最強の除霊師
そこは、異様な風景だった。
二人の目の前には、家があった。一見すると、ごく普通の民家である。二階建てで壁は白く、小洒落たデザインの塀に囲まれていた。広くはないが庭もある。中から、子供の声でも聞こえてきそうな雰囲気だ。
しかし、近所には家がなかった。家の両隣は更地になっているし、周囲を見渡しても住居と呼べるようなものはない。この家だけが、ぽつんと建っていたのだ。
そんな不気味な家の前に、二人の男女がいる。女の方は二十代半ば、あるいは三十代だろうか。髪は肩までの長さで、意思の強そうな顔立ちである。ビジネススーツを着ており、緊張した面持ちで口を開いた。
「鷲尾先生、どうでしょうか?」
おずおずと尋ねると、男は首を横に振る。年齢は五十代、和服姿で長い髪を後ろで束ねている。また、濃い髭が口の周りを覆っていた。目つきは鋭く、筋骨たくましい体つきだ。武術の師範のごとき雰囲気を漂わせている。
もっとも、この鷲尾道齋の職業は武術家ではない。
「私は、除霊師を始めて三十年になります。しかし、こんなものは初めて見ました……これは、ただの霊ではありません。もはや、人間に害を為すためだけに存在している悪霊です。しかも、時とともに霊の数も増えているようです。今、この瞬間にも強さを増しているのですよ。放っておいたら、この町そのものを滅ぼしかねません」
重々しい口調で、鷲尾は答えた。
「そんな、恐ろしい……今すぐにも、お祓いをお願いします」
女の言葉に、鷲尾はかぶりを振った。
「申し訳ありません。私には無理です」
すると、女の表情が変わる。
「ちょ、ちょっと待ってください! どういうことですか!?」
「言葉の通りです。私には、ここに棲む霊を祓うことなど出来ません。奴らには私の力など、全く通用しないでしょう。たとえるなら、巨大な白鯨モビィ・ディックを小舟と銛だけで仕留めんとするようなもの。一瞬で返り討ちに遭うだけです」
すると女は、縋り付くような顔つきで鷲尾の肩に触れる。
「私たちには、先生しかいないんです! これまで、何人もの霊能者や祈祷師に頼みましたが、ことごとく失敗しました……もう、先生しかいないんです! 何とかしてください!」
「いくら頼まれても、無理なんですよ。私では、太刀打ちできません。ただ、あの人なら……」
「いるのですか? 祓える人がいるのですか?」
必死の問いに、鷲尾は頷いた。
「鬼を狩るには桃太郎、白鯨を狩るにはエイハブ。この家に憑いた霊を祓えるのは、私の知る限り……あの男しかいません」
「あの男、とは?」
「私の知る限り、日本最強の除霊師です。彼で祓うことが出来なければ、誰の手にも負えないでしょうね」
「でしたら、是非その人にお願いします!」
「お願いするのは構わないのですが……ただ、ひとつ問題があります。その男、大変な変わり者なんですよ。筋金入りの偏屈者でして、機嫌を損ねると終わりです。向こうが何を言おうと、黙って従ってください。いいですね?」
「わかりました」
数日後、女の前に奇妙な男が現れた。
年齢は四十歳くらいか。恐らく、五十歳まではいかないだろう。鷲尾より年下に見える。身長は高く、百八十センチを優に超えている。手足も長くスラリとした体型で、今風ではないが顔立ちも悪くはない。古い映画に登場する二枚目俳優、といった風貌だ。もっとも、その鋭い眼差しからは、気難しい性格であろうことが窺える。
「どうも、上野弘志です。あなたが、鷲尾さんの言っていた沢崎さんですね」
愛想など欠片ほども感じられない口調で言うと、男は軽く会釈した。女も、ペこりと頭を下げる。
「は、はい、沢崎夏美です。あの、今回の件を引き受けていただけるのでしょうか?」
「仕方ない。引き受けましょう。その代わり、鷲尾さんに言っておいてください。金輪際、こんなくだらんことで呼び出すな、と」
「くだらんこと、ですか……」
唖然となっている沢崎に向かい、上野はさらに言葉を続けた。
「僕は、あの男に借りがあるんです。ですから、引き受けますよ。ただし、条件があります。僕のやることに、一切口を出さないこと。それと除霊中は、絶対に家の中を覗かないでください。カメラによる撮影も駄目です。この約束を破ったら、僕は降ります。いいですね?」
「はい!」
「あと、事前に僕の注文したものを全て用意しておいてください。でないと引き受けません」
「わ、わかりました」
「よろしい。まあ、十日もあれば大丈夫でしょう。どんと来い霊能現象、ですよ」
そういうと、上野は勝ち誇った表情で頷いた。
その翌日、上野は件の一軒家に越して来た。
時刻は八時を過ぎており、外は暗くなっている。彼は、そこそこ広いリビングをひとりで占領し、分厚いステーキを食べていた。満足げな表情で、肉片を口へと運んでいる。
と、そこに何かが出現した──
最初に現れたのは、金髪のショートカットの女だ……ただし、頭の一部は砕けている。血とも土とも判別しがたい汚れが顔全体に付着しており、しかも手足はぐにゃぐにゃに折れ曲がっている。ボロボロの服を着ているが、その衣装も血に染まっていた。
女はゆっくりと歩き、上野の向かい側に立つ。だが、彼は表情ひとつ変えない。ちらりと女を見ただけで、再びステーキに視線を戻す。肉を切り取り、フォークに突き刺す。細かくなった肉片を、口へと運ぶ。
次の瞬間、上野の顔に満面の笑みが浮かぶ。ゆっくりと咀嚼し、肉の味を存分に楽しむ。
そんな彼を、金髪の女は無言のまま見下ろしていた。
やがて、もうひとり現れた。今度は、右腕がちぎれ腹から内臓がはみ出た男だ。顔も半分近くが消失しており、頭蓋骨と脳が剥きだしになっている。男は腹から内臓を引きずりながら、ゆっくりと歩いてきた。食事中の上野の横に立ち、じっと彼を眺める。
上野は、ちらりと男を見た。だが、すぐさま視線を逸らしステーキを食べ続ける。肉を細かく切り、じっくりと味わう。
やがて、食事の手を止めた。目をつぶり、肉を咀嚼し飲み込む。
「この味は……そう、初めて悪魔との会話に成功し仲魔にした時、あの感覚に似ている。幼い時の成功体験がもたらす純粋な喜びを思い出したよ。素晴らしい味だ」
ひとり呟き、ウンウンと頷く。直後、彼は食事を再開する。
金髪の女と顔が半分しかない男は、上野の食べっぷりをじっと見続けていた。
翌日、上野は朝の八時に目を覚ました。なぜか全裸である。
起き上がると、全裸のまま深呼吸をする。次いで正座し、額を地面につける。
「あらゆる生命の源である地球よ、今日も元気に活動できることを深く感謝する。ありがとう」
そんなことを言いながら、彼は床に口づけした。
直後、すくっと立ち上がる。テーブルの上にあるリモコンに手を伸ばし、スイッチを入れた。
途端に、部屋に設置されたオーディオからラジオ体操第一の放送が流れる。上野は真面目くさった表情で気をつけの姿勢をとり、体操が始まるのを待っていた。
やがて、体操が始まる。上野も放送に合わせ、体を動かしていく。全裸のため、ぴょんぴょん飛び跳ねるたび、彼の大きな一物がビタンビタンと揺れる。上下に揺れたり、左右に揺れたりもする。だが、彼はお構いなしだ。全裸のまま、体操を終えてしまった。
そんな姿を、金髪の女と顔が砕けた男がじっと見ていた──
全裸のまま朝食を終えると、次に取り掛かったのは掃除だ。これまた全裸のまま、掃除機をかけたり床を雑巾で拭いたりしている。その様は、マニア向けゲイビデオのようであった。当然ながら、例のふたりも見つめている。
やがて、もうひとり出現した。今度は、四つん這いで動く老婆だ。ボサボサの白い髪は長く、着物姿である。昔話に登場するヤマンバのようだ。
その老婆は、しゃがみ込んで雑巾がけをしている上野に近づいた。至近距離で、彼を睨む。
上野は、ちらりと老婆を見た。だが、完全に無視して雑巾をかける。もちろん、全裸のままである。三人の視線を浴びながら、上野は掃除を続行していた。
きっちり二時間かけて掃除をした後、冷蔵庫を開けた。中から、生卵を取りだしてジョッキに割り入れる。某ボクシング映画のごとき勢いで幾つも割り入れる。直後、一気に飲み干した。
「うーむ、飲みにくい。あいつ、よくこんなの飲めるな」
顔をしかめつつの独り言の後、ようやく服を着た。白いTシャツにデニムのパンツといういでたちで、リュックを背負い外に出る。駅を目指し、歩き出した。
その後ろから、金髪の女と顔が半分の男、さらに四つん這いの老婆が出てきた。彼らは、上野の後を付いていく。ほとんどの人間の目に、彼らは見えていなかった。
やがて、上野は電車に乗り込んだ。少し遅れて、例のトリオも電車に乗る。
その途端、同じ車両に乗っていた少女が気絶した。次いで、中年の女がその場で吐いた。さらに、スーツ姿の青年が胸を押さえ倒れる。学生風の少年もまた、バタリと倒れた。車内は騒然となり、電車はストップする。
上野は、溜息を吐いた。電車を降り、今度はタクシーを拾う。
二時間後、ようやく目的の場所に到着した。本来なら二十分もあれば着くはずだったのだが、タクシーの運転手が次々と気分が悪くなっていったため、何度も乗り換える羽目になった。不快そうな表情で、上野は目当ての店へと入っていく。
それは、どこにでもあるコンビニだった。
「いらっしゃいませ……あれ、上野さん?」
若い店員の入来宗太郎は、引き攣った笑顔を向ける。すると、上野の表情も渋くなった。
「なんだ、その顔は。俺に来られて、迷惑だとでも言いたいのか」
「そ、そんなこと、誰も思ってませんよ」
「嘘をつくな。どうせ、陰で俺の悪口を言っているのだろう。変人だの偏屈だの便所コオロギだの、好き放題言っているのだろうが。俺には、全てまるっとお見通しだ」
文句を言いながら、上野はカゴを手にした。じっくりと店内を回る。入来は、困った顔をしながらも彼の動向を見守っていた。
やがて、ビールと大量のつまみをカゴに入れ、レジへと持ってくる。
「いやあ、本当にまいったなあ。今日はここに来るまでに、二時間もかかってしまったぞ。どういうわけだ、あれは。まいったまいった」
わざと聞こえるかのように、独り言をいう上野。入来は、困惑した表情になりながらも反応する。
「えっ? あのう、二時間かけてここに来たんですか? 近くにコンビニとかないんですか?」
「なんだ、人の独り言に聞き耳を立てるとは、相変わらず失礼な奴だな。一応、コンビニは駅近くにあったよ」
「そ、そうですか。なぜ、そちらに行かないんですか?」
入来は、軽い気持ちで聞いた。直後、しまったという表情になり慌てて口を閉じる。だが、遅かった。
「どういう意味だ? お前みたいな手のかかる変人は、手近なコンビニにでも行ってろと言いたいのか? この店には来るなということか?」
聞いてきた、というより詰問してきた上野に、入来は愛想笑いを浮かべる。
「そんなこと思ってないですよ。僕、上野さんのこと尊敬してますから」
「嘘つくな。俺にはわかってるんだ。どうせ陰で、変人だの偏屈だの便所コオロギだのと言っているのだろう」
「言いませんよ。だいたい、便所コオロギって何なんですか。言うわけないでしょう」
ついに呆れた表情になり、ツッコむ入来だった。が、その瞬間に上野の表情が変わった。
「ということは、変人だの偏屈だのの部分は認めるんだな。本当に失礼な奴だ」
勝ち誇った表情で、上野は言ってきた。はい論破、とでもいわんばかりの顔つきである。
入来は仕方なく、神妙な顔を作り下を向く。この男、まだ二十六歳だが、コンビニ店員のキャリアは十年を超える。様々なタイプの客のデータが頭に入っており、それに応じた対応が出来る男なのだ。気難しい変人の上野も、なぜか入来には気軽に話しかけてくる。
「いいか、俺はコンビニに行くなら、この店と決めてるんだ。お前が陰で何を言おうが、また何度でも来てやるからな。覚悟しておけ」
そう言うと、上野はリュックの中にビールと大量のつまみを入れていく。妙に嬉しそうな表情で、意気揚々と店を出ていった。
「ありがとうございました」
ホッとした顔で、入来は頭を下げる。すると、タイ人バイトのパンがニコニコしながら話しかけてきた。
「あの上野さん、変な人だから誰も友達いないよ。だから入来さんと話すの好きよ。好きで好きで仕方ないよ。だから、話したくて店に来るんだよ」
「好きで好きで仕方ないって、そりゃ誤解を招く表現だね。それにしても、上野さんも大変だなあ。今度は、あんなのと戦ってるのかい」
言いながら、去り行く上野の後ろ姿を見つめる。入来の目には、金髪の女と顔が半分の男と四つん這いの老婆が背後から付いていく様が、はっきりと見えていた。
二時間後、ようやく家に帰った。途中、またしても六台のタクシーを乗り継ぐ羽目になり、上野はかなり不快な表情になっていた。
ちなみに、この日は都内だけで十人以上のタクシー運転手が緊急入院し、ちょっとしたニュースになっていた。全員に共通しているのは、運転中にいきなり気分が悪くなったこと、病院で少し休んだら良くなったこと、検査したがどこにも異常がなかったということである。ネットでは「実は新種のウィルスが漏れ出たのではないか」などといったデマが飛び交っていた。
その異常現象の源・上野は家に帰ると、リュックからビールとつまみを取り出す。
ソファーに腰掛け、テレビのスイッチをいれ、さらにゲーム機のスイッチを入れた。コントローラーを持ち、しばらくボタンをいじる。
やがてコントローラーから手を離し、画面を見ながらビールを飲み始めた。
画面では、古いドット絵の野球選手たちが勝手に動き試合をしている。そう、これはコンピュータ同士が試合をしているモードなのだ。上野はビールを飲みながら、その試合を観戦しているのである。
やがて、上野の表情も変わってきた。ホームランを打てばウンウンと満足げに頷く。チャンスで三振すれば、チッと舌打ちする。やがて、声も漏れでてきた。
「何をやってるんだ。監督の采配を疑うな」
「ここは川藤だろうが。代打を出せ」
「なぜ、ベストを尽くさないのだ」
そんなことを言いながらビールを飲み、つまみの柿ピーをポリポリ食べる。そんな上野の姿を、金髪の女と顔が半分の男と四つん這いの老婆が眺めていた。
やがて、そこにもうひとり加わる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛」
奇怪な声をあげながら、近づいて来た者がいる。不健康そうな青白い肌にキャミソール姿の女だ。ゆっくりとした動きで上野に近づいていく。
上野の隣に座ると、彼の顔を見上げる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛」
奇怪な声を発しながら、上野の体に触れる。すると、彼は横目で女を見た。
「また、ひとり増えたのか」
ボソッと言うと、再びテレビの画面に視線を戻した。ビールを飲み、つまみのチーズかまぼこを食べる。
やがて、試合は終了した。上野はふうと溜息を吐き、かぶりを振る。
「また負けたか。やはり、代打で川藤を出さなかったのが敗因だな」
試合を振り返りながら、再びビールを飲む。その様を、女たちはじっと見ていた。
しばらくすると、寝息が聞こえてきた。いつのまにか、上野は眠っていたのである。ソファーの上で、だらしなく口を開けて眠りこけている。
そんな彼の耳元で、青白い顔の女は呻き続けていた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛……」
しかし、上野は眠り続けている。女の奇怪な呻き声など、子守歌にすらなっていなかった。
翌日、上野は午前八時に目を覚ました。
ルーティンである土下座キスとラジオ体操を終え、今は寿司を食べている。とはいっても、高級なものではない。昨日、入来が働いているコンビニで、ビールやつまみと共に購入したものだ。消費期限は過ぎていたが、彼はそんなものは気にも留めない。平気で食べている。ちなみに、今日は全裸ではなくスポーツウエアのようなものを着ていた。
そんな彼の周りを、例によって不健康そうな連中が取り囲んでいた。金髪の女、顔が半分の若者、四つん這いの老婆、奇怪な呻き声を発するキャミソールの女。だが、上野は食べ続けている。寿司を平らげると、今度はみたらし団子に取り掛かる。串を手に取り、じっと眺めた。
「そういや昔、団子ブラザーズって曲があったな。歌のお兄さんは、元気でやっているだろうか」
ボソッと呟くと、食べ始める。その横では、女が呻き続けていた。だが、上野には何の影響もないようだった。
団子を食べ終えた後、テレビの幼児向け教育番組を亡者たちと共に観ていた時だった。突然、ドアホンが鳴る。上野はすっと立ち上がり、取り囲んでいる連中を無視して玄関へと向かった。
ドアを開けると、目の前にひとりの少女がいる。髪は短く、とぼけた感じの顔立ちである。何となく地方のゆるキャラに似ている。
この娘は山樫明世、十五歳の女子高生である。同時に、特殊な案件のみを取り扱う配達員でもある。その上、上野の知り合いでもあった。緑色のツナギを着て、手には大型の封筒を持っている。
「なんだ、配達娘じゃないか」
無愛想な口調の上野に、山樫の方も仏頂面で封筒を渡す。
「はい、これ。サインや印鑑はいらないそうです。じゃ、僕は忙しいので失礼します。ありがとうございました」
慇懃無礼な態度で立ち去ろうとした彼女に、上野が声をかける。
「ちょっと待て。お前、この中身を覗いたりしてないだろうな?」
「はあ? そんなこと、するわけないじゃないですか。ちゃんと封されてるでしょ」
うんざり、といった表情で山樫は答えた。すると、上野はくすりと笑う。
「まあ、そうだろうな。この中には、とっても御下劣で、いやらしくもいかがわしいDVDが入っている。お前みたいな、男と手を繋いだこともないような小娘がこれを観ようものなら、ショックで失神してしまうだろうな」
そんなことを言った上野を、山樫はじろりと睨む。
「それ、完全なセクハラですからね。今度言ったら、マジで訴えますよ。だいたいね、上野さんはそんなことばっかり言ってるから、女の子にモテないし未だに独身なんですよ」
「あっ、言ったな。今の時代、それだってセクハラに当てはまるんだぞ」
口を尖らせ文句を言う上野。その姿は、好きな女の子にちょっかいを出す小学生のようだった。しかし、山樫は無視してさっさと帰ってしまった。言い合う気すらないらしい。
切なそうな顔で、彼女の後ろ姿を見つめる上野。だが、すぐにドアを閉める。リビングに戻り、封筒からDVDを取り出す。
デッキにセットし、ドキドキワクワクした表情で画面を見つめる。その様は、初めてAVを見る中学生のようであった。言うまでもなく、不健康そうな同居人(?)たちも集まってる。
やがて画面には、上半身裸のいかつい男が現れた。癖のあるもじゃもじゃヘアに濃いモミアゲ、さらに太い口ヒゲが特徴的である。太い二の腕には、ばっちりとタトゥーが彫られている。筋肉の上に脂肪が乗った肉体から、ナチュラルな強さの持ち主であろうことがわかる。
その男は、カメラを向きニヤリと笑う。直後、語り出した。
(やあ、みんな。俺さまは、ハーリー・デニスだ。知らない奴のために説明してやるが、俺は七度チャンピオンベルトを巻いた経験を持つプロレスラーだ。人は俺を、ミスタープロレスと呼ぶぜ!)
声優による吹き替えだろうが、豪快な雰囲気がピッタリしている。言い終えると、デニスはウインクしてみせた。
そんな画面を見ている上野の顔には、名作映画でも観ているかのごとき恍惚とした表情が浮かんでいた。
(これから、ハーリーズ・ブートキャンプを開始するぞ。いいか、俺さまの指導は単なるエクササイズじゃない。運動しつつ、アメリカン・プロレスのショーマンスタイルを学べる画期的なものだ。さあ、準備はいいか!)
「はい!」
元気よく返事し、上野は立ち上がる。その周囲では、不健康そうな亡者たちが彼の行動を凝視している。
中のひとりが、声を発した。
「あ゛あ゛あ゛あ゛……」
しかし、上野の目と耳は、画面に映るデニスへと向けられていた。
(いくぞ! 最初は呼吸だ! まずは、ブルース・ブロディの呼吸! 息を吸って腹に溜め、声と共に一気に吐き出す!)
言うなり、デニスは両腕を下げた視線で獣のような咆哮を始める。
(ハッ! ハッ! ハッ! ハッ!)
それに合わせ、上野も吠える。
「ハッ! ハッ! ハッ! ハッ!」
すると、デニスの動きが変わる。今度は、その場でももあげダッシュだ。
(次は、その場でダッシュだ! ロール・ウォーリアーズの入場シーンをイメージして走れ! 観客を薙ぎ倒して入場し、リングまでの花道を一気に走り抜けろ!)
「うおおおお!」
喚きながら、上野もその場でももあげダッシュをする。凄まじい勢いで、彼は走る。ただし、その場から一歩も進んではいない。
デニスの動きが、また変わる。今度は、何かを抱え上げるようなアクションをした……と思いきや、背後にバタリと倒れる。
(次は、俺さまの必殺技・ブレーンバスターだ! 相手を抱え上げ、後方に投げるイメージで倒れる! と同時に、後頭部を打たないよう受け身もしっかり取るんだ! これぞ一石二鳥のエクササイズ! さあ、やってみろ!)
「はい!」
画面の中のデニスに元気よく返事をすると、上野は動きを真似てバタリと倒れる。そこそこ洒落たデザインのリビングで、百九十センチ近い四十過ぎのオヤジが、ひとりでバタンバタンと倒れている……そんな異様な光景を、亡者たちは遠巻きにしてじっと凝視していた。
やがて、もうひとりがどこからともなく出現する。白いドレスを着て、異様に長い黒髪の女だ。その長い黒髪のせいで、顔が全く見えていない。
その女は、異様にカクカクした動きで近づいていく。だが上野は、完全に彼女らを無視していた。
(さあ次は、ネイチャーボーイことディック・フレアーの雄叫びだ! 俺に続いて声を出せ! ホオオオオウ!)
「ホオオオオウ!」
そんな上野の姿を、亡者たちはただただ見ていることしかできなかった。
・・・
上野が、この家に越して来てから十日経った。
今、二人の男女が家に近づいていく。鷲尾と沢崎だ。緊張した面持ちで立ち止まり、家をじっと見つめる。だが、鷲尾の表情が一変した。
「消えている……この家に憑いていた霊が、全て消え失せている! さすが上野だ!」
鷲尾が、感嘆の声をあげた。
「ほ、本当ですか!?」
上擦った声で尋ねる沢崎に向かい、鷲尾は大きく頷いた。
「ええ、間違いありません。この地の災いは、全て消え去ったのです。これで、人々も安心して住むことが出来るでしょう。それにしても……」
鷲尾の視線は、再び家へと向けられる。その目には、羨望と嫉妬と畏敬の念があった。
「上野弘志、本当に凄い男だ。ひょっとしたら、奴は霊などより遥かに恐ろしい怪物なのかも知れぬな。それにしても、奴の除霊術を一度でいいから見てみたいものだ。そのためなら、億の金を払っても構わない」
その頃。
上野は、リビングにいた。テーブルの上に、ソフビの怪獣を並べている。もちろん、全てひとりでやっていた。
「うーむ、ザ・ウルトラマンは何故ザなのだろう。ジ・ウルトラマンではいけないのだろか。いつか、シン・ザ・ウルトラマンなる作品が製作されるのか」
ひとりで訳のわからないことをぶつぶつ言いながら、ソフビの怪獣をテーブルの上に配置していた。
やがて上野は、ソフビ怪獣の位置を少しずつ動かした。さらに、スマホで怪獣たちの撮影を始める。昨日まで彼の動向を見守っていた亡者たちは、完全にいなくなっていた。