんが、じゃあせめて、理恵がその人と恋人関係にあったのか、ちゃんと付き合っていたのか、それとも理恵の片想いだったのか、それくらいは教えてもらえませんか?」
どうにか情報を得ようと食い下がった。
もし付き合っていたのなら、理恵の残した物の中に手がかりが見つかるかもしれない。
大和の父親は笹森さんだと信じ切っていた私は、他のメールや手紙、手帳の類は理恵のプライバシーだからと手をつけずにいたのだ。
けれどそんな淡い期待は、笹森さんがあっさりと断ち切ってしまった。
「それも含めて、今は何も言えない。悪いけど、ここはどうか、俺に任せてくれないか?」
まるでミーティングで割れた意見をひとまず取りまとめる時のような、その場しのぎにも聞こえる言い方に、私は酷く苛立った。
「どうして大和とは無関係だった笹森さんが仕切るんですか?私は何も、その方に大和の存在を知らせるつもりもありませんし、例えご家庭をお持ちでも独身でいらっしゃっても、その方にご迷惑になるような振る舞いはしません。認知を求めてるわけじゃないんです。ただ私は、大和の父親が誰なのかを知っておきたいだけなんです」
感情的になったのは否定しない。
だけどどうしてもそこは譲れなかったのだ。
今ここで聞いておかなければ、もしもの時に後悔するかもしれない。
だからどうしても、例え間違いだったとしても、可能性があるのなら知っておきたいのだ。大和の父親かもしれない人物の名前と、居場所を。
「琴子……」
笹森さんは困ったように眉を動かしたけれど、蓮君は私の手を握ったまま「俺、琴子さんは大和君の父親を知りたくないんだと思ってました」と意外そうに言ったのだ。
「だって、琴子さん俺に前言いましたよね?大和君はずっと一緒にいられるとは限らない、もしかしたら実の父親が現れて引き取るかもしれない…って」
「それは……」
ちらりと笹森さんを横目で掠め見ると、向こうは何やら察した風だった。
「……そのときは、大和の父親は笹森さんだと思い込んでいたから、そうしたら大和も一応は笹森家の跡取りになるでしょう?だから、もし笹森さん…のご家族に大和の存在を知られたら、引き取りたいと言い出されるかもしれない、もしそうなったら、今の私には拒否する資格はないから……」
「でも、それは間違いだった、でしょう?」
「ええ、そうね……」
「だったら、今はもう大和君を引き取ると言い出す人は誰もいないんですよ?いつか大和君を引き取りたいと言われるかもしれない、そんな心配をなくすためにも、父親が誰なのかを知らないままの方がいいんじゃないんですか?」
ぽんぽんと握った手を叩き、気が高ぶりかけていた私を宥めるように蓮君が優しく言ってくれた。
彼の思いやりは嬉しいし、そこに私への愛情も感じた。
けれど、私にはどうしても頷けない理由があるのだ。
「……確かにその通りかもしれない。でも、私には大和の父親が誰なのか知っておく必要があるの」
そこだけは譲れない。
意志の強さを前面に表して告げると、蓮君は手を止めて、少しだけ驚いた目をした。
けれど蓮君が何かを言う前に、和倉さんが「ひょっとして……」と神妙な面持ちで口を開いたのだった。
「大和君は、何か病気を患っているのかい?」
「え?」
声を上げたのは蓮君で、笹森さんは何か会得した様子で顔色を変えた。
「琴子さん、そうなんですか?大和君どこか悪いんですか?」
血相を変える蓮君に、今度は私がトントンと手の甲を叩いてみせた。
「違うのよ、蓮君。大丈夫だから心配しないで?」
「本当ですね?大和君は健康なんですね?」
「そうね、今のところは問題ないわ」
「でも、いつ移植や遺伝子検査を必要とする病気になるかわからない。琴子はそれを気にしているんだね?だから、父親本人には知らせずとも、誰が父親なのかは知っておきたいんだろう?万が一の時のために」
横から入ってきた笹森さんが、私が蓮君にすべきだった説明をすべて賄ってくれた。
「……その通りです。私は長い間乳幼児と接していましたから、何度かそういった場面にも遭遇していますし、直接関与してなくても聞いた話は意外と多いので……」
「そうだね、確かに医療の場において非血縁者よりも何かしら適合率が良い事例はいくらでもあるはずだ。琴子ちゃんはそういったことも憂慮していたんだね」
和倉さんは弁護士という仕事柄、色々な症例を見てこられたのかもしれない。
けれど蓮君だけは、そんなこと思いつきもしなかったと落胆の色を忍ばせた。
「俺………今笹森さんに教えてもらうまで、全然わかりませんでした……」
「それは仕方ないわよ。健康に過ごしてきた人なら誰も思いつかないと思うもの」
本心からそう言った。
すると和倉さんも続いた。
「俺だってたまたま仕事でちょっと関わったことがあるから知ってただけで、普通はそこまで思い至れる人なんかいないよ。でも琴子ちゃんは、さすが子供相手の仕事をしてるだけあるね」
和倉さんは褒めてくれたのだろうけど、私の笑みはぎこちなくなってしまった。
「ただ、心配性なだけですよ。私は昔………、ちょっとした病気で入院したことがあるので、いつどんな病気になるのかわからないと肝に銘じているんです」
そう告げた瞬間、隣と正面からは息を詰める気配がした。
けれど何も知らない和倉さんだけは、「へえ、そうなんだ」と感心したように返してきた。
これは今取って付けた言い訳でも何でもなくて、事実、私は心からそう思っていたのだ。
病気にならない可能性と病気になる可能性は、いつだって五分五分なのだから。
「琴子さん…」
そっと囁く蓮君に、私はもう一度手を叩いた。
そんなに心配しないで。
そう気持ちを乗せながら。
この場でもう一人私の事情を知っている笹森さんの目が気にならないわけではないけれど、私はただ、蓮君の手を取りたかったのだ。
そして和倉さんからは、
「そういうことなら、琴子ちゃんが大和君の父親を知っておくのは養育者としての責任とも言えるんじゃないか?」
強烈な後押しをもらえたのである。
「どうなんだ?笹森。もしお前に心当たりがあるなら、琴子ちゃんに教えてあげてもいいと思うけど?琴子ちゃんは必要に迫られない限りはその名前を表には出さないはずだ。それともお前は、琴子ちゃんが相手の男に何かするとでも思ってるのか?」
「そんなわけないだろ」
食い気味の即答に、私はささやかにホッとした。
「琴子が何かするなんて微塵も思っていない。ただ………」
とても言いにくそうに語尾を空気に溶かした笹森さん。
まるで迷いが具現化したような仕草で腕を組み、片方の指を顎に当てて思案の姿勢を見せた。
「ただ……何なんだ?」
待ちきれず、和倉さんが強く促す。
それでも笹森さんは「いや……」と言い淀んだ。
ここまで言いにくい相手となると、私の頭の中に過る人物が一人だけいた。
「………その方は、私も知ってる方なのではありませんか?」
思ったことをそのまま述べると、笹森さんは短く息を吐いた。
それは、私が思い浮かべた人物と笹森さんの心にある人物が同一であるという知らせに聞こえた。
「理恵が好きだった人は…………市原君、ですね?」




