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last case 明日の約束3

 思わず乾いた笑いが零れた。まるでSFじゃないかと。

 しかし探偵である以上、見えている事実から目を逸らすわけにはいかない。


「やべぇなありゃ。帰りてぇ……」


 帰ったところで結果は変わらないのだが、生存本能が全力でここから逃げろと訴えてくるのだ。

 取り戻した筈の勇気が萎れ、膝が笑い、頬が引き攣る。

 行かなければならない。

 あそこに向かい、出てくる化物と対峙しなければならないと分かってはいるのだが、どうしても一歩が踏み出せない。


 と、数秒にも数十分にも思えた逡巡を繰り返していた時。

 不意に鼻腔を懐かしい匂いがくすぐった。


「……カナタ?」


 それはほのかな柑橘系の香り。

 いつからか龍ヶ崎探偵事務所内で、コーヒーの香りに混ざるようになった香り。

 そして今では、すっかり消え失せてしまった香りだ。


 ハッとして辺りを見回すが、もちろん誰もいない。

 今しがた倒した魔物の死骸が、そこらじゅうに転がっているだけである。


 きっと気のせいだったのだろう。

 臆病風に吹かれた心が、頼もしい姉の幻を感じさせただけなのだ。


 だが――。

 それでも背中を押された気がして、俺は肩を竦めた。


「そうだったな。師匠として、格好悪いとこは見せらんねぇか」


 大きく息を吸い込み、もう一度山頂の不気味な光を睨みつける。

 不吉な色合いはそのままだが、もう心臓が締め付けられるような感じはしなかった。

 大丈夫だ。今度はちゃんと、足が動く。


「行ってくるぜ」


 誰にでもなく言い、ようやく俺は走り出せたのであった。




 ************************************



 龍ヶ崎トウマが山へ走り去り、誰もいなくなった廃村内。

 だが誰もいなかった筈の空間に、突如として二人の人間が現れる。

 そのうちの一人が、走り去ったトウマの背中を見つめながら柔らかな笑みを零した。


「行ってきなさい」


 この一年で伸びた髪を、高いところで一つに纏めたポニーテール。

 警察を辞めた今でもきっちりとしたスーツを着こなし、腰に愛刀を帯びた女性、雨宮カナタであった。


「んだてめぇ。いい顔で笑えんじゃねぇか」


 そんな彼女の姿を、シュークリーム片手に冷やかすのは東雲キョウヤ。

 透明化という異能を持ち、トウマから二人の姿を隠していたのは彼の仕業である。

 すっかりトウマの姿が山中に消えたのを確認してから、カナタはキョウヤへと振り返った。


「貴方はいいの? 追いかけなくて」


 彼女が言わんとしていることは察したが、キョウヤは顔色一つ変えない。

 手首まで零れたカスタードクリームを舐め上げ、ただ静かに視界に山頂を捉えていた。


「トウマがしくったら、美味しいところは頂くさ。そういうてめぇはどうなんだよ。愛しいトウマに姿を見せなくて良いのかオイ? 今生の別れになるかもしれねぇんだぜぇ?」

「そういうのではないと何度も何度も言った筈だけれど?」


 スッと細められた目に殺気が篭り、愛刀『血桜』の柄に手を伸ばしたカナタを、キョウヤは「ぶはっ」っと一笑する。

 一年前、突如自分の元を訪れてきた雨宮カナタ。その日の事を思い出したのだ。


『陣営ってなんなの。洗いざらい吐いてもらうわ』


 その為に、彼女は警察まで辞めてきたらしい。

 初めは訝しんだものの、それを真実だと知ったキョウヤは、以降カナタと行動を共にしていた。


『私のせいで誰かが傷つくのはもうごめんよ』


 いつだったか、カナタはポツリとそんなことをキョウヤに零したことがある。

 つまり彼女は、近しい誰か。恐らくは龍ヶ崎トウマを守るために、全てを捨ててキョウヤの元へとやって来たのだ。

 そうして79派や113派の事を知り、トウマの力になるべく行動する。


 自分を犠牲にしてまで誰かを守ろうとするなど、それが愛以外のなんなのだと、キョウヤは笑わずにいられなかったのだ。


「っとにてめぇはキングオブ不器用だなぁ。不器用大臣かてめぇオイ」

「甘党大臣に言われたくないわね」


 ゆえに、良いコンビなどとすら言えない関係。ただ利害が一致していたに過ぎない二人。

 キョウヤにとっての『利』は危険であること。それも、命を失うであろうギリギリの線。そこにあってこそ、彼は生きているという充足感を得られるからだ。

 ならば、まかり間違ってもSOLTなどという訳の分からないもので死にたくなどない。どうせ生き死にを味わうなら、それは戦いの中でこそあるべき。それこそが、キョウヤの望みであった。


 持参したシュークリームを全て平らげ、東雲キョウヤはトウマが登っていった山とは反対側に視線を移す。

 彼等がいる位置からすれば村の入り口方面であるのだが、そちらから複数の気配が迫っていたのだ。


「ようやくお客さんだ」

「そのようね」


 当然カナタもその気配は感じ取っており、すでに愛刀は鞘から抜き放たれていた。月明かりを受けて、血桜の刀身がギラリと輝く。


「爺の話じゃそこらじゅうの魔物がこの山を目指すって話だったが。なるほどなるほど。こいつぁ団体様みてぇだなオイ」

「見えてるだけで五十以上。後ろからも続々と来てるみたい」


 まだ距離はある。

 だが群れが発する獣の気配は視認出来るほど濃密で、圧迫感を覚えるほどだ。と、先頭の魔物が二人を敵と認識し、牙を剥き出し始めた。


「いいねぇ。ゾクゾクして来やがった」

「貴方も大概壊れてるわよね。全部片が付いたら病院に行くことをお勧めするわ」

「てめぇもな。男の為にこんな馬鹿な真似すんのは、どっか壊れてる証拠だぜ? これが警官だったってんだから世も末だなオイ。……片付いたら、てめぇは警官に復職すんのか?」


 少しだけ、キョウヤの声が憂いを帯びた。

 彼は雨宮カナタという女の在り方を気に入っていたし、警察に戻るとなれば再び敵同士。あまり殺り合いたい相手ではなくなっていたのである。

 そんな彼を気遣ったわけではないが、カナタはふぅっと白い息を吐き出し、視線は魔物の群れから逸らさぬままに肩を竦めた。


「無理でしょうね。貴方のような犯罪者と行動を共にした以上、もう桜の代紋を胸に掲げるわけにはいかないもの。ま、路地裏の探偵にでも雇ってもらうわよ」

「元警官の天下り先としては妥当な線だな。っと、そろそろお喋りも終わりか」


 呑気に話し込んでいるうち、ついに先頭の魔物が射程圏へと踏み込んできた。それを認め、キョウヤの目がスッと細まる。隣のカナタも、わずかに腰を落として重心を低くしたことから、臨戦態勢といったところだろう。


「まぁよ。あれもこれも、無事に拝めりゃの話だ。明日のお天道さんをよぉ!」


 叫ぶや否や、両手にナイフを持ったキョウヤの姿は、一瞬にして消え失せた。

 すわ飛び掛ろうとしていた魔物は混乱し、ならばとカナタに標的を変えるが、踏み出しかけた足が根元から失われる。異能で姿を消したキョウヤが、至近距離からナイフで切り裂いたのだ。


「グルォォォォッッ!!」


 何が起こったのか分からない獣は慌てて辺りを見回し、痛みに叫ぶ口からは唾が飛び散る。しかしそれすらも、近付くカナタには一滴たりとも触れることが出来なかった。


 スッと豆腐でも斬るかのように滑らかな斬撃。あまりに自然と振るわれた刃は、魔物の体を真っ二つに斬り別けていた。

 それをやや遠巻きに見ていた魔物の群れに、僅かな動揺が走る。

 だが、魔として生まれた矜持ゆえか。それとも獣の本能か。

 毛を逆立て、目を血走らせた狂群が一斉に走り出した。

 波のように押し寄せて来る魔物の群れを前に、口にした未来を想像してしまい。

 雨宮カナタは少しだけ頬を緩ませたのだった。



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