case1 残酷な依頼6
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午前一時。
繁華街から遠く離れた住宅地に響くのは、たまに走り去る車の音と、遠く吼える犬の鳴き声だけだった。
特段豪華な造りではなく、親子二人が暮らすには十分という程度の広さを持つ、白を基調とした二階建ての白石邸。
その廊下を深夜の静寂を壊さぬように。ただ静かに歩いていく。
そうして目的の部屋の前に辿り着き、獣の腕でゆっくりと。
軋み音を立てないように慎重にドアノブを回した。
すると、すーっと開かれた扉の先。
部屋の隅に見えた布団は、呼吸に合わせて寄せては返す波のように。ゆっくり上下運動を繰り返していた。
――近付く。
だが獲物には、気付く気配すらない。
手を振り下ろせばそれで終わり。
終ってしまうというのに……。
その思いが一瞬逡巡を生んだが、しかし振り切った。
どうあれこの身は魔物なのだ。
狩猟本能には絶対に逆らうことが出来ない。
今でなくともいずれ近いうち。
自分が獲物の首に噛み付くのは確実だろう。
なら早いほうが良い。
最後にもう一度。哀れな獲物の寝顔を見て――。
――プシュッ
突如背後から水気を含んだ射出音が聞こえ、なんだと振り返りかけて――
「があぁぁぁぁッ!!」
絶叫した。
背中が燃えるように熱く、耐え難いほどの激痛に襲われたのである。
驚きと痛みから、怒りを込めて後ろを睨みつける。
と、そこには見知った顔。
今この場所に、いる筈のない人間がいたのだ。
「なぜここにッ!!」
そいつは銃口を私から逸らさず、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「夜這いをかけるのに、事前連絡はいらねぇだろ?」
彼の名は龍ヶ崎トウマ。
魔物が関わる事件を専門とする、特殊探偵。
そして私が、事件の解決を依頼した男であった。
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対魔銃が火を吹いた。
いや実際には水。というか俺の血液なんだが、とにかくそれは目の前の魔物に命中した。
奴は。
白石リンを名乗った魔物は、すでに人の姿をしていない。
恐らくこちらが本来の姿。獣の腕を振り回し、今は痛みに転げまわっている。
一撃で仕留めるつもりだったのだが。
人型の時が幼い女児を模していたから勘違いしていたらしい。
この魔物は、俺が想定しているよりずっと強力な固体だったのだ。
それが今は痛みから回復しつつあるのか、闇夜に黄色い眼光を煌かせて俺を睨みつけていた。
次の瞬間にも飛び掛ってくる。
そう思いこちらも身構えたのだが、その直前。
魔物の背後で動く気配があり、それに気付いた魔物が硬直した。
「リン……?」
錆び付いたドアのように。ギギギッと、呼びかけられた魔物が後ろを振り返る。
「ママ……」
一見すると、実に奇妙な光景だ。
殺されかけていた女は、目の前の醜悪な獣を愛おしそうにリンと呼び。呼ばれた獣は、今にも泣き崩れそうな声音で母と呼ぶ。
だが直後。
悲しみと後悔に塗れていた瞳を怒りへと変え、魔物が俺へと向き直った。
「お前がッ!!」
今度こそ俺に襲いかかろうと、魔物の四肢に力が蓄えられた。それが弾ける前に、再び俺の指がトリガーを弾く。
――プシュ
「がぁぁぁッ!!」
今度は右足。
急所ではないが、放たれた血弾は確実に魔物の動きを止める箇所を撃ち抜いた。
「リンっ!!」
「動くなっ!!」
絶叫する魔物に呼びかけ、立ち上がりかけたアカネ。それを声で制し、俺はゆっくりと魔物へ近付く。
「いつから……。お兄ちゃん、いつから気付いていたの?」
痛みに呻きつつ、弱々しくリンが訊ねてきた。
質問の内容は、いつから俺が魔物の正体を白石リンと見破っていたのか。そして何故今夜。自分が白石アカネを襲うと気付いたのか。そういうことだろう。
だがそれは少し違う。
もちろんリンが魔物だということには気付いていた。
しかし彼女がいつ白石アカネを襲うのか。そこまではっきりと分かる筈はない。
なので仕掛けたのだ。泊まるのは『明日から』と伝えることで、今夜リンが動きやすいようにと。
「私はどこで失敗したの?」
「最初からだ」
リンの存在はあまりにもちぐはぐ過ぎた。
例えばランドセル。もうすぐ三年生だというのに傷一つないのは不自然である。
そして母を心配して助けを求めた筈の娘。なのに魔物の存在が確定すると、何故か彼女ははしゃいでいた。
極めつけは先日襲われたという自作自演。
雨が降ったばかりだというのに、外から魔物が侵入したにしてはダイニングの床が綺麗過ぎたのだ。
「そう……。お兄ちゃんに依頼したのは失敗だったね。こんなに優秀な探偵さんだとは思わなかったよ……」
「そうよリンっ! どうして探偵なんかにっ!」
この場に俺がいなければ、白石リンは望む結果を得られた筈である。それを狙われていた獲物。白石アカネ本人が何故だと糾弾している。
「だってママ。全然怖がってくれないんだもん。ううん。それどころか、魔物の存在を認めてすらくれなかった」
「だから専門家である俺を呼んで魔物の仕業だと。母が魔物に狙われているのだと認めさせたかったんだな? 彼女に恐怖心を植え付けるために」
それがリンの企みであった。
彼女は予想通り『獲物の恐怖を食べる』タイプの魔物だったのである。
「でも……それでもママは怖がってくれなくて……。だけど気付いたの。ママが本当に怖いのは、自分が殺されることじゃないって」
実際のところ、白石アカネは魔物を信じていなかったわけではないと俺は思っている。
むしろ最初から、そうではないかと薄々感ずいていた節があるのだ。でなければあそこまで強固に魔物を否定しないし、魔物の体毛が発見された時にもっと慌てていた筈なのだから。
だがそれでも恐れないというならば、それは自分の命が失われることよりも、もっと恐ろしいことがあるから。
白石アカネが真に恐怖を覚えるのは、白石リンを。
愛しい娘を、再び失うことであった。
「白石リンが魔物である可能性に気付けば、当然のように一つの疑問が生まれる。白石アカネ。あんたが何故、突然現れた見ず知らずの子供を娘として受け入れたのか。いや、溺愛したのかだ」
それこそが、この事件で一番不可解だった部分である。
「ここからは推測だ。あんた、本当に娘がいたんじゃないのか?」
暗がりでも分かるほど、白石アカネがビクリと狼狽した。
「慌てて閉められた部屋にあった仏壇。最初は『いなくなった』という旦那のものかと思っていたんだが、それは違うな。人の趣味はそれぞれだが、やはり旦那の仏壇に供えるものとしてぬいぐるみってのはミスマッチだ。もしかしたらあの仏壇は――」
「えぇ……そうです……。あれは産まれる筈だった子の。あの人との間に出来た、娘の為のものです」
やはりそうかと俺は瞼を閉じた。
ならば『いなくなった』という旦那は死んだのではなく逃げたのだろう。アカネの態度から察するに、恐らくアンドロイドと一緒に。
結婚という制度が形骸化し、出産と子育てを国が一手に引き受けることになったこの時代。
そこに掛かっていたあらゆる手当て。それらは全て廃止となっている。
ゆえに、よほど裕福な家庭でなければ、自ら出産し育てるというのは金銭的に厳しいのだ。
男は恐れたのだろう。
不必要に授かってしまった命。それを育てるのに浪費される自分の人生。失われる金。
かつて当たり前だったそれに、喜びを見出す者はいなくなり。
自分の人生を第一に考える現代において、それは余計な荷物でしかなくなっていたのだ。
お腹の子供は男に逃げられたショックで流れてしまったのか、はたまた一人で育てることは不可能だと諭され堕ろしたのか。
それは分からないが、結果に変わりはない。
男に逃げられ、お腹の子供まで失い。
失意のどん底で死んだように暮らしていた白石アカネ。
そこに現れた娘を名乗る何かは、彼女にとって失った筈の過去の幸せが突如舞い戻ってきたように感じられたのかもしれない。
それが毒入りの果実だと薄々気付いていたのだとしても、彼女に手を伸ばさないという選択肢はなかったのだろう。
真相は全て白日の下に晒された。
そこにいたのは、失った我が子を幻としりつつ取り戻そうとした母。
そして、その心にスルリと忍び込んだ悪辣な魔物。
――の、筈なのだ。
なのだが……。
「……我慢出来なかったのか?」
俺は、そう魔物に問いかけずにはいられなかった。
「おかしなことを言うね、お兄ちゃん。私達が肉を欲するのは本能。お兄ちゃんは、眠ることを我慢し続けられるの?」
「あぁ、そうだな」
リンは人を喰らうのが魔物の本能だという。
そしてそれに従い獲物の恐怖心を煽り、あとは喰らうだけとなった。
にも関わらず、ここにきても尚、白石リンの行動はちぐはぐなのである。
喰らうならばさっさと喰らえば良かったのだ。なにも夜中を待たずとも、二人きりになったタイミングですぐに実行すれば良かっただろう。獣の姿ならそれは容易な筈である。
なのにわざわざアカネが寝静まるのを待った理由。
それは恐らく、見たくなかったし見せたくなかったのだ。
獣になった醜悪な姿を。母を喰らう自分の姿を。それを悲しむ母の姿を。
つまり、白石リンは――。
「なにしてるの?」
「黙ってろ」
俺は一度銃を下ろし、左手の平をリンの額に当てた。
上手くいくかは分からない。やったことなどないのだ。
しかし人を喰らうのが魔物の本能だというならば、その根源。魔魂さえ抜き出せば、彼女は母を食わずに済むのではないか? そう思ったのである。
――だが。
「なぜだ?」
いつものように、ポワッとした光がリンの額から浮かび上がることはなかった。
魔魂喰いの異能が発動しないのだ。否、この感覚は違う。発動しないのではなく――。
「それがお兄ちゃんの能力か。でもゴメンね。お兄ちゃん程度の力じゃ、私の深いところまでは届かない。……届かないよ」
一瞬リンの瞳が悲しみに揺らめき
「ぐぁっ!!」
だが次の瞬間、彼女の蹴りが俺の腹部を直撃していた。
吹き飛ばされ、俺は衝撃に悶絶する。
そんな俺をよそに、霞む視界の中を娘がゆっくりと母へ近付き――
「させるか馬鹿っ!!」
痛む腹を押さえながら、俺は再び対魔銃を発射した。
俺の腹部からは血がドクドクと流れ出ている。だがそれこそが好機。その血液を銃に充填し、威力を増した血弾がリンに襲い掛かったのである。
――ブシュッ
「がぁぁぁぁぁッ!!」
悶絶する魔獣。しかし俺が追撃しようと立ち上がる前に、白石アカネが獣の身体を胸に抱いていた。
「リンっ! しっかりしてリンっ!」
「ママ……」
魔物が獣の手を持ち上げ、母に手を伸ばす。
俺は銃口をそこに向けるが、しかし撃つ気になれない。
なぜなら白石アカネは自らの腕を自らの意志で。魔獣の口腔へと差し入れていたのだ。
「もういいわ。もういいの。だからリン。私を食べなさい」
びっしりと鋭く生え揃った牙が、リンの意志に関係なく母の腕を傷つける。
真っ赤な血液が滴り落ち、柔らかな肉の感触をリンは感じていることだろう。
そのまま口を閉じればブツリと牙は容易く肉へ食い込み、ポキリと枯れ木のように骨を砕ける。
人を喰らうのが本能だというならば、今リンは、一週間ぶりに水を与えられたような。激しい欲求に晒されている筈である。
――なのに。
リンは嫌々と首を振った。
それも、これ以上傷をつけないように最小限の動きで。目を涙で溢れさせながら。
「いいのよリン。私の欲しい今が過去にしかないなら、明日なんていらないわ」
しかし母親は頑なで。その様子にいつまでも拒否しきれないとリンは諦めたのか。
最後の力を振り絞って魔物は母の腕を振り払い、そして飛び掛った。
俺へと。
「うおっ!?」
突然のことに反応が遅れる。魔物を相手に、それは死んでも不思議ではない油断だ。
だが俺には見えていなかった。『死線が』見えていなかったのだ。
俺が持つもう一つの能力『死線』
死に繋がる自分の行動。敵の行動。それが動線として見えるのである。
ならばこのリンの行動は俺の死に繋がらない。
事実、襲い掛かられ倒されたが、覆いかぶさった獣の体は俺に牙を突き立ててこなかった。
両の前足で俺の両手を押さえ込み、獰猛な牙を剥き出しにしながらも噛み付くことはしてこない。
ただ俺にだけ聞こえるように。耳元へ口を近づけて依頼してきたのだ。
「お願いお兄ちゃん。今すぐ私を殺して」
と。
悲壮感すら漂うリンからの依頼。彼女は決断したのだ。何を求め、その代償になにを失うかを。
ならば俺も決断しなければならないだろう。そう決意を宿し、俺は真っ直ぐにリンを見つめ返した。
「あぁ、分かった。お前の依頼、俺が喰らおう」